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令和6(2024)年、辰年辰といえば「龍」「龍」驤にはじまり、飛「龍」、蒼「龍」、「龍」鳳など、帝国海軍の航空母艦には「龍」の字が付されたフネが少なくありません。飛行物体を取り扱う艦種でありながら、自身も千年万年の齢(よわい)を重ねて欲しいという、艦政本部の思惑が見え隠れします。そのような艦種にクローズアップしている最中に年越しを迎えたのも、何かの「縁(えん)」かもしれません。ウィキペディアはじめ、様々な文献や記録に残っている、近代国家として歩み始めた「
昨年の夏は急な熱風にさいなまれました。枯れた木もあるし、ぶどうは体調不良だし、イチゴのランナーが干からびました。植えたものの、どうにかこの一株だけ残りました。祖父が植えて育ててきたイチゴです。60年以上もランナーを更新して生き続けています。ひとつだけ赤くなった実。あたり一面甘い匂いが立ち込めます。大事に育ててまた増やしたいと思います。海軍軍艦『日進』での一枚。一番手前が祖父。後年同郷の山本五十六も、この軍艦に勤務しています。第一次世界大戦に参戦とはいっても、東洋におけるドイ
やってみせ言って聞かせてさせてみてほめてやらねば人は動かじ大日本帝国海軍司令官山本五十六のことば。昨日。職場で先輩スタッフより4月から入ってきたスタッフたちを教育して欲しいとの要望。4月から入ってきたといえどもそれ以前は他の現場でやってきたはずなのですが、仕事っぷりがイマイチで先方が不満を募らせている模様。まずはスマホでマナーマニュアル作ってラインで通知することから始めますか
金曜日は、カレー曜日。その昔、大日本帝國海軍が洋上で曜日感覚を忘れぬよう、金曜日にカレーライスを食べる習慣ができたとのことです。この習慣は、海上自衛隊にも受け継がれております。当ブログでもこれに倣い、黒地獄金曜日企画記事として、諸国の黒カレー(レトルト)をご紹介致します。第1週の今回は博多ナイル黒カレーです。博多ナイル黒カレーは福岡県福岡市の博多にある、昭和35年創業の博多っ子に人気の高い店です。博多以外でも、テイクアウト(出前館)で扱いがあるようです。
[佐鎮/佐世保海面防備隊]曽津高崎防備衛所(乙B)鹿児島県大島郡瀬戸内町(曽津高埼)奄美大島西端の曽津高崎(そっこうざき)に、台湾航路用の灯台として陸軍省の軍事費により建設された曽津高崎灯台がある。明治28年12月着工/明治29年11月1日竣工、昭和63年に現在の灯台に建て替えられ、通称、西古見灯台。出典:鹿児島県大島郡瀬戸内町教育委員会(2017年3月)「瀬戸内町内の遺跡2」、P.46抜粋明治36年頃、曽津高崎灯台の隣に、日露戦争に備えた曽津高崎仮設望楼が建てられている(着
[佐鎮/佐世保海面防備隊]カネンテ(金子手)防備衛所(甲B)※後日、加筆します陸軍の奄美大島要塞安脚場砲台敷地内の金子手(かねんて)崎。昭和15年、ここに海軍の防備衛所の建設が開始され、昭和16年に竣工したようだ。以後、安脚場砲台地域には海軍の海面砲台(40口径安式15センチIII型砲×4)や機銃陣地もあったことから、カネンテ砲台と呼ばれていたようだ。出典:防衛庁防衛研修所戦史室『戦史叢書沖縄方面海軍作戦』P.25より抜粋昭和17年1月15日の佐鎮海面防備部隊命令31号。大
