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さてさて……………この日は、先ほどの【村上天皇陵】にて、すでに7つの『天皇陵』に参拝して通算110陵目(124陵分の)となったが、次の目的地が111陵目となる『天皇陵』への参道に到着……………こちらは、比較的街の中にあるイメージだ石碑でも目的地が確認出来る到着したのは…………………【光孝天皇後田邑陵】京都府京都市右京区宇多野馬場町宮内庁上の形式は円丘。「小松山陵(こまつやまのみささぎ)」とも呼ばれる。【光孝天皇(こうこうてんのう)】830年ー887年日本の第58代天皇。
さてさて………………【仁和寺】から次の目的地へと向かう道中鳥居が見えてきたぞっここはノーマークだったその場所は…………………【福王子神社(ふくおうじじんじゃ)】京都府京都市右京区宇多野福王子町52せっかくなんで、もちろん参拝させていただいます光孝天皇の女御で、宇多天皇の母である班子皇后を祀る宇多天皇が【仁和寺】を開いたことから、【仁和寺】の鎮守社とされる由来によれば、前身は延喜式に名前が見える【深川神社】だったが、「応仁の乱」で焼失(1468年)したその後の寛永21年(16
文徳天皇の系譜が途絶え、仁明天皇の親王から高齢で即位した光孝天皇の系譜へ戻す。光孝天皇は仁明天皇の皇子、母は藤原総継の娘・沢子、陽成天皇が母方の伯父である藤原基経によって廃位されたのち、55歳で即位した。やがて病にて、子息の源定省を皇籍に復し立太子させ、58歳で崩御した。定省親王は第59代宇多天皇として即位する。宇多天皇の母は桓武天皇の皇子仲野親王の娘・班子(ナカコ)女王である。藤原基経の妹の尚侍・藤原淑子(ヨシコ)と親密な仲で、所生の定省王(後の宇多天皇)を淑子の猶子とす
仁明天皇は叔父に当たる淳和天皇の譲位を受けて即位した。当初、淳和天皇の皇子・恒貞親王を皇嗣に立てたが、父嵯峨天皇の崩御まもなく恒貞親王は廃せられ、代わりに仁明天皇の皇子・道康親王(文徳天皇)が立太子した(承和の変)。これは父の意思が除かれ、自らの意思が反映されたもので、道康親王の伯父・藤原良房の思いでもある。藤原良房はこの頃から次第に権勢を強め、道康親王に娘・明子(アキラケイコ)を入内させ、第55代文徳天皇が即位すると、その年に産れた第四皇子・惟仁親王(後の清和天皇)を皇
変化を楽しもうみなさん、おはようございます寒い日が続きます暖かい日もあれば寒い日もある自然です変化を楽しみましょうアリガトウ「3月4日」の國史です「宇治の平等院鳳凰堂、完成」天喜元年(1053年)藤原頼通(よりみち)は父の道長の別荘を改修し鳳凰が翼を広げた外観と大屋根に一対の鳳凰の乗った宇治の平等院鳳凰堂を完成させました頼通は絶対的権力者である道長の息子として後一条天皇(68代)の摂政後朱雀天皇(69代)と後冷泉天皇(70代)の関
2024/2/2金曜日つめた~い朝🌅昨日は快適春の陽気観音様に圧倒される話題の三ノ輪橋停留場今日もノンビリね〜♥
年明け、体にやさしいもの食べた?▼本日限定!ブログスタンプあなたもスタンプをGETしよう食べ物うんぬんより、まずは体にやさしくない生活をしています本日のアバターです。君がため春の野のに出いでて若菜つむ我が衣手に雪はふりつつ光孝天皇この歌をお詠みになった光孝天皇が即位されたのは55歳の時なので、このアバターのようにお若くはありません。ただ光孝天皇は、人柄・容姿共に優れた方で、「源氏物語」の光源氏のモデルではないかとの説もあるそうです。
