ブログ記事83件
間違えてはいけない、対応連日、浮気に関するお悩みを頂いております。新生活が始まった季節でもあり、緊急事態であると感じ、忙しいさにかまけて更新は稀になってしまいましたが、コラムを書きます。パ−トナ−の浮気の原因が自分にあると思っている方はとても多いです。でも殆どの場合、浮気の原因は本人ではなく、浮気をした当人にあります。ここを混同していると事態は悪化の一途を辿ります。もう一度お伝えします。浮気の原因はした人にあるのです。あなたのせいではないのです。ここを
湯を沸かすほどの熱い愛2016年10月29日公開父が出奔し、休業している銭湯・幸の湯。母・双葉はパートをして娘を育てていたが、突然、余命わずかと宣告される。すると双葉は“ぜったいにやっておくべきこと”を決め、実行していく。あらすじ♨️銭湯・幸の湯を営む幸野家だったが、1年前、父・一浩がふらっと出奔してから休業していた。母・双葉は持ち前の明るさと強さで、パートをしながら娘・安澄を育てている。ある日、双葉は余命わずかという宣告を受ける。それから双葉は、“絶対にやっておくべきこと”を決め、
*家康を支えた家臣ベスト10徳川家康はよい家臣に恵まれていたと言われています。NHKの「英雄たちの選択スペシャル」では、戦国時代に詳しい歴史家や作家にアンケートを送り「家康を支えた家臣」を選んでもらったそうです。その結果、ベスト10に選ばれたのは次の通り。皆さんの予想は当たっていたでしょうか?トップは井伊直政でした。赤備え私はこの春、初めて浜松を訪れました。この家康像がある元城町東照宮(引間城跡)へ行こうとして近くの細い道を歩いていたら、こんなのぼりを見つけました。ふむ🤔、直
どうする家康石川数正小牧長久手の戦いで負けた羽柴秀吉は、手強い徳川家康では無く狙いを定めたのは…織田信雄は、羽柴秀吉に次々と支城を落とされた。織田信雄は、羽柴秀吉と和睦。*家康と相談無しで良いのか…羽柴秀吉は、信雄に家康に降伏しろ従わないと三河を火の海にすると脅かす。*信雄は、秀吉にびぴる。情けないぞ、それでも信長の子か!織田信雄から、秀吉に従うように書状が届いた。人質を出すように書いてあった。家康は、相談なしで和睦した信雄に激怒。家康は、側室お万を呼んだ。秀吉の要求に
『どうする家康』で。2回に渡って、石川数正の出奔に関する話が、放送されていましたね。家康が人質時代から支えていた、重臣・石川数正。この数正の出奔について、今年の4月、ある資料が見つかったそうで……史実は、こうして、日々、変わっていくものなんですね。8月30日に、BSプレミアムで放送された、英雄たちの選択で、ナレーションをずっと担っていらっしゃる、松重豊さん。『どうする家康』では、石川数正を演じていらっしゃいますね。今回は、そんな石川数正が取り上げられていまし
もうなんだか胸がいっぱい。数正の出奔。平山先生のツイ★「真相は不明ながら、私は『英雄たちの選択』で主張したように、徳川家中の結束を崩さぬまま、振り上げた拳を下ろさせるための出奔だと思います。」英雄たちの選択まだ見てないけど…!こんなに「あほたわけ」が刺さった回ありますか何も言わず一人で背負い、自ら悪者になった数正。「お心を縛り付けていた鎖、解いてもよろしいのでは」と忠次。殿の良き理解者、ツートップ最高か「戦なき世を作るのは…」という於愛の言葉だってなかなか言えることではない。
BSで6時からの早家康と、8時からの本家康を2回見ました。6時からの早家康で、石川数正の出奔の真意が語られたこと。そして秀吉の妹の旭姫が本妻として、家康の元に輿入れし、健気に明るく振る舞いながらも、涙を流す姿に、こちらももらい泣きしました。家康の側室の於あいの方や、母親の於大の方の後押しもあって、家康が考えを改めてくれたのは、大変良かったです。そして、旭姫のおどける様子と、人知れぬ涙は、心打たれました。素晴らしかったです。そして気になっていた石川数正の出奔の本意も語られました。