[佐世保鎮守府/加計呂麻島]海軍艦船給水ダム鹿児島県大島郡瀬戸内町三浦海軍艦船給水ダムは昭和13年夏頃、佐世保鎮守府により建設された。嘉入山から三浦(海岸)側へ流れる川を堰き止めて艦船用給水ダムに貯水した。ダム〜導水管の完成は諸説あるが昭和16年頃との説もある。出典:鹿児島県大島郡瀬戸内町教育委員会(2017年3月)「瀬戸内町内の遺跡2」、P.59ダム堤高は10m、ダム天端(上部)最大幅は約50mを数える。総貯水量は約3,000トン。約5キロ離れた軍桟橋(通称サキバル)まて
[佐世保海軍施設部/加計呂麻島]地下壕鹿児島県大島郡瀬戸内町三浦昭和15〜16年頃、加計呂麻島の三浦に佐世保海軍建築局の分局が配備された。昭和16年8月時点では、一般施設にかわる土木・建築だったが、昭和18年8月時点では砲台や陣地構築など築城施設の業務を加え、各地の海軍建築局は「海軍施設部」と改名した。昭和16年6月の総動員法による微用令により、民間企業より土木・建築技術者の徴用充員を行っている。奄美群島内では隷下の設営隊の徴用工(=軍属工員)の募集は、各町村長を通じて役場の
[第18震洋隊/加計呂麻島]格納壕群鹿児島県大島郡瀬戸内町押角(島尾敏雄文学碑公園)加計呂麻島中央部・大島海峡側に位置する呑之浦湾は、湾口より湾奥まで約1キロの入り江。ここに第18震洋隊基地が置かれた(奄美大島および加計呂麻島には3つの震洋隊が配備されている)。戦死者は戦争マラリアや他の病、空襲によるもの。第44震洋隊(奄美大島久慈):昭和20年1月25日〜55隻、178名(13名戦死)第17震洋隊(加計呂麻島三浦):昭和19年10月15日〜53隻、185名(4名戦死)第18震洋
[佐世保海軍軍需部/奄美大島]大島支庫(水溜)明治24年、奄美群島初の軍事施設(石炭庫と諸倉庫)が久慈湾に置かれた。当時は海軍省官有資産で大正12年3月に佐世保海軍軍需部の付属施設になった。明治28年に(現存する)赤煉瓦構造の水溜(標高2.9m)が桟橋とともに建設された。当時、久慈湾は石炭補給基地の基地として、また台湾航路を維持する上で重要な地域だった、とのこと。鹿児島県大島郡瀬戸内町教育委員会(2022年3月)「瀬戸内町内の遺跡3」P.49抜粋:『取水口と濾水池、そ
忘れたころにやってくる本物シリーズ。本日は、福岡県北九州市若松区の軍艦防波堤に擱座する、・旧帝國海軍駆逐艦「冬月」・旧帝國海軍駆逐艦「涼月」・旧帝國海軍駆逐艦「柳」を訪れました。これまでにご紹介してきた本物シリーズ:・戦艦『アイオワ』(アイオワ記念館乗艦)・零式艦上戦闘機複座型練習機(琵琶湖引き上げ機)・戦艦『大和』ロケ船体・零式艦上戦闘機52型(オリジナル飛行可能機)・零式艦上戦闘機62型・89式中戦車(レストア車輌)・戦艦『アリゾナ』(沈没艦上:アリゾナ記念
[紀伊防備隊]伊島防備衛所(乙)徳島県阿南市伊島町紀伊防備隊の任務は紀淡海峡(紀伊水道)の海上防備、哨戒、海上交通の保護。管轄下に5ヶ所の防備衛所(聴音所等)を持つ。太平洋戦争前から設置されていたのは友ヶ島・伊島(徳島県阿南市)・日御碕(和歌山県美浜町)。戦時中に瀬戸崎(和歌山県白浜町)・阿波大島(徳島県牟岐町)にも設置された。友ヶ島は紀淡海峡(航路幅11km)〜大阪湾に出入りする最終チェックポイントであるため、防備衛所(甲)となり、管制機雷を装備した唯一の防備衛所でもあった。伊島
