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皇極天皇(第35代)と乙巳の変~建国後、はじめての譲位令和改元という節目の年に、歴代天皇の事績をふりかえります。今回は皇極天皇と乙巳の変天皇をお届けします。rekishikaido.php.co.jp643年(皇極天皇2年4月28日)のきょうは皇極天皇が、大和国飛鳥板蓋宮に都を遷された日です。なお、その場所は蘇我入鹿が殺害された乙巳の変が起きた場所でもあります。5月21日-Wikipediaja.wikipedia.org小学生の頃の思い出で1番印象に残ってい
大化の改新(3)https://dic.nicovideo.jp/?from=header大化の改新とは、中大兄皇子(天智天皇)と中臣鎌足が645年の乙巳の変をきっかけに始めた、古代日本の政治改革である。二人は遣唐使から伝わった唐の律令政治を取り入れ、以後武士の台頭が起こるま...nyabecch.blogspot.com大化の改新(3)-日本史nyabecch.blog47.fc2.com
《2024年GW旅行in明日香村その4》今年のGW旅行。昨年と同じく、奈良県へ。今年は飛鳥・白鳳文化を感じに明日香村へ行ってきました。その3の石舞台古墳から丘を降りていき、気持ちの良い風を受けていると飛鳥宮跡がありました。こちらは板蓋宮の跡の様。蘇我蝦夷が中大兄皇子と中臣鎌足に首を打たれた乙巳の変が起きた現場になります。私の学生時代では、乙巳の変も含めて大化の改新と習った記憶がありますが、息子の教科書を見せてもらうと政変とその後に起きた行政改革は別物とされています。蘇我蝦夷
大化の改新(2)乙巳の変蘇我氏は蘇我稲目、馬子、蝦夷、入鹿の四代にわたり政権を掌握していた。中臣鎌足(後の藤原鎌足)は、蘇我氏による専横に憤り、大王家(皇室)へ権力を取り戻すため、まず軽皇子(後の孝徳天皇)と接触するも、その器ではないとあきらめる。そこで鎌足は、中大兄皇子に近づく。蹴鞠の会...nyabecch.blogspot.com大化の改新(2)-日本史nyabecch.blog47.fc2.com
☆仏陀寺古墳(伝蘇我石川麻呂墓)河内国石川郡大阪府南河内郡太子町山田2900(仏陀寺境内)(P有)蘇我倉山田石川麻呂の伝承墓。古墳の概要は案内板を写した下部写真に委ねます。蘇我氏の根拠地であった河内国石川郡、その郡内の「磯長郷(しなが、古代は科長郷とも)」。「二上山」の河内側西麓、最古の官道「竹内街道」沿いに位置します。付近には蘇我氏と血縁関係のある敏達天皇陵・用明天皇陵・推古天皇陵・孝徳天皇陵、さらに聖徳太子御廟と王陵が密集する地。蘇我氏の本貫地は大和国高市郡の「曽我村」
情けないなるさんそしておわた雅子愛子の専横の酷さよ!なぜ愛子がその席に?そこにどんだけ居座ろうと愛子は天皇になれない悪あがきもここまでくるとお笑いですな😤荷物席に収まる天皇の情けないこと第一席に座る愛子の図々しさおわた雅子🤮過去おっとこれは最近の🤮今まではこちら側から撮影英国に行く前に熊本に行き謝罪してきたら?心霊写真あのさこういう類いは海外でも知られているのですわそろそろ乙巳の変が起きるかもね??↓中身のある事が何一つないのでこういう半島脳の
「アテラ」1漢委奴国と邪馬台国と日本国川崎一水「日本」という国号は、文武天皇4年・西暦700年に完成した令11巻とその翌年の大宝元年・西暦701年に完成した律6巻からなる大宝律令に定められた。それまでは「倭」であった。しかしその名も実際には国名ではなく、その時の中国からそう呼ばれていたというだけのものであった。そして唐の時代に編纂された『翰苑』には後漢に朝見した倭の王は「倭面上国王帥升」であるとある。つまり、唐の時代には「倭面上」があったことにな
乙巳の変(4)https://dic.pixiv.net/大化の改新の先端を切った暗殺事件。概要時は西暦640年代。当時の朝廷は聖徳太子というやかましい優等生が死んで以来、蘇我蝦夷・入鹿親子が掌握していた。蘇我親子は、聖徳太子の息子である山背大兄王を始末し、時の天...nyabecch.blogspot.com乙巳の変(4)-日本史nyabecch.blog47.fc2.com
こんにちは。ハイ・パイン・サンキュー!です。いつもとなりのかがわさんをお読みくださり、ありがとうございます。昨日、四国南西部で大きな地震がありました。被害にあわれた方にお見舞いを申し上げます。家族三人ともスマホを眺めていたら、同時にびりびりと振動が起こり、「ビィビィビィ、地震です」と緊急地震速報が出たので、少し驚き慌てました。一応机の下に隠れたのだけれど、地震速報の数秒後に揺れが来ました。テレビをつけたり、金魚の水槽を持ってみたり、いざという時にはなかなかあれこれしてしまう
「閑話休題」(六四)一,昨年から「乙巳の変」の検討を進めてきたが,大きな壁にぶつかり,筆が止まってしまった。「変」の標的となった「蘇我氏」に対し,その立ち位置を示すための明確な論拠となるべき史・資料を見出すことが困難となっているためである。既に拙論:「物部・蘇我の抗争」論で,物部守屋が討伐された舞台は北部九州であり,その本来の目的は「九州王朝」による物部氏支配の「竹斯国」の奪還にある,との見解を述べてきた。この点から論を進めるならば,「変」のもう一方の主役である「
【中大兄の殺戮の先にある天皇家の安定政権】中大兄の殺戮のうち、蘇我倉山田麻呂事件、有間皇子事件の密告者は蘇我氏系だった。言うまでもなく乙巳の変で中大兄は蘇我氏本宗家を滅ぼした。この時も蘇我倉山田麻呂を味方につけている。蘇我氏の内部分裂を利用して乙巳の変を起こし、弱体化した蘇我氏残党を配下に入れて次々と政敵を倒していく構図が見えてくる。天武天皇は八色の姓を制定したが、最上位の「真人」を側近13氏で固めて、次位の「朝臣」に蘇我氏の血脈に近い氏族の多くを配当している。依然として強
乙巳の変(2)蘇我入鹿暗殺神祇を職とする一族の中臣鎌足は、蘇我氏の専横を憎み蘇我氏打倒の計画を密に進めた。鎌足はまず軽皇子に接近するが