『天保七年の後半は全国的に餓死者が続出し捨て子は数知れずという悲惨な飢饉となったのである。(中略)同じ甲州でも甲府盆地の東の部分を郡内地方と言っていたが、そこで十六の宿場と近隣の農民たちが一斉に蜂起したのであった。郡内地方は甲州街道の宿場負担が嵩む一方、特産の織物が不振に陥りそれに加えて天保の飢饉に遭遇したのであった。餓死人、捨て子数知れずという惨状にあって、頼みとする甲府盆地の米穀商からは一粒の米も送って来なかった。そのために激怒した農民たちの一揆となり、それに無宿人、盗賊、乞食などが加わった