皆さぁ〜ん、大河ドラマ「どうする家康」見てますかぁ〜小牧長久手の戦いの後から始まったねってことで第33話の感想ぉ〜!今回は悩める石川数正が主役でしたね。秀吉との交渉役だった数正は秀吉と実際に話し、大阪城、街を見て、秀吉の力を知っていたんでしょう。だからと言って、この段階で家康が秀吉の臣下になるのは早計…だと思いました。数正さんは家康さんが負けるって思ったのかな…家康は秀吉の元へ養子と言う名の人質を送りましたが…それが於義丸…後の結城秀康ですね。家康の次男なのに…不運な…この頃、
「徳川の家に伝ふる古箒落ちての後は木の下を掃く」石川数正が出奔した際に、どこぞの某が面白おかしく作ったという歌らしいですが、箒=数正で、木の下=秀吉ということですから、何ともうまい歌とも言えます石川数正の出奔の理由は、家臣団の中での孤立、家康との不仲、秀吉からの調略、秀吉側の誰かとの共謀、秀吉との戦を回避させたかった等、諸説ありますが真実は本人しか分かりません今回の大河ドラマでは、どの説を取っていたのでしょうか?孤立もありそうでしたし、戦を回避させるためだったようにも見えました家康の思
こんにちは✨🙋♂️今日も安定のカンカン照り☀️🥵『どうする家康』殿と数正最後の会話って😢殿が数正の和睦案受けてたら数正は出奔しなかったんかなぁ
『嘘やろ!?数正』の回でしたね...!!先週ちらほらフラグが立っていましたが、家康家臣団の中でも一番そんな事しそうにない忠義の人、というイメージやった数正さん。家康も他の家臣達もさぞかしショックやった事でしょう...家康が平和な世界を、と言いながらまだ戦を続けようとしたから呆れて見限ったのかしら...この場合王道は秀吉、覇道は家康ちゃうん?と思ったんかしら...って最初は思ったんですが、殿との最後の熱い話し合いのシーンで、「私はどこまでも殿と一緒でござる」って2回も言いましたよね!これは
【石川数正】天文二年~文禄二年(1533-1593)鎮守府将軍八幡太郎源義家の六男義時(清和源氏義時流)の子・武蔵守義基が河内国石川郡を領し家號とす。義基から13代孫の石川助十郎忠成が家康の祖父・松平清康に仕え、片諱を賜り清兼と改名。跡を継いだ松平広忠(家康父)の側近として諸事を支配。家康が尾張から三河に帰城する際、供奉の輩(一緒に岡崎城に入る家臣)を選んで、その随一が嫡孫の数正だったという。この石川清兼の妻・妙春尼と家康の母・於大の方は姉妹。📖『寛政重修諸家譜第三』に依ると、清兼の長
第33回『裏切り者』大切な人との数ある別れの中でも過去一辛かった回かも(;∀;)殿と数正、2人が話す最後のシーン美しくて切なくてめちゃくちゃ泣けた😭なんなら瀬名の時より辛かったかも…天下を獲るあと一歩というところでの出奔それは裏切りでもなんでもなくて本当は家康のことを第一に思ってのことだったんじゃないか…と(秀吉から貰った物は置いてあったよね?)松重豊さんが松本城と大河を語る!市長との対談@松本城松重豊さんが松本城に登場!「どうする家康」で松本城城主・石川数正を演じる松重豊
こんにちは✨🙋♂️暑いね~カンカン照り☀️🥵『どうする家康』数正の出奔みんな殿の為無益な戦は止めよと‼️案外秀吉もわかってるかも?数正に無理難題言いそう殿や徳川家をバラバラにしろみたいな数正試されるやろねトレンドに石川数正🤭
殿と数正、数正と忠次…長い付き合いだけに相手のことはよく分かる。だからこそ辛いね。大阪城に出向き、大阪の巨大さ美しさ、見た者しか分からない秀吉の力を見てしまったんだね。わかる…。いつも大阪に行くと思うもん。大都会ですごい!名古屋と違う!何このデパ地下の豊富さ!ってやっぱりね、名古屋飛ばしって言葉に納得するし笑、百聞は一見にしかずなのよ。殿が「遠慮なく申せ」と言ったけど、本当に遠慮なく申したなと笑関白を振りかざす秀吉にイラつくけど(すももは真田のものですね)【🎬徳川家臣
