ブログ記事385件
1月13日(土)、高校3年生は受験初日だというのに、明るいうちから呑む。もっとも、寝坊で朝飯が遅いので、夕飯に近いのだけれど。十勝の酒なので、十勝豚丼で呑みたいところだけれど、今日は、酒親子で呑もう。そういえば、高校時代、初めて「鮭イクラ」の親子丼を駅ビル食堂のサンプルで見て感心したのは、根室本線の駅だったように思う。鶏と卵じゃない親子丼があるのか、と驚いた記憶がある。帯広駅ではなくて、釧路駅だったかも知れないけれど。ともあれ、帯広畜産大学内の、碧雲蔵の地酒で流す。背景の壁紙は、【JR貨】北旭
今日は、久しぶりに、江戸時代以来という岡山名物の、大手まんぢゅう、を頂く。てのは、昨年暮れに角川文庫本化された、酒井順子の「鉄道無常内田百閒と宮脇俊三を読む」を流し読みして、久しぶりに食べてみたくなったから。酒井順子は、軽く浅い文章を書く鉄女だけれど、この本は、無駄に両先生の記述を切り裂くこともなく、何となく時系列をまとめているので、悪くない。そう、小学生の読書感想文みたいなのだ。自分もそうだったのだけれど、多くの小学生は、感想文を書け、というと、おおかた、サマリーになってしまう。この本も、
ちまちましている読書中央公論新社の酒場作品集【午後三時にビールを】今は、内田百閒のタンタルスという作品を読んでいる途中なんですがもうこの出だし一文、一節でしびれる…「私も寄る年波で、」つまり、加齢していることを指すんですがこれに必ず、大正昭和に使われて今は日常的に使わない言葉や漢字使い、ってたくさんあるじゃないですか?それがわたしは大好きこうやって、いろんな作品を読むたびにその作家さんの他の作品も読みたくなってきちゃうから困っちゃうなぁ現実を生きなくてはいけないんだけれど、
丹那を越して沼津を出て富士を出て、馴染みの由比が近くなつた。浜辺の防波堤が段段に完成して波打際を眺める邪魔になる。天気がよく波が綺麗で、繁吹きをかぶる渚の黒い岩が防波堤の切れた所から露見する。(内田百閒「臨時停車」中公文庫)
内田百閒「第一阿房列車」初出誌・小説新潮(昭和26年1月号~)平山三郎「実歴・阿房列車先生」初出版・1965年朝日新聞社より元祖乗り鉄・随筆家内田百閒と、その鉄道旅を支えた国鉄職員で編集者平山三郎。百閒が表現する平山は冷めた能吏といった感じ。しかし、その実、平山は・・・。2000年没の平山三郎は杉並区天沼に住んでいたようで、かつてその近隣に長年住んでいた私は、百聞の「天沼なんぞというところは狐狸の住むところだ」を自転車で通り過ぎる時折に思い出していました。百聞(没は1971年)は彼
明けましておめでとうございます。本年もよろしくお願いいたします。元旦の能登地震、実家に帰省中でそこでは震度4でしたが、能登では震度7の大地震。被災地の方々、被害にあわれた方々お見舞い申し上げます。また亡くなられた方に謹んで哀悼の意を表します。安否確認でき避難生活されているブロ友の方を含め、被災地の方々はまだまだ不安な辛い日々を過ごされているとか思いますが、とにかく一日も早く日常に戻れることをお祈りするばかりです。そして日航機と海保機の衝突事故、海保機の乗組員の方は残念なことになっ
23日には40センチ近くあった金沢の雪、道路はほとんど消えた。このあと正月にかけて高温が続く予報が出ており、ほっとしている。駅前の大通り、写真の前方すぐのところが金沢駅。上の写真の反対方向、ここを10分ほど行くと近江町市場である。雪は路肩に残っているだけである。内田百閒を読んでいる。金がない、金がないのはなしの連続である。前回読んだときには、嫌でしょうがなかったが、今回はそれほどでもなく、少し楽しんでいる。目を二つ入れて世に出す雪だるま迷亭ほっこ
