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天海(152)「慶長五年五月三日、徳川家康、陸奥会津ノ上杉景勝ノ老臣直江兼続ノ答書ヲ見テ怒リ、諸大名ニ出征ノ令ヲ下ス、徳川家康、下野ノ士伊王野資信ノ、陸奥会津ノ形勢ヲ報ゼシニ答ヘ、守備ヲ厳ニセシム。」(「史料綜覧」)直江状に目を通すと、家康は激怒し、直ちに景勝の征伐を決意した。ただし、ここまでは家康の想定通りである。景勝は前田家のように、戦わずに屈することはないであろうと考えていた。家康の頭の中には、秀吉が行った「四国征伐」や「九州征伐」の光景が浮かんでいたので
--------------------------------------------2024年謙虚に学ぶ。謙虚さも学ぶ。--------------------------------------------2023年目標を一歩高めにおくこと。向上心を保つために必要ですよね。謙虚にいきましょう。
前夜は飲み過ぎた・・・松山は大都会だからコメダがあるので、そこでコーヒーブレイクまたも路面電車富山豊橋高知長崎と路面電車巡りのようになっているが偶然であるそしてついにたどり着く最後の現存12天守城の規模の割にマイナー武将(失礼)である加藤嘉明公が出迎えてくれるみきゃんの存在感が強い松山城天守方面へはリフトを使用到達松山城どーん姫路城にも負けない城自体の存在感よ一時は脊髄腫瘍でどうなることかと思った現存12天守完全踏破だったが、こ
開店記念日のカフェで“特盛り苺パフェ”を頂いてからいざ松山城へ御姫様役“岡田結実”の乗った御神輿があっという間に大街道方面へ~~すごい人出です。“松山春まつり”で初めて“大名武者行列”に遭遇しました。追いつきましたよ~“築地銀だこ”の前で手を振ってくれました(≧▽≦)商店街を練り歩きます~すごい人だかりで前の人の携帯の画面まで映ってしまった(~o~)パフォーマー“北川聖子”さん率いる“松山神楽隊”の演舞もありました。“加藤嘉明公騎馬像”周り曇り空の元
今日のロープウェイ街はたくさんの人で賑わっていました。せっかくこっち方面へと歩いてるのだから時間あるしリフトに乗って松山城でも行こうかな?人たくさん並んでたしやめた・・・歩いてあがろ。駅舎前の坊ちゃんとマドンナ像松山城主の加藤嘉明せっかくなのでオーボンパンで美味しいパンを買って上で食べよって閉まってるしーーーー定休日だ。訪問時記事はこちら『aubonpaind'iwamoto』初訪問のパン屋さん。aubonpaind'iwamotoオウボンパンディワモトと読むらし
期間:2024/03/29〜04/10天井:300(100&200時に星4と交換可)倍率:2倍初回:半額覇)武田信玄:甲州法度次第射)北条氏綱:定礎の英主戦)長野業正:英邁の大器覇)上杉景勝:烈戦の志戦)寿桂尼:尼御台の瑞光射)加藤嘉明:沈勇の剛将武)笠原康勝:軒昂の白備え戦)安東愛季:檜山の驥足射)本願寺教如:東扶の上人星3覇)田村宗顕:機特効・参戦)島津忠恒:心眼・参星2戦)安楽兼寛:疑心暗鬼射)太田資顕:技巧家薬)石田重家:練磨©コーエーテクモゲーム
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天海(108)明知遠山隊が美濃に入った。利景は慶長元年(1596年)、恵那に遠山一族の菩提寺として龍護寺を開山している。「父上が夢枕に立って、悲しそうにしていたのです。それで菩提寺を建てることにしたのです。」と利景はしんみりと言うのだ。「そうか、オレのところにはさっぱり来ないなぁ。」と天海が言うと、「私は幼くして仏門に入ったので、人より父母を求める気持ちが強いのかも知れません。修行が辛くても、時折、訪ねてくれる父母をいつも心の支えにしていました。」と利景は
