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先週のお話です。快晴の六義園を満喫し、お腹ペコペコでランチの場所を探すことに。伊藤みゆき『紅葉も天気も絶好!六義園』12月7日の六義園。枝垂れ桜は見たことがあったけど、紅葉は初めて。番組でもチラリとお話ししましたが、前キャスターの久保田明菜ちゃんと。ピースの影は顔にかかっち…ameblo.jp六義園にいらっしゃってた人生の先輩方はとにかくお元気で、周辺地図を見ながら2駅くらい先まで歩くお話をしています。私たちも、ひと駅くらいあるくことにしました。しかもポケモンGOもやりながら
一昨日海まで散歩をした後は裏路地を通って古道具のグルニエメメさんへ。メメさんにも風遊花展のお礼に伺いました。大磯は国道沿いに寺院が点在していますがこの路地の突き当りもお寺です。お寺の上に広がる空きれいでした。山門前の墓地の中を通る細い路地。ここは行き止まりではなく地域住民の生活道路。小学生の頃下校時に正規の通学路をまっすぐ帰る子ではなかったので友人と道草しながらこの道も度々通っていました。人が一人通れるだけのこ
鳥頭神社から50分程歩いて大運寺立派な山門があります更に奥まで歩きます
仙人窟の登り口の解説板にあった「信幸は軍を仙人窟に伏せ大返しして手子丸城を奪還した。北条勢は大運寺前を西に敗走したという」の記述を確かめるために大運寺へ。大運寺は大戸の寺原に開かれて、天正年間(1573~1593)に現在地に移転した。手子丸城奪還が天正14年(1586年)だから、大運寺はすでに現在地に移っている可能性がある。ちょうど正午の鐘突きの住職がいたので伺うと、解説板に書いてあるのは史料がある事で、地区の言い伝えでは、寺原(黄色〇)から梅木平(橙〇)に移転して現在地に至る
両脇が切り立った物見台のように見える向こうの山。戦国時代には手子丸城がありました。「天正8年(1580年)城主大戸真楽斎は遠州高天神に於いて戦死。天正10年(1582年)て手子丸城も北条氏の為に落城している。(中略)天正14年(1586年)真田信幸(※)は500の騎を率い北条綱可等の2000騎と戦う。信幸は軍を仙人窟に伏せ大返しして手子丸城を奪還した。北条勢は大運寺前を西に敗走したという」※真田昌幸長男・幸村の兄。群馬県吾妻地方は戦国時代・江戸時代のはじめまで真田氏の領地でした。
叔母の薬をいただきにクリニックに行きながら大磯駅まで10分散歩。大磯駅前の坂道を海の方に下り国道に出た所を小田原方面に行くと見えてくるのが浄土宗のお寺大運寺(リンクあり)。この界隈にはお寺がとても多いんです(リンクあり)。大運寺には坂本竜馬に愛され初代衆議院議長を務めた中島信行(リンクあり)その妻で文学家の俊子日本画の安田靫彦(ゆきひこ)(リンクあり)画伯が眠っています。中島信行が衆議院議長を務めた時期貴族院議長の伊藤博文総理大臣の山縣有朋
午前中は強風に驚きましたが午後は穏やかな天気になりました。買い物の帰り道、夕陽が眩しい。夕陽の手前に「大運寺」というお寺があることに気が付き寄ってみました。私の周りには頑張っている人が何人もいます。あの人も、またあの人も頑張っている・・・・と、顔を浮かべながら。電線には小鳥が1羽。背には白い月。こんな、静かな春の夕暮れを味わうのもたまにはいいな、なんて思いつつ・・・・・。
横浜市戸塚区
ということで、福島桜ツアーの小川諏訪神社の枝垂れ桜に続ては、柳生院の枝垂れ桜です。場所はここちら。https://goo.gl/maps/qSTkygNYH4qなかなか立派な樹齢300年のエドヒガンの枝垂れ桜ですが、花はちょっと少なめですかね。続いては、住善寺です。場所はこちら。https://goo.gl/maps/3n66EM6Mh5F2ここもなかなか立派なエドヒガンの枝垂れ桜です。
石の祠・わらの祠を見た後は、大運寺へと電チャリ・ジェッター君は誘います。浄土宗大運寺(東吾妻町大戸)は寒村に似合わないたたずまいです。幕末から明治にかけて活躍した豪商・加部安左右衛門の寄進があったためです。火災に遭う前の本堂と桜は本当にきれいでした。このお寺には、大変お世話になったおじいさんとおばあさんが眠っています。そのご夫婦に、3匹の猫は元気で暮らしていますよと報告をするのと、門松を見ることが目的です。この門にも、一昨年修繕したこの門にも、鐘つき堂にも、本堂にも、