おはようございます☕𓈒𓏸︎︎︎︎ちゃんとアドリブのセリフが流れますように!いや、思いを込めに込めたセリフ間違いなく視聴者の心に届くでしょう【松重豊さんが松本城と大河を語る!市長との対談@松本城】「どうする家康」で松本城城主・石川数正を演じる松重豊さんと市長が対談。松本城や、撮影秘話を語ります。※大河ドラマ「どうする家康」最終回までの公開です。https://t.co/7QWVrZNtEk#松重豊#どうする家康#松本城—長野県松本市(@Matsumoto_city)2023
先日自作した封筒にお手紙を入れて、これまたお手製の被り物ブラウスと共に友人でもあり、刺繍の師匠でもあるひろこさんにプレゼント🎁して来ました〜🤗しかも…共布でノースリーブのブラウスを作ったのを着て行ったんです♪プレゼント🎁の事はヒミツだったので、玄関で靴を脱いでいる時に、「あら〜また素敵な色のブラウスを着て〜作ったの?貴女の好きなガーゼ生地ね!今度私にも作ってっておねだりしようかしら?」と言った具合に持ち上げて下さいます😅それで気分良く
七月の朝,もしかするとデイヴィッド・バイロン氏(1947-1985)が『愛」を探索するため家出をしたのは,おそらく1971年頃のことと思います。ちなみに,家出をした際,いちばん鶏が鳴いておった(scarabocchio)可能性への言及も,去んじ約52年前に同時に為されているとのことです。UriahHeep-JulyMorning(2017Remaster)(OfficialAudio)Officialaudiofor'JulyMorning'byUriahHe
大河ドラマ「鎌倉殿」が終わって、「どうする家康」が始まった。初回は、「どうする桶狭間」。なんと我が信州松本城天守閣を築いた初代城主・石川数正が主役のごとく登場。▼松重豊さん演じる石川数正また、先月12月の拙ブログで、数正の嫡子・石川康長の配流地、豊後佐伯城下を訪ねたレポを書いたばかり。康長については拙著『負けても負けぬ三十二将列伝(しなのき書房)』で、石川数正については、拙著『信州往来もののふ列伝(しなのき書房)』で、渾身の思いで書いたもののふ・武将である(サリゲナクセンデン)。
三河雑兵心得:10馬廻役仁義(双葉文庫)Amazon(アマゾン)618円10巻目は、第一次上田合戦が終わってから家康が大坂城へ出向くところまでです。北条氏政と家康の黄瀬川の宴では真田の沼田領をひとまず棚上げにすることの思惑や、家康が本拠地を浜松城から駿府城へ移すことの戦略上の思惑など、茂兵衛でもわかるように書かれています。この部分は読み手に親切だなぁと、本当に思います。また大坂との取次に榊原康政を、駿府城への移転に本多忠勝を、人選した理由なども庶民目線で書かれていま
シリラ、頑張る。訓練を始めたシリだが、追われる感覚から焦りを感じていた。そんなシリをウィッチャー仲間たちは障害物コースへと誘い、ウィッチャーの厳しさを知らせようとする。一方イェネファーはティサイアのもとに戻るが…ウィッチャーⅠエルフの血脈(ハヤカワ文庫FT)Amazon(アマゾン)990円SASUKEかな?ってコースに挑戦するシリちゃん。そう簡単にうまくはいかないけど結構痛そうですね…でも諦めない。そんな姿におっちゃん連中が絆されてみんなで見物して応援してる姿。め
大雨と雷がすごいけど、皆さんのお住いは大丈夫ですか?まるっと、今日もありがとうございます✨松重さんにとって「石川数正の出奔は最大の興味、一番のおもしろみ」だそう豊臣秀吉に出奔なんて裏切りと思っていたけどなるほど!調停役✨それは面白い✧︎家康の懐の深さを描くことは大賛成です笑岡崎もだけど三河の読み方問題。10年間歴史番組をやっているけど、この間「三河」のアクセントに気づいたって。地元独特のアクセントは確かに難しいかも…笑どうする家康陣営、勉強会を開き地元を尊重✨そして松重さ