(2015年11月他ブログ掲載)3日目、最終日です。朝食はバイキング。どうしてもいつもの朝より食べ過ぎてしまう・・・予報通り朝からあいにくの小雨。この日は室内観光が多いので、前日までがいい天気でまぁよかったかな?!ホテルをチェックアウト、σ(^_^)と娘の二人分の荷物を預けます。夫はその日は仕事で別のホテルに宿泊予定。そのホテルに夫の荷物を預けた後、何はともあれまず松山城へ。加藤嘉明が1602年から26年かけて築城。(当の嘉明は完成直前に国替になっている)8合目まではロープ
2024年--------------------------------------------失業、、、こわいですよね。失業保険、、、すぐでると助かりますよね。2023年--------------------------------------------あらためて忠節をつくさせるにはこのようなビッグなことが必要なのですね。愛蔵版戦国名将一日一言Amazon(アマゾン)2,826〜3,410円
天海(85)「乱中日記」9月18日「李舜臣、北上。於外島に移動。」9月19日「李舜臣、於外島で2名戦死、2名重傷」9月20日「李舜臣、北上。法聖浦を日本陸軍が制圧。」9月21日「李舜臣、北上。蝟島で多数の避難民と避難船に遭遇。」9月22日「李舜臣、北上。古群山島に滞在」10月9日「李舜臣、右水営へ帰還。」10月11日「李舜臣、安便島へ移動。」10月29日「李舜臣、根拠地を右水営から木浦へ。」「毛利高棟文書」9月18日「藤堂ら、鳴梁海戦の戦
天海(83)「敵がわざわざ、この狭い海峡に大船で乗り込むとは思えませんね。」と宋汝淙は言った。「うむ、賊は恐らく北に向かう潮流に乗り、多くの中船で攻めてくるだろう。我らは、それを板屋船で食い止める。ここは頻繁に潮目が変わるのだ。我らにこそ地の利がある。潮流が南に流れれば、その時にこそ早船を繰り出そう。」と李舜臣は言った。この時の様子を『豊臣水軍興亡史』(山内譲)は、豊後佐伯藩毛利家に伝わる注進状を紹介している。「大船は河口に残して小関船ばかりで出撃した。「水営」とい
天海(82)左軍の秀家が南原城を落としたころ、右軍の毛利秀元も黄石山城を攻略した。両城陥落後、左軍、右軍は全州に集結して、今後の方針について協議したのである。その結果、清正や長政らの軍勢は、忠清道侵攻後、慶尚道に戻ること、秀家や義弘の軍勢は、忠清道侵攻後、全羅道の経略にあたること、船手衆は全羅道沿岸を制圧すること、などが決められた。その取り決めに従って高虎ら船手衆は、全羅道の南岸を海路西へ進むことになった。一方、朝鮮水軍は水軍統制使に復帰した李舜臣が、碧波津で反攻の
天海(81)「倭兵は南原府を陥れた。天将楊元走り還った、全羅兵使李福男、南原府使任鉉以下諸将皆戦死した。楊總兵は南京に到り、城を増築し、城外の軍馬墻には多くの炮穴を穿ち、城門には大炮三門を据え、深く塹壕を掘り、防備を厳にしたが、閑山既に敗れて賊水陸より殺到するの報道が頻々として来てるので城中の人民は逃散って、獨り總兵の率ゆる馬軍三千だけが城内にいた。」(「懲毖録」)この頃、日本軍陸上部隊は慶尚道から全羅道制圧を目指し、両道の要衝にある南原城、黄石山城を攻略しようとし
天海(80)さて、この海戦では高虎と嘉明との論功行賞を巡る対立が伝わっている。激高した高虎が刀の鍔に手を掛けると、嘉明が「それは小童がやる事だ。」と窘めた、という類の話である。ただその出典が分からないのだ。戦いの経緯も全く異なっていて、嘉明が抜け駆けした話となっている。時期としては、この漆川梁海戦のようだが、いずれにしても、とても事実とは思えないのである。まず、嘉明の言動に怒り、高虎が刀に手をかけたという逸話は「小西行長と加藤清正」が元ネタであろう。軍律に違反して単騎先駆けした