23日(土)、朝起きたら雪が40センチほど降っていた。思ったより多かった。昼頃にでも雪かきをしようと思っていたら、近くに住んでいる息子がかけつけてやってくれた。助かった。読書、今度は内田百閒『百鬼園随筆』を読んでいる。3年ほど前に買ったもので、1回読んだがあまり感心しなかった。内田百閒は、『安房列車』の1~3巻を読んだが、こちらはかなり面白かった。本棚から取り出して読み始めると、今度はかなり面白い。なぜ内田百閒かというと、好きな漱石門下であったので読んでみようかと
その時分の電車賃は五銭であつたか、七銭であつたか忘れたけれど、ゴールデン・バツトの十本入りが五銭だつたのが六銭に値上げしたのを、バツトの愛用者であつた芥川が気にして、バツトは五銭でなければバツトのような気がしない、ねえ君さうだろうと云ったのを思ひ出す。(内田百閒「亀鳴くや」中公文庫)
前回の記事に関連して内田百閒の「山高帽子」という作品もご紹介します♪百閒と芥川龍之介が海軍機関学校の教官をしていた時代から芥川が自殺するまでを小説仕立てに描かれています。語り手となる❝青地❞が内田百閒自身で、青地の友人の❝野口❞が芥川です。青地は自分の精神状態に不安を覚えながらも、自虐や開き直りも強く、時には敢えて気の違った人のふりをすることもあります。周囲の人から変人扱いされているので益々神経過敏になっているのか、日常の風景を見ても不穏なものを感じているような描写があったり、広場恐怖症
『私の「漱石」と「龍之介」』内田百閒の随筆を集めた作品集です。前半は百閒が敬愛してやまない師・夏目漱石とのエピソードの数々、後半が友人であり同じ漱石門下生だった芥川龍之介のことを綴った随筆集です。百閒は芥川の自殺から2年後、芥川と自身とをモデルにしたような「山高帽子」という小説を執筆、その後も河童忌などに芥川との思い出を語る随筆をいくつも発表しており、それらが「私の『漱石』と『芥川』」に収録されています。中でも芥川龍之介の自殺を主として描いた「亀鳴くや」という随筆は、何度読んでも胸に迫りま
今は昔。「天声人語」で目にした文章で、忘れられない行(くだり)があります。「世の中に人の来るこそうれしけれとはいふもののお前ではなし」内田百閒の短歌です。「世の中には何がうれしいかというと、人が訪れてくることほど嬉しいことはない。しかしながら、あなたのことではありませんよ。」ということになるらしいです。太田蜀山人の狂歌「世の中に人の来るこそうるさけれとはいふもののお前ではなし」「世の中には何がうるさいかというと、人が訪れてくることほどうるさいことはない
新潟市内にある名所の一つ「萬代橋」へ立ち寄りました。昔、新潟県を訪れた小説家「内田百閒」の小説「第二阿呆列車」にも登場した萬代橋。「雪中新潟阿呆列車」によると”コンクリートの長橋”と書かれている。それ以前に新潟を訪れたときには木橋だったとのことで、当時の萬代橋が今も残っているらしく是非見てみたいと思っていました。ホテルからゆっくり歩いて10分程で萬代橋が見えてきました。堤防の幅は広く、柳の木などが植えてあるようです。ここを流れる川は「信濃川」信濃川は日本一
東京駅が出来上がってから暫らくの間は本当の広場であって(中略)道の区切りも何もなかった。自動車が氾濫する前の話だからそれでよかったのであろう。駅の人力車の外に降車口の外れに貸馬車の溜りがあった。そんな古い話ではないと思っていたが更めて思い出して見ると隔世の感がする。(内田百閒「その時分」福武文庫)
去年の秋初め、人や物の影が無闇に長くなる時分の事である。夕方少し早目に郵船会社を出て東京駅前の広場に立ち(中略)乗合自動車を待った。夕日の色がいつ迄も澄み切っている。丸ビルの横から射し込む日かげが中央郵便局の前に筋を引いて伸び、その先が東京駅の赤煉瓦に映っている。(内田百閒「西日」福武文庫)