こんばんは。面倒臭くて違う色のブラジャーとパンツをしていたら、『ママ、変だよ』と息子に注意されました。太宰治です。息子は私より美意識が高い。体育の前日は、すね毛の処理を私に依頼してきます。さてさて、もうすぐマンスリーDeathね今の気持ちを詠みたいと思いますので聞いてください『この世をば終わりとぞ思ふ神無月の欠けたるところばかりと思へば』by太宰道長(あゝこの世は終わりだと思うよ。10月の勉強は欠けているところばかりだ。)望月どころか、限りなく新月に近
2019/02/12配信<第58代光孝天皇>(皇子)源定省〔第59代宇多天皇〕(側近)藤原山蔭〔四条流〕(関白)藤原基経
★第五十八代光孝(こうこう)天皇は平安時代の天皇です。御父仁明天皇の第三皇子、御母は藤原澤子(たくし)。先帝陽成天皇の祖父文徳天皇の弟。天長七年(830年)生。御名は時康。在位、元慶八年(884年)~仁和三年(887年)。第五十七代陽成天皇は乱行・奇行があり群臣を悩ましたため、何度も退位を迫られ、手続き的には十七歳で譲位の形をとって退位させられたといいます。そしてこの時、譲位されたのが時康親王でした(光孝天皇)。次の天皇を決めるため太政大臣であった藤原基経が何人もの親王を訪ねるとど
本日は、奇しくも法皇、天皇でさえも世の無常を感じずにはいられなかったことが特にわかりやすい天皇の祭日が重なった日です。昔も今も、世の無常は変わりませんが、現在の私達と同じ感情を共有していたであろうことを実感しやすい天皇であるといえるかと思います。★第五十九代宇多(うだ)天皇は平安時代の天皇、菅原道真を引き立てたことでも有名な天皇です。御父光孝(こうこう)天皇の第七王、御母は桓武天皇の孫の班子(はんし)女王。御名は定省(さだみ)。貞観九年(867年)生。在位、仁和三年(887年)
昨年、196年ぶりに巡行に復活した鷹山です。御神体は鷹匠・犬飼・樽負。光孝天皇の御幸の際に、在原行平が鷹狩りをする場面を表しています。こちら側から見える御神体は鷹匠と犬飼です。扇子には鷹の紋章が入っています。もう一体の御神体、樽負がこの写真↑↑に隠れています。見つけられた人がいたら凄いです!(拡大したらわかるかも)この写真ならわかりますね?わかりづらいかな。左上、覗き見するような樽負の姿があります。画面を明るくすると見つけやすいです。こっそりと粽(ちまき)を食べている設定だ
連日、早朝から「蝉(せみ)のなき声」が鳴り止まない今日この頃🌿「蝉」といえば…百人一首10番の作者は「蝉丸(せみまる)」さん…という落語家さんを思わせるちょっと変わったお名前です。「蝉丸」は、歌を詠むときのペンネーム🖋です。実際、どういった人物だろう…と調べてみますと【生没年・人物像、ともに不詳】‼️なのでした💦しかし、古語辞典等の資料によりますと、「盲であり
小野小町さんの歌は直訳でもしっかりと意味が通るうえに、「和歌コード訳」でも何通りもの意味がでます。そのうえ、その訳のどれもが現実に彼女の言いたいことと合致していて「作り話」や「夢物語」や「単なるイメージ」などではないところが素晴らしい❣️✨何種類も訳ができてそのうえどれもきちんと意味と内容が当てはまる…って❣️神業デスやんっ😊🌟👆「百人一首」のこの歌👆は直訳のほかに2つの「和歌
「百人一首」を1番から順番に100番まで全て読み解けたので全部の歌を読み返してみました…👀藤原定家が何を意図して「この百首」を選んだのか…❓「各天皇の御代に起きた出来事をまとめる」以外にもナニカ、ほかに「伝えたいメッセージ」があるような気がするのです…まだそれが見えてきませんのでもう少し、時間をかけて考察していきたいと思います🍀百首、全て読み返してみて、ワ
本日は旧暦の端午の節句ですが、貞観九年(867年)五月五日は光孝天皇の第七皇子定省(さだみ)王が誕生された日です。*単純に旧暦に当てはめています。『明日は旧暦端午の節句・・・菖蒲湯と菖蒲枕と三日月』本日は旧暦の五月四日なので、明日は旧暦での端午の節句の日となります。古来、宮中では端午の節句の前日に菖蒲(あやめ)と蓬(よもぎ)が献上されました。菖蒲や蓬は、…ameblo.jp光孝天皇は、第五十四代仁明天皇の第三皇子の時康親王で、兄である第一皇子の道康親王が天皇になられていました(文徳