天海(79)慶長2年(1597年)6月19日、元均率いる朝鮮水軍は、命じられるままに安骨浦と加徳島の日本軍を襲撃した。しかし、この戦いで元均は日本水軍に敗北してしまうのである。しかも朝鮮水軍の幹部・安弘国までもが戦死したのであった。朝鮮水軍の目的は、明らかに対馬-釜山の補給線を断つことであった。そこで日本軍は朝鮮水軍を壊滅させるため、藤堂高虎(2,800人)、加藤嘉明(2,400人)、脇坂安治(1,200人)が釜山沖に集結したのである。日本水軍は総勢600艘余であったと
現存天守で登り石垣が残っているのは彦根城と松山城だけで、とても珍しい石垣です。本丸までの登城ルートはロープウェーやリフト以外にも歩いて登るルートが4つありますが、そのうちの1つ、県庁裏登城道から行くと、長い長ぁ〜い登り石垣(長さ230m、高さ5m)が確認できます。登り石垣って山肌に石がペタッと貼り付けてあるわけではないのですよね。普通の石垣と同じようにちゃんと幅もあって、その上には塀があり、侵入してきた敵を阻止したり攻撃できるようになってます。慶長・文禄の役の際に加藤嘉明や脇坂安治がその技
松山城天守松山城は加藤嘉明が1602年から築城を開始し、完成まで実に25年もの歳月がかかっています。築城史上最長の四国で1番大きなお城です。加藤嘉明は築城に立ち会ったこともあるといいますから、完成を今か今かと心待ちにしていたことでしょう。「あぁそれなのに」ですよ。完成直前の1627年、会津藩へ転封となってしまいました。倍以上の加増だったということです。一時は転封の話を断ったと言う説もありますから嘉明にとって加増と完成、本当はどちらが望みだったのでしょうね。しかもその後松山城に入った蒲生忠
期間:2024/01/19〜01/21天井:300(100&200時に星4と交換可)倍率:2倍初回:半額射)雑賀孫一:建角身の導光射)北条氏綱:定礎の英主射)山県昌景:初心銘記射)山手殿:婉然たる風采射)池田輝政:姫路宰相射)伏姫:仁儀八行射)猿飛佐助:神速の跳躍射)加藤嘉明:沈勇の剛将星3射)樺山善久:心眼・参射)榊原康勝:会心撃・弐©コーエーテクモゲームス
2024年1月16日--------------------------------------------暴れ人間。ほとほと困ります。人間は暴れてもらっては困ります。2023年1月16日--------------------------------------------荒馬の鑑定者として有名だった加藤嘉明。癖があることが特性だと。その癖を活かしてみろと。その度量があるのかと。いやぁ暴れ馬、、、困りますけどね。愛蔵版戦国名将一日一言Amazon(アマゾ
天海㊽朝鮮水軍の活動は秀吉の耳にも入った。6月14日、後方輸送に従事していた脇坂安治、九鬼嘉隆、加藤嘉明が釜山浦に集結した。秀吉は6月23日の書状で、この三人に朝鮮水軍の掃討を命じたのである。脇坂安治は九鬼水軍・加藤水軍を出し抜き、7月7日単独で巨勢島に出撃した。8日、脇坂水軍を発見した李舜臣は囮の船を出し、脇坂水軍を巨勢島の東に誘き出したのである。海流に乗って南下した脇坂水軍であったが、そこで56艘の朝鮮水軍の待ち伏せを受けた。脇坂水軍は忽ち窮地に陥り、多くの船が
2024年1月6日--------------------------------------------恐れますね、名声には。ちょっとびびりますよね、名声には。情けないですけどびびります。2023年1月6日--------------------------------------------藤堂高虎もかっこいいですよね。豊臣秀長の配下にもなったことありますもんね。愛蔵版戦国名将一日一言Amazon(アマゾン)1,894〜3,410円