[紀伊防備隊]蒲生田特設見張所(辛)徳島県阿南市椿町蒲生田紀淡海峡、四国側の最東端の蒲生田岬の沖合に伊島があり、ここに対潜見張を主目的とする海軍の防備衛所がつくられた。出典:アジア歴史センター(C08011210100)昭和20年8月31日兵器軍需品施設目録第22嵐部隊出典:アジア歴史センター(C08011206800)紀伊防備隊(3)引渡目録防衛省戦史資料室「電探関係配備一覧表」によれば、蒲生田特設見張所(辛)として新設されたが、着工/竣工など具体的な年月日は不明(昭和2
す[大阪警備府]小勝島機銃陣地(移設)徳島県阿南市橘町土井崎115-16(阿南市立ふるさと館)『阿南市立ふるさと館』の建屋の裏に、第6特攻戦隊司令部があった小勝島の機銃陣地に配備されていた高角砲台座と即応弾薬置場が保存されている。小勝島は関係者以外立ち入り禁止の島になっている。*昭和20年6月頃、橘湾内の小勝島には海軍第6特攻戦隊第22突撃隊が置かれた。阿南市資料によれば終戦時は兵士が700〜800人駐留されていた、とされる(阿南市資料)。小勝島には見張り台、銃座、司令部、兵
[徳島航空基地]②姫野隧道徳島県鳴門市大麻町姫野大森付近[徳島航空基地]①弾薬庫/送信所、からのつづき。築城年不明〜天正10年(1582年)頃にあった姫田城(現在は葛城神社)、その御堂の背後の山麓に、海軍が姫田隧道と呼ぶ格納壕群がある。引渡目録によれば坑道(隧道)は飛行機格納壕2+燃料庫11+弾薬庫3の合計16本あったようだ。鳴門JCT近くの宮尾神社から西へ歩いたが、確認しただけで数本は崩落、2本現存していた。格納庫群の坑口付近は竹藪と湿地になっていて、なかなか大変だった。
[佐伯防備隊]本部②濃岡山監視哨?など大分県佐伯市鶴谷町2-1-10(日本文理大付属高校)付近佐伯防備隊は下記の図のピンクの部分。出典:アジア歴史センター(C08011058800)引渡目録防備隊濃岡山(のうかやま/現在は濃霞山)の南西側の山腹、佐伯海軍基地(飛行場)が見える位置に、案内版によれば指揮所とトーチカがある(たぶんどちらも監視哨)。山頂には見張所があった。*監視哨?案内版では「指揮所」で濃岡山の中腹(西端)の斜面にある。施工が粗いので戦争末期につ
4月18日は大日本帝国海軍元帥海軍大将山本五十六元帥のご命日である1943年(昭和18年)4月18日零式艦上戦闘機6機に護衛されながらブイン基地へ移動中の山本の搭乗する一式陸上攻撃機はブーゲンビル島上空にてアメリカ陸軍航空隊のP-38ライトニング16機に襲撃撃墜され戦死した59歳没この事件は後に海軍甲事件と呼称されている山本の死は1ヶ月以上たった5月21日に公表され6月5日に日比谷公園で国葬が行われた墓所は多磨霊園にあり右
[佐伯防備隊]本部①濃岡山の地下壕群大分県佐伯市鶴谷町2-1-10(日本文理大付属高校)付近呉鎮守府佐伯防備隊の本部は、濃岡山(のうかやま/現在は濃霞山)の南西側の山麓、現在の日本文理大学付属高校のグランド付近から長島川沿いの狭い平地にあった。佐伯海軍航空隊と呉海軍軍需部佐伯支庁に挟まれている。佐伯防備隊は下記の図のピンクの部分。出典:アジア歴史センター(C08011058800)引渡目録防備隊濃岡山(のうかやま/現在は濃霞山)の南西側の山麓には、受信所壕や詳細不明
[佐伯海軍基地]佐伯飛行場③長島山機銃砲台大分県佐伯市中江町佐伯湾に面する佐伯陸上飛行場には、「豊後水道の上空哨戒を任務」とする呉鎮守府隷下の佐伯海軍航空隊が駐留した。佐伯空は内戦航空隊の中では館山海軍航空隊に次ぐ実戦力を持っていた、とのこと。近くには海軍の水上機用の飛行場(スベリ)もある。陸上機用滑走路:850mx50m、450mx40m水上機用滑走台:100mx50m、170mx50m出典:国土地理院1947/03/04(昭22)USA-M100-73、抜粋・加筆
