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無明行識名色六処触受愛取有生老死https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%81%E4%BA%8C%E5%9B%A0%E7%B8%81無明(むみょう、巴:avijjā,梵:avidyā)-無知。過去世の無始の煩悩。行(ぎょう、巴:saṅkhāra,梵:saṃskāra)-生活作用、潜在的形成力、志向作用。物事がそのようになる力=業識(しき、巴:viññāṇa,梵:vijñāna)-識別作用。好き
【ZARD-運命のルーレット廻して】「運命の人」の…定義がわからない男、れいです(-ω-)/そんな「運命のルーレット」が、遂に廻り始めてしまった…カクヨミ連載中のノンフィクション恋物語…【藍色の月第三十章彼女の懺悔譚】藍色の月第三十章彼女の懺悔譚-藍色の月(薄川零)-カクヨムハードロックに恋をして♪来日公演が、延べ3つの恋のシナリオを紡ぎますkakuyomu.jp更新致しましたヾ(・∀・)ノ「定義がわからない」と言うよりも…一般的に言われてい
人は「私はこういう人間だ」と自分で考えるその通りのものになります釈迦(紀元前624年-紀元前595年)釈迦(しゃか、旧字体:釋迦、サンスクリット:शाक्यमुनि、Śākyamuni)は、北インド[4]の人物で、仏教の開祖。ただし、存命していた時代については後述の通り紀元前7世紀、紀元前6世紀、紀元前5世紀など複数の説があり、正確な生没年は分かっていない。姓名はサンスクリット語の発音に基づいた表記ではガウタマ・シッダールタ(梵:गौतमसिद्धार्थ
永遠の生命を通じて私たちに呼びかけを続けるお釈迦様..............久遠の仏陀釈尊.............の声、それが「法華経」です。現代においてもこの経典の影響の大きさには計り知れないものがあります。妙法蓮華経の第一章の序品をご説明します人は何度も生まれ変わる◎十二因縁「十二因縁」は人がこの世に生まれた因縁を説くものです。生命が不思議な「因」と「縁」によって母親の身体に宿り、その(果)として人は生まれます。世尊は両親から自分が生まれ、自分から子供が生まれて過去
脳内の「心」の自己組織化の円環は、十二因縁のようだと、脳外科医の浅野孝雄氏や数学者の須田一郎氏は説いている。確かに、「心」は心の中のカオスの状態から、心が発生し、アトラクターとして収束しては、またそれが連想のように転移して、心としてつながるが別のシーンとして自己組織化が起こり、自我として一連の心が出来上がっている気がする。しかしながら、その秩序は頑強でなく、「カオスの淵」で、入力と出力の微妙なバランスのもとに、動的平衡を保っているものである。特に初期の状態では、できるだけ入力のエネルギーの変異
当たり前のことではありますがつい最近になって分かったこと。頭では分かってはいたがしっかり深いところで腑に落ちて理解できたこと。よく子供の頃に、そして大人になってからも言われる言葉。相手の気持ちを理解しなさい、相手の気持ちを考えて、相手の立場になって考えて、もし自分が同じ立場だったらどう思う?私の特性もあるかと思いますが、なんとか理解しようと一生懸命頑張っても、一生懸命考えても、正しい答え、理解することは、
S567-L688-B323人は決して相手そのものを愛するのではなく、その性質だけしか愛さない。ものにしても人間にしても、人間が捉えるのは五感により情報と入力され、それが情報処理されて感情が生まれる。そういう意味では、確かに捉えられる客観は、性質であり、その人そのものではない。そもそもそれを捉える自我も、仮想的なものではないか?自我という意識は物理的な人間そのものではないのである。「愛する」といっても情報処理した結果、何らかの感情あるいは本能に基づいた欲を満たす行動の動機になるとし
2022/7/5追記無無明悟りの境地という確固たるものが存在しなければ、それに目覚めようとも目覚めていないという迷いも存在しない。亦無無明尽また悟りの境地という確固たるものはないと同時に、それが全く存在しないということもないのであれば、どこかで目覚めようとする意識が生まれるから、迷いがなくなることはない。すなわち無明は存在するとも存在しないとも言えない。乃至無老死こうして確固たる無明(迷い)がなければ、それを因にして生ずる、確固たる老いや死も存在しない。十二因縁で述べられるように、