さて、昨日『【信長の野望20XX噺】母儀天下の徳(1)』いきなりだが、今年は検索のし易さの模索等を行う予定である。パッと決まればそれで良いのだが、そうでない場合には表記を色々と変更する可能性がある。先ず、そのことを…ameblo.jpの続き。本日最初は星4薬術師京極竜子さん吟味済み『【信長の野望20XX噺】祝福の花見』さて、美女揃いだが……問題は役に立つか否かである。それでは見ていこう。今回の目玉マリアさん。生命最多敵攻防デバフ50%麻痺即死付与発生25%アップ生命力50%…ameb
期間:2023/12/26〜01/11天井:300(100&200時に星4と交換可)倍率:2倍初回:半額覇)北政所:武家内助の鑑武)淀殿:母子密着の結覇)甲斐姫:東国の明玉薬)京極竜子:落花流水薬)韶陽院:禍福得喪の憐薬)摩阿姫:窈窕の蒲柳武)加藤清正:築城安国の定射)加藤嘉明:沈勇の剛将星2射)中村一氏:堅気の心組©コーエーテクモゲームス
今年はよく城に行く!春に家康出世旅で岡崎城、浜松城、駿府城、ついでに小山城と名古屋城と回った。今回の目的地は松山ということでまずは新幹線で福山へ!福山城の伏見櫓はわが地元にあった伏見城を家光が廃城にした後に移築したといわれており、最近事実だったという証拠が出てきたとか?櫓でこれだけ立派なんだから秀吉最後の居城伏見城はさぞ立派だったんだろうな??で、こちらは再建された福山城天守で、しまなみ海道を行くと因島の山の上にお城が!因島水軍の本丸だったとか?水軍なのに海は見えない山の上とは
現役時代には、何度も松山市を訪れました。その際、松山城の存在は知っていましたが、訪れたことはありませんでした。ロープウェイかリフトでアクセスできることも知っていましたが、実際には利用したことはありませんでした。今回、往復ともにロープウェイを利用しました。今まで訪れた城の中で、最も楽に移動できたのは松山城でした。高齢者や障害をお持ちの方にもアクセスしやすい設計になっていると感じました。同じ現存する天守閣を持つ高知城、丸亀城、宇和島城と比べても、最も楽に天守閣へ行くこと
鍋焼きうどんたべてほっこりしたところでホテルに戻りチェックアウトカズさんケイちゃん夫妻がフェリーで九州に帰るので高速近くまでみんなでお見送り(ノリダーはスーパーハシゴしにお別れ)高速近くに伊丹十三記念館というのがあるらしいので行ってみることに・・・伊丹十三さんって京都の人と思ってたらお父さんの故郷松山にも住んでいたんだね?モダンでおしゃれな記念館の中は多才な伊丹さんの足跡でいっぱい!ここでまたうちの嫁が伊丹十三さんの映画を観たことがないと言い出す!(尾道での話はまた次に)俳優と
こんにちは。今年も秋がなく、一瞬のうちに冬模様に変わってしまったココ名古屋ですが、皆さまのエリアは如何でしょうか?元々季節の変わり目は苦手な私ですが、おだやかな気候を求めて先月末から今月頭にかけて四国は伊予遠征して参りました。はい。もちろん今、話題のじゃこ天も頂きましたよ。ただし、現在、写真を整理中なので、今回はダイジェスト版・コメント少な目でご無礼いたします。よろしくお願いいたします。【藤堂高虎(今治城)】【藤堂高虎(吹揚神社社務所)】(今治城御城印)
10月11日の須賀川市。須賀川はウルトラ怪獣だけではない!城もあるのですその名は須賀川城室町時代の1399年頃、二階堂行続が築城。その後、佐竹氏と伊達政宗の奪い合いに。蒲生氏郷などが城主となった後、加藤嘉明が会津藩主となって会津が中心拠点となると、須賀川城は廃城に。20世紀以降の城主はウルトラマンなのかも。笑本丸跡にあるのは二階堂神社城郭MAPこの神社は写真の中央かなり広い範囲に城郭が存在していました。城郭の北側お寺があり、いかにも
本田忠勝・福島正則・黒田長政・加藤嘉明池田輝政・細川忠興・山内一豊井伊直政、徳川家康。関ヶ原への道。こうして、石田三成を討つことが決まった。