さて、昨日菊池寛の小説を「名作」と書いておきながら、実は『父帰る』さえ読んだことがなかったので(昔、文学史で習っただけ)、こちらも読んでみることに。しかし、Kindleはホントに便利ですな。本屋に行かず、Amazon.primeからワンクリックでダウンロードして、その場ですぐに読めちゃうんだから。英文をスクロールしながら読むと活字酔いしてしまうし、どこに何が書いてあったかあとから探すのが大変ですが、日本語なら大丈夫。『菊池寛作品集・86作品』がたったの200円だったので、
毎朝、着替えて洗顔して5分でソーカの散歩に出発するみんなが起きて来る前、少しでも太陽光線浴びない為、ソーカも暑いしだいたい5:40発。今日もニコさん安定の早起きで起きてまして「散歩行って来るから、ご飯待ってて」と声掛けし出発。がっ帰って来たらおらーん。靴もないーーでたーー久しぶりに探すやつでも、今回は散歩コースを追いかけて出たと想像出来たから自転車でまた散歩コースを走る走るおったおった。対岸を半袖短パンの体操服のニコ。朝はヒンヤリ寒いのにー何やら、独り言言いながら歩
1507年に細川政元が暗殺されて細川政元の3人の養子の間で細川家が分裂状態(永正の錯乱)に陥ると、足利義尹(義材)は将軍への復帰の好機と見て、1508年4月に大内家の軍事力に支えられ、細川家の後継者候補の内の細川高国らの勢力に迎えられて中国地方や九州の諸大名とともに山口から、尾道、鞆を経て海路上洛しようとします。同年4月、堺に到着。同年6月、京都を占領して11代将軍・足利義澄や細川高国と対立していた管領・細川澄元を追放し、7月には将軍職に復帰しました。15年ぶりの悲願です。しかし、これで安定し
売れっ子作家ほどちょっと敬遠してしまう癖で今まで手に取ったことの無かった作家桐生夏生さんの小説を初めて読みました。2013年発行の『だから荒野』です。どこにでもいそうな平凡な主婦が主人公が自分の誕生日に出奔してしまうお話で、家族や自分の生活に嫌気が差す40代女性の気持ちが手にとるようにわかります。確かに家族にこんな扱いをされれば家を出たくもなりますね。私自身もまだ子供が生まれたばかりの頃に私の気持ちを全く理解してくれない夫に絶望し、家を出て、ひたすら車を走らせたこ
↑↑↑短編を幾つ集めても、結局、ひとつの話になるってことかしら~~~。A1100-5【ふるさと納税】香蘭社有田焼創業400年記念万年筆染錦「遊犬の図」楽天市場1,100,000円今日のニュースで、瀬戸内寂聴がお亡くなりになったそうで。訃報って、続きますわね。テレビドラマで「女の一代記」という三夜連続特集で、瀬戸内寂聴と越路吹雪と杉村春子の伝記ドラマがございまして、瀬戸内寂聴を演じたのは宮沢りえでございました。その時の私のブ
【問題】弘治2年、上杉謙信が突如出家を宣言して出奔し、目指した先は次のうちどこか?【選択肢】厩橋城高野山本願寺佐渡島【正解】高野山【解説】弘治2年(1556)、謙信は突如出家を宣言して当主の座を投げ出し、高野山へ向かった。途中、家臣が追い付いて連れ戻したため事なきを得たが、その理由には様々な説がある。
2013年6月14日これが誰の日記なのか。もちろん実在のお方ですが、私はお会いしたことはありません。とてもとても、お会いしたかったお方です。ご存命なら、今でもお会いしたい。どういう関係の方なのか、ここに書くわけにはいきませんが、私が生まれて、一番、生まれたこと自体を「勘弁してくれ」と思い続けてる、その気持ちを、おそらく世界中で一番共有してくれる方かもしれない。悪徳の栄え・美徳の不幸ここまでタイトルを引っ張っておいて、有島武郎様の夜でも、サド侯爵の夜でもありませ
世紀末の名相齊の晏子魯が亂れて、昭公が齊に出奔したのは孔子の三十五の時であるから、孔子が齊で景公に見え、用ひられようとして晏嬰の反對に逢つたといふが、何にしても孔子の若い時のことで、老熟した晏子からすれば、後世の書先輩の簡單に臆斷を許さぬ事情や見識があつたのであらう。(4343'23)