「目覚めたものが説く大いなる智慧に到達するための心髄」この世界を自由自在にあらゆる見方ができるように道を求めてきた観自在菩薩さんは、修行してその智慧に到達した時、私たちの人間を構成するものは皆、俯瞰して見ると、どこを見ても固定化したものなどなくって、「空」という変化する姿しかないと見抜かれたそう。これによってあらゆる苦しみから解放されたんだってさ。観自在菩薩さんはお仲間の舎利子さんに言った。物質ってね、変化しないように見えるけどそうじゃないんだね。変化
ここでの「行」とは、遺伝的本能的な業ではなく、後天的に習慣によって得た業と考える。いわゆる、身業、口業、意業であるならば、それの原因は「無明」ということになる。「無明」を解消して、頭で分別して判断したものを「有る」と考えずに、無自性と捨てることができれば、身業、口業、意業はなくなり、従って、ニュートラルな識、名色、六処が実現でき、結果として、受は生まれず、取も生まれない。しかし一旦行(業)として出来た種子は、簡単には解消できないから、繰り返し繰り返し行動を示す(例えば八正道を実践する)こと
名色とは精神と肉体、すなわち主観と客観といって良い。それが生まれる前に何があるかというと、主客未分の意識、自分がいるというのが仏教の考えである。唯識ともいうが、つまり主観がベースにある。我見と身見が生まれる前に、「我」が生まれる。感覚器官からの刺激は、生理学的に見れば、「我」ができる前にあるといえばその通りである。赤子は「我」を持たなくても、感覚器官からの情報を頼りに、泣いたり、笑ったり行動を起こしているではないか?そういう意味では、「我」の前に、肉体がある、感覚器官があるという考えも正
「名色」とは、精神と肉体のことである。精神と肉体がなければ、感覚器官はない、というのも当たり前に聞こえる。いわゆる感覚器官とは、肉体(客観界)にある、感覚器官から情報が入り、精神(主観界)の境より入ってくる。その間にあるものである。すなわち、情報を捕捉する肉体と受け取る精神がないと意味がないわけで、名色は、六処の前提になるのはわかる。ここでも、前回の記事と同様、渇愛や執着に繋がる情報の捕捉を考えるとすれば、そのような六処から入ってくる情報を、ビデオカメラのようにそのまま捕捉するのではなく
感覚器官がなければ、感覚器官に情報が入ってくることもないという意味であれば、これも当たり前に聞こえる。でも、六処にも、なにかバイアスがあり、行、識、名色で決まってくるなにか方向性があり、よって入ってくる情報もフィルタリングされるという意味である。我々の六処は、例えば眼にしても、カメラのように映像をそのまま捉えるのではない。取捨選択して情報が入ってくる。それは目で情報を取捨選択しているというより、最初から取捨選択してしまう眼を持っているという方が正しいということであろう。人間が、視覚や聴覚
「接触がなければ、感受はない」、それは当たり前のようである。ただ、「愛」に繋がるような偏見のある「受」は意図的な「触」であり、それは当然自分の意思で避けることはできる。一方で、偏見のない「受」に繋がるような自然な「触」であれば、たとえば全くの不意打ちを食らったような「触」であれば、それは「受」に繋がらないと言える。その区別ができれば、前者は避けることができるかもしれない。そのような取捨選択は、「観」の瞑想で、訓練することができるのであろう。すなわち前者の「触」を受け流すことができる瞑想だ
「受」とは、単なる感覚器官における感受ではなく、自分(主観)に入ってきた情報である。すなわち主観は素の感受した情報ではなく、フィルタリングして情報を取り込んでいる。例えば贔屓のプロ野球チームの中継を見ている時に入ってくる情報と、全く関心のないチームの中継を見ている時に入ってくる情報はまるっきり異なる。人間は自分にとって都合のよい情報を取捨選択し、かつバイアスを持った見方で加工して取得しているのだ。この偏見に満ちたものの見方が、「渇愛」に繋がる。人間は、見ようとか聞こうとか意図を持って感受