11月22日(水)映画ツィゴイネルワイゼンシネリーブル梅田(11月21日)日活ロマンポルノ出身の鈴木清順監督の名声を確立した日活映画<鈴木ロマン3部作>の1作目(1980年)原田芳雄藤田敏八・・・日活ロマンポルノ<八月の濡れた砂>の監督俳優さんをやっていたことは、本日知った原田の妻・後妻(二役)に大谷直子藤田の妻に大楠道代ロマンを浪漫と書くモード感たっぷり和と洋の家屋敷雑音の多いレコード盤(内田百閒・サラサーテの盤)切通しの峠道砂丘でロケとおぼしき砂浜盲人
涼しくなり頭もスッキリして読書にもチカラが入ってきた。私は先日、百二十冊ぐらい内田百閒の本を仕入れたので、これから一冊一冊読んでいこうかなどと計画を立てていたが、考えてみると、古本屋なので、読むより売らないといけないのでした。(山本善行「本の中のジャズな話」「WAYOUTWESTvol176」JAZGRA)
メルカリさんの発送は通勤途中のコンビニさんで出すことが多いのですが高確率で苦手な店員さんにあたります高圧的な態度に辟易します。きょうもね。そのあとパートでいいことがあったのでメンタル元気ですみなさま。毎度ご訪問ありがとうございます読書記録です。『恢復する家族作者:大江健三郎さん大江大先生は愛媛の出身です。健常でないご子息の光さんのことを中心に書かれています。光さんには音楽の
2022年8月に出版された、宮田ナノさんの『ハラヘリ読書』を読み終わりました。本の中に登場する魅力的な食べ物たちを紹介したコミックエッセイです。森茉莉さんや平松洋子さんの、なんだかおしゃれな食生活も素敵でしたが、一番印象に残ったのは、水上勉さん。お寺で典座職に就いていたからか、自然に対するまなざしが、とてつもなく優しい。あと、夏目漱石門下だった内田百閒さんのシュークリームの食べ方の表現。クリームではなく、中の汁を啜った……って、おしゃれな洋菓子なのに、おしゃれさがまるでな
百鬼園とは、教授内田榮造、夏目漱石の門下の内田百間とのことだと読んでいるうちに感づいた。彼は、偏屈でありながらも意外と人情に溢れていたり、わけのわからないこだわりがあったりするなど親しみやすい性格だった。また、怪異や亡くなった人の話を書かせると上手い作家だ。彼は同じく芥川龍之介とも交流があった。舞台は昭和初期の神楽坂。存在が薄い大学生の甘木が、行きつけのカフェで変わり者の内田教授と親しくなる。そこから怪異な出来事に巻き込まれる。ドッペルゲンガーは、自分とそっくりの分身であり顔を合わせると死ん
何もする事がない。(中略)ただ考えている。何を考えるかと云うに、なんにもする事がないと云う事を考える。そうしてその事の味を味わう。二三度そんなことを繰り返して、いい心持でぼんやりして来た頭の中に、少しくはっきりした事が纏まり掛ける。何か食べる気はないかと云う事。(内田百閒「雷九州阿房列車」新潮文庫)
旅行に出れば私はアイスクリームばかり食べている。好きなのだろうと思うけれど、どこがどういいのか、考えて見た事もない。味もよくわからない。味わい分けたり、比較したりする事は丸で出来ない。ただ子供の時珍らしかった衛生元祖アイスクリン以来、いつでも、あれば食べたいと思う。(内田百閒「再認識」新潮文庫)
↑↑内田百閒氏の「閒」は門の中の文字は間でなく、聞でなく、月です。「閒」ってムズイ(汗(右)河出文庫さん宮脇俊三氏「時刻表2万キロ」カバーデザイン栗津潔さんカバー装画園五朗さんカバーフォーマット佐々木暁さん(左)旺文社文庫さん内田百閒氏「阿房列車」カバーデザイン田村義也さん〜〜〜〜〜〜〜〜〜さて