○『仁和寺にある法師』ツアーを始めるに当たって、どうしても考えておかないといけないのは、文学との関係である。それは、単に、『仁和寺にある法師』の出典が「徒然草」にあるからだけではない。その奥はかなり深い。そういうふうに当古代文化研究所では考えている。○したがって、どうしても、『仁和寺と古今和歌集』から、話を始める必要がある。それ程、仁和寺と古今和歌集とは関係が深い。第一、「仁和の帝」と呼ばれているのが光孝天皇なのであるから。○桓武天皇が平安京遷都を行なったのは、延暦13年10月22日(西暦7
日本料理中興の祖、庖丁式の始祖、として業界の中では認識されている「藤原山蔭」について、もっと詳しく知ろうとするシリーズ。(山王総本宮日吉大社西本宮竃社奥庖丁塚庖丁納めの儀)光孝天皇と藤原山蔭について真贋藤原山蔭が庖丁式を創始した所以は、光孝天皇の御前にて「鯉の庖丁式をして見せた」とするエピソードに求めるものが多い。我ら清和四條流においても、四條流を源流にするゆえにそれを従来踏襲してきたわけである。だが前回のブログに記したように、このエピソードは藤原山蔭の時代より約250
37白露(しらつゆ)に風の吹きしく秋の野はつらぬき止めぬ玉ぞ散りける文屋朝康(ふんやのあさやす)【出典】『後撰集』巻六・秋中・308「延喜御時歌めしければ・文室朝康」【参考】この歌は、「寛平御時后宮歌合」の歌で、「延喜御時歌めしければ」は、誤りであるとされる。(『最新全訳古語辞典』・東京書籍より)++【口語訳】(『最新全訳古語辞典』・東京書籍より)++葉に置く白露に風が吹き付ける秋の野は、さながら緒(お=糸)で貫き留めていない珠玉が乱れ散って
夜中には強い雨になっていたが、目が覚めたころにはその雨も何とか降り止んでいた。その後は徐々に天候が回復に向かい、昼食の後は外出しようという気になるほどだった。ただ、そんなに遠くまで行くのも気が進まなかったので、〝市バスの旅〟のような感じで、一度行ってみたいと思っていた神社を訪れてみた。京都の市街地で言えば、北西の端っこと言える場所に「福王子」という交差点がある。東へ行けば御室仁和寺、西へ行けば広沢池から嵯峨野、北へ行けば高雄神護寺から京北方面。その交差点に面して建ってい
23月見れば千々(ちぢ)に物こそ悲しけれ我身ひとつの秋にはあらねど大江千里【出典】『古今和歌集』巻四・秋上・193「是貞の親王の家の歌合の歌」大江千里++【口語訳】(『最新全訳古語辞典』・東京書籍より)++月を見ると、心も千々に乱れてもの悲しいことよ。私一人だけに訪れた秋ではないと分かってはいるが。++++++++++++++++++++++++++++□□□□□□□【和歌コードで読み解いた新訳】□□□□□□□(※『和歌暗号(
22吹くからに秋の草木のしをるればむべ山風を嵐と云ふらむ文屋康秀【出典】『古今和歌集』巻五・秋下・249「是貞の親王の家の歌合の歌」文屋やすひで++【口語訳】(『最新全訳古語辞典』・東京書籍より)++吹くやいなや秋の草木がしおれるので、なるほど、それで山風を嵐(=荒らし)というのであろう。++++++++++++++++++++++++++++□□□□□□□【和歌コードで読み解いた新訳】□□□□□□□(※『和歌暗号(わかコード)