何かを好き嫌いで分別して、渇愛することが、執着につながる。だから渇愛をやめれば、執着しない、それは本当だと思う。しかしだからと言って愛することをやめるのか?ここでは渇愛することが問題であるから、そうではなく友愛とか、慈悲の愛の精神で考えれば、執着の度合いも変わるし、より大我に近づいた愛であるから、苦へ繋がりにくくなるであろう。そういう意味では、ソリューションは渇愛を慈悲へ転ずるということかもしれない。でも、愛するという如何にも人間的で、モチベーティブな行動を否定する必要はないかもしれ
「取」とは、執着することである。執着することがないということは、今に全機を心がけて、刹那に精一杯生きることである。演繹的な発想で、未来の「有」を思い描いて、先の「老死」を顧みずに、煩悩や苦の除去に執着するのではなく、帰納的に、イベントドリブンに、その瞬間の最善を尽くす生き方である。そうすれば、一瞬即永遠というか、老死をもコントロールして、有ではなく、刹那x無限回という有限を無限に転ずる力があるかもしれない。「取」をなくす必要もなく、なくすことは難しい。菩提心も一種の執着であり、菩
物事が自性する、「有る」という意識は、止めることはできないと思う。確かに「自性する」と思えなければ、「生」の追求は難しい。確実に「有る」から、未来に対して目標をもち、その目標を実現するためのアクションを定義し、行動する。それが「生」の追求である。無論それは、不確実な未来の予想に基づくから、苦につながることもある。しかしながら、現在だけを考えて生きることは、特に現代社会の人間は難しいとも言えるであろう。だから仮にも有があって、生があってもよいと言える。しかし、未来のことは、外れることもあるこ
この言葉だけをみれば当たり前のように見える。「生」の否定とは不生不滅の理解といえるので、全ては不生不滅で、何一つ確実に生まれたもの、生んだものはないと理解できれば、「老死」もなくなるということになる。では「生」の否定が簡単かというとそうはいかない。それは「生」は、我々の存在の意義であり、与えられたものでもあるからである。それは「老死」にもいえる。それは決定論的な要素がつよく、それは運命として、諦めないといけない要素が強い。『被投即投企』ハイデッガーは、人間はこの世の中に投げ込まれたも
十二因縁の無明の結末の部分である。有る即ち自性するという意識は、それを持続したい、あるいはネガティブな面であれば無くしたいという意識に繋がる。それが生きる「生」ということである。自分の存在を疑わない、その普遍性を追求することになる。これを考える上で、ニーチェを例に取るとよい。生を肯定しその普遍性を仮定する。そこに存在意義を求めるのだ。ここまで、即ち11番目の「生」まで、無明が導いた行動は、大きな間違いを含んでいない。最後の「老死」が最後の大きな落とし穴となる。即ち「生」を追求してもいつかは
十二因縁、順観の続きである。「受」である意識を持って感覚を捉えると、それは渇愛、即ち好きなものを愛し嫌いなものを憎む感情に繋がる。それが煩悩への執着に繋がり、そこから逃れなくなる。そして行動を左右する。そのような行動が幻ではなく確かにあるもの、普遍的なものと考え、有ることに執着するのだ。こうして無明という単なる誤った考えが、最終的には確かに自性するものとして認識される。そして遡って受、触、六処、名色、識が自性すると錯覚するのだ。我見、身見をもつようになる。科学的医学的に見ても脳と感覚器官
名色にて肉体と精神が出来上がると、次は六処即ち感覚器官が認識される。これは外界からの情報が入ってきて、意識という主観からその境に五感が鏡として主観に映るわけである。鏡であるから、全くの五感そのものが入ってくるわけでもなく、あくまでも相対的な情報が捕捉される。だから六所より意識が先である。意識に基づいて、六処自身やそこで補足される情報を、相対的に把握するのだ。この六処も識によって異なった認識になると考えて良いと思う。例えば「なにかイライラする」という識があった時の、耳という感覚器官は、音が