[佐伯航空基地]佐伯飛行場②指揮所大分県佐伯市東浜1-6(興人佐伯工場)佐伯湾に面する佐伯陸上飛行場には、「豊後水道の上空哨戒を任務」とする呉鎮守府隷下の佐伯海軍航空隊が駐留した。佐伯空は内戦航空隊の中では館山海軍航空隊に次ぐ実戦力を持っていた、とのこと。近くには海軍の水上機用の飛行場(スベリ)もある。佐伯海軍航空隊は昭和9年2月15日開隊(昭和10年8月15日説などあり)。艦隊の出入港に合わせて豊後水道の航路警戒を行っていた。佐伯水陸両用飛行場は昭和14年12月1日に開港した。
[佐伯航空基地]佐伯飛行場①有蓋掩体壕大分県佐伯市東浜1-6(興人佐伯工場)佐伯湾に面する佐伯陸上飛行場には、「豊後水道の上空哨戒を任務」とする呉鎮守府隷下の佐伯海軍航空隊が駐留した。佐伯空は内戦航空隊の中では館山海軍航空隊に次ぐ実戦力を持っていた、とのこと。近くには海軍の水上機用の飛行場(スベリ)もある。佐伯海軍航空隊は昭和9年2月15日開隊(昭和10年8月15日説などあり)。艦隊の出入港に合わせて豊後水道の航路警戒を行っていた。佐伯水陸両用飛行場は昭和14年12月1日に開港した
[呉鎮守府]両城の百階段/二百階段広島県呉市両城1丁目(百階段)広島県呉市両城2丁目(二百階段)呉は平坦な土地が少なく、その平坦な土地は軍の施設や工廠に使われた。それゆえ山の裾野〜中腹にみっちりと住宅が建つ。明治から昭和にかけて両城地区の急傾斜地(最大傾斜45度?)が宅地化された。急傾斜地ゆえ、住人の高齢化問題、車が入らない、建て替えは困難などで空き家が多い。百階段地区百階段の地域は呉鎮守府の海軍士官・将校や軍属商人が多く住んでいた、とのこと。高さ10メートル程もある石垣を
[築城航空基地]③広末隧道格納(広末弾薬倉庫壕)福岡県築上郡築上町広末昭和17年(1942年)10月1日、海軍築城飛行場が竣工。艦上戦闘機補充要員養成航空隊としてとして築城海軍航空隊が開隊(第三艦隊附属)された。だが北方戦線の哨戒任務を負う実用機部隊に変貌し、昭和19年(1944年)2月20日第553海軍航空隊に改称。同年9月に第三航空艦隊が硫黄島進出したため、第553海軍航空隊は百里飛行場に転出するも10月1日に解隊した。築城飛行場は昭和20年3月以降、神風特攻撃隊菊水銀河隊の
[築城航空基地]②有蓋掩体壕②昭和17年(1942年)10月1日、海軍築城飛行場が竣工。艦上戦闘機補充要員養成航空隊としてとして築城海軍航空隊が開隊(第三艦隊附属)された。だが北方戦線の哨戒任務を負う実用機部隊に変貌し、昭和19年(1944年)2月20日第553海軍航空隊に改称。同年9月に第三航空艦隊が硫黄島進出したため、第553海軍航空隊は百里飛行場に転出するも10月1日に解隊した。築城飛行場は昭和20年3月以降、神風特攻撃隊菊水銀河隊の出撃などに使われた。同年8月7日には米軍の
ショッピングモールで買い物をしていたら、日本人らしき軍人の写真が飾ってあった。この人は誰、、?山本五十六さんです、、。大日本帝国海軍の連合艦隊司令長官ですね。1941年、パールハーバー奇襲PearlHarborattackを指揮しました。この人については私よりもアメリカ人の旦那のほうが詳しく知っていました。旦那が横須賀米軍基地に勤務していた部署は山本五十六さんの指令本部があった場所だったそうです。そして今は、PearlHarbor基地に勤務です。そうなると私も必然的に戦争の