10月の読書メーター読んだ本の数:14読んだページ数:4017ナイス数:24伊礼智の「小さな家」70のレシピ(エクスナレッジムック)読了日:10月01日著者:伊礼智イラク水滸伝の感想大好きな高野さんの新刊。これほどの厚さの本は過去にあったかしら?ただただ圧巻。舟の作り方、運び出し方が行き当たりばったりすぎて、日本基準が果たして正しいのか考えを改めさせられる。いつものことながら外務省が警告を出すような危険な国に於いて、中に入ってしまえば意外と守られている状況を身をもって体験して
黒澤明監督による内田百閒をモチーフにしたコメディ映画。主演は松村達雄、香川京子。<雑感>あらすじは割愛。黒澤明の遺作である。おそらく最後だろうと言われていたので居住まいを正して劇場で鑑賞した作品だ。老年になってくると怒りっぽくなったり、涙腺が緩んだり、喜怒哀楽のコントロールが効かなくなるものだが、すでに老境であった黒澤が自分が自分らしくあるために選んだ題材が内田百閒。彼のエッセイは心の均衡を保つ処方箋のようなもの。晩年の題材に内田百閒を選んだと知ってなるほどと頷いたものだ。オレは山藤
内田百閒本名:内田榮造󠄁生年月日1889年5月29日(水)日干支乙巳同じ日干支の人物(ブログに掲載済みの人物)・結城晴朝1534年9月18日・前田利常1594年1月16日・フランツ・シューベルト1797年1月31日・グレゴール・ヨハン・メンデル1822年7月20日・坂本直1842年12月2日・エドヴァルド・ムンク1863年12月12日・鳩山一郎1883年1月1日・マルティン・ハイデッガー1889年9月26日・サルバドール・ダリ1904年5月11日
今の京都駅の在る所は七條駅であった。大阪と云う駅もなく、梅田駅であった。しかしこう云う話を、用もないのに(中略)持ち出すのは、一考を要する。こう云う話から、して見ると彼は余っ程の歳だなと思われるのは好ましくない。古い事は、知っていても黙っている事にしよう。(内田百閒「時雨の清見潟」福武文庫)
2023年9月23日(土)。天気曇り時々小雨。秋分の日。京王線「笹塚駅」。内田百閒の「阿房列車」に笹塚駅の出てくるくだりがあります。百鬼園先生が借金を申し込むため、笹塚に行ったという話です。その時に、百鬼園先生の教え子の状阡(じょうせん)君を笹塚駅まで連れて行きました。「きつと私は行くのがいやで、いやだからせめて途中の道連れに」しただけで、ひどい話だと思います。状阡君を「薄暗いホームの片屋根の待合小屋の腰掛けに残して」、金策の相談が済んで笹塚駅まで戻ってみると、状阡君はいなくなっていました。「
***丹頂の鶴が心字池の汀(みぎは)に沿つて、白い砂をさくさくと踏みながら、私の方に歩いて来た。群れを離れて一羽きり餌をあさつているのかと思つたところが、鶴は私の顔を見ながら、細長い頸をいつぱいに伸ばして、段段足を早めるらしい。広い庭に人影もなく、晴れ渡つた空の真中に、白い雲の塊が一つ、薮の向うの天守閣に向かつて流れてゐる。私は近づいて来る鶴に背を向けて、なるべく構わはない風を装ひつつ、とつとと先へ歩き出した。ずっと探していた内田百閒の
知らない間に、小銭入れに、「1銭銅貨」が入っていた。10円銅貨のやや小ぶりなサイズなので、10円と間違えて渡されたのだろう。最近、クレジットや電子マネーでの買い物が増えているので、「あそこか、あそこで、釣り銭に入っていたのだな」と、相手は数件に絞られるのだけれど、正規の貨幣価値は1,000分の1、とはいえ、希少性から、実質価値は高いだろう。これは文字通り、奇貨、というやつだろう。さて、この「大日本昭和11年」、とある1銭。当時はどの程度の価値があったのだろうか。宮脇俊三氏の「時刻表昭和史」(角