輪廻転生を前提とした、十二因縁はどうも馴染めない。そうではなく、今生における、苦楽の発生の説明に使う分には、非常にいいモデルだと思う。すなわち輪廻即涅槃で、十二因縁は、輪廻を前提とした説明でなくても、適用できると考えればよいのである。どういうことかと言うと、行とは業であり、無明を縁とする生前の(3代に渡る)業のことを言うが、ここでは、本能的な、遺伝的な無意識の形成、或いは「識」が芽生える前の教育や環境と考えればよい。すなわち人間はなにかの「意識」が芽生える前に、遺伝的、環境的な影響から
【觀十二因緣品第二十六】十二支の考察と名付けられる第26章26-7如是等諸事皆從生而有但以是因緣而集大苦陰このような悩みや心痛などの苦は、「生」から生ずる者である。このようにして、因縁によって、純然たる苦の集合体が生ずる。26-8是謂為生死諸行之根本無明者所造智者所不為このように生死をなし諸行の根本の業(行)は、無明な者が作ったものであり、智慧の持った者はそれを作らない。26-9以是事滅故是事則不生但是苦陰聚如是而正滅無明を滅した時に、諸行は生じな
【觀十二因緣品第二十六】十二支の考察と名付けられる第26章いよいよ26章です!26-1眾生癡所覆為後起三行以起是行故隨行墮六趣無明に覆われている者は、三種の行為(身業、口業、意業)をなし、その業によって迷いの領域へ行く(輪廻転生する)。26-2以諸行因緣識受六道身以有識著故增長於名色行(潜在的形成力)を因とする意識(識別作用)が輪廻転生する。意識(識別作用)が転生した時に、名色(心と体)が生まれる。26-3名色增長故因而生六入情塵識和合而生於六
お釈迦(しゃか)様が衆(しゅ)生(じょう)(生けるもの)を教化救済するために娑(しゃ)婆(ば)世(せ)界(かい)に降(ごう)生(しょう)(誕生)して涅(ね)槃(はん)(入(にゅう)滅(めつ))に入られるまでの間に示された八種類の事(じ)蹟(せき)を八相成道といいます。釈迦如来降生礼讃文①降(ごう)兜(と)率(そつ)釈迦(は兜率天という天上世界で菩(ぼ)薩(さつ)の修行を重ね、あと一生したのちに応(おう)身(じん)仏(ぶつ)として成仏する「一(いっ)生(しょう)補(ふ)処(し
おはようございます。空を体現する覚者のトリです(存在自体が空しい、と言われています)。私の記憶が確かならば、昨日から「無明」について書いていた、と思う。「般若心経」では、「無無明亦無明尽」と記されている。煩を厭わず前後を引用すると、「是故空中無色、無受想行色、無眼耳鼻舌身意、無色声香味触法、無眼界乃至無意識界、無無明亦無無明尽、乃至無老死亦無老死尽、無苦集滅道、無智亦無得、以無所得故・・・・・・」という。問題の箇所「無無明亦無無明尽」は「無明は無く、また無明が尽き
おはようございます。最近家の中で、古本屋のような匂いがすることに気づいたトリです(稀覯本や金になる文献などは皆無です)。ごくたまにだが、知識の多さを指摘されることがある。「よくいろいろ知ってるねー」というのだ。そう言われても、実際あまり嬉しくない。自分より博学な人はいくらでも居るし、そもそも、「たくさん」あるはずの知識が、ほとんど生かされていないからだ。ゴミ屋敷のようなもので、モノ自体はたくさんあるが、金になるものはほぼゼロ、という状態である。むしろ撤去するのに莫大な費用
善男善女の皆様、こんにちは。この度、YouTubeにおいて、庭月観音仏教講座を立ち上げました。今回の庭月観音仏教講座では、「お釈迦さまの教え第2回縁起の法・十二因縁」を解説していきます。前回の動画で、お釈迦様さまが、樹下観耕や四門出遊という体験により、この世の一切が苦しみに満ちているという、一切皆苦の真実にたどり着いたことを説明しました。お釈迦様は、なぜ、自分が苦しみを味わうのかを考えます。その結果、自分が生まれて存在するからであり、両親家族がいたからであり、それを支え
十二因縁とは?十二因縁とはお釈迦様の説かれたお言葉じゃお釈迦様のお言葉。(一)無明*総ての物語の本質をとらえる事の出来ない精神的な盲目。無知。(ニ)行*生活のいっさいの行為。行動。(三)識*意識や物のわきまえ方。(四)名色(みょうしき)*精神と物資の両面。(五)六処*もろもろの感覚の働きを云う。(六)触(そく)*これは外(ほか)との接触による直接の感情。(七)受*他から感受して生じる感情。(八)愛*欲望。(九)取(しゅ)*