21今来(こ)むと言(い)ひしばかりに長月(ながつき)の有明の月を待ち出(い)でつるかな素性法師【出典】『古今和歌集』巻十四・恋四・691題知らず・そせい法し++【口語訳】(『最新全訳古語辞典』・東京書籍より)++あなたが「すぐに行くよ」と言ったばかりに、あなたの来るのを待ち続けて、陰暦九月の長いこの夜をとうとう有明の月が出る頃まで、待ち明かしてしまったことよ。++++++++++++++++++++++++++++□□□□□□□
18住の江の岸に寄る浪(なみ)よるさへや夢の通路(かよひぢ)人目よくらむ藤原敏行朝臣【出典】『古今和歌集』巻十二・恋二・559。「寛平の御時后宮の歌合の歌」藤原敏行朝臣++【口語訳】(『最新全訳古語辞典』・東京書籍より)++住之江の岸による波のよるではないが、夜の夢の中での恋の通い路でまで、人目を避けようとするのだろうか。++++++++++++++++++++++++++++□□□□□□□【和歌コードで読み解いた新訳】□□□□□□□
君がため布団の中にて我慢するわが腹の虫グウグウ鳴りつつ(百人一首の本歌取りやで)笑ワイママちゃんのご期待に応えて我慢しているのを歌ってみました✌️
《新古今和歌集・巻第六・冬歌》574寛平御時、きさいの宮の歌合に読人しらず神無月時雨(しぐれ)降るらし佐保山(さほやま)の正木(まさき)のかづら色まさりゆく☆☆☆☆☆【新編日本古典文学全集「新古今和歌集」☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆(訳者・峯村文人・小学館)の訳】☆☆☆☆☆☆☆☆寛平の御代、后の宮の歌合に読人しらず神無月のこのごろ、時雨が降るらしい。佐保山の正木のかずらの紅葉の色が濃くなっていくことだ。☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆
15君がため春の野に出(いで)て若菜つむわが衣手に雪はふりつつ光孝天皇【出典】『古今和歌集』巻一・春上・21。「仁和の帝、親王におましましける時に、人に若菜たまひける御歌」++【口語訳】(『日本古典文学全集』(小学館)より)++仁和の帝(光孝天皇)が即位なさる前に親王でいらっしゃった時に、ある人に贈られた若菜に添えてお詠みになった歌あなたに差し上げようと思って春の野に出て若菜を摘んでいると、袖には雪が降りかかりますが、それを我慢して摘んだのが
14陸奥(みちのく)のしのぶもぢずり誰ゆゑに乱れ初めにし我ならなくに河原左大臣(かはらのさだいじん)【出典】『古今和歌集』巻十四・恋四・724。伊勢一。題知らず・かはらの左大臣・源融。++【口語訳】(『最新全訳古語辞典』・東京書籍より)++陸奥の信夫(しのぶ)で産するしのぶもぢずりの乱れ模様のように、いったい誰のせいで心が乱れようとしているとお思いでしょうか、私ではなく、ほかならぬあなたのためにですよ。++++++++++++++++++
13筑波根(つくばね)の峯(みね)より落(おつ)るみなの川(がわ)恋ぞつもりて淵(ふち)となりける陽成院【出典】『後撰集』巻十一・恋三・776。「釣殿(つりどの)の内親王につかはしける」陽成院御製++【口語訳】(『最新全訳古語辞典』・東京書籍より)++筑波嶺の峰から流れ落ちる男女(みなの)川が、始めはわずかな流れであっても、ついには深い淵となるように、あなたを思う私の恋心も積もり積もって淵のように深くなりました。++++++++++++++
9花の色は移りにけりないたづらに吾身(わがみ)世にふるながめせしまに小野小町【出典】『古今和歌集』巻ニ・春下・113。題知らず++【口語訳】(『最新全訳古語辞典』・東京書籍より)++春の長雨に桜の花は盛りを過ぎ、すっかり色褪せてしまいました。その桜の花のように、恋の思いに沈んで、雨をぼんやりと眺めている間に、私の容色もすっかり衰えてしまいました。++++++++++++++++++++++++++++□□□□□□□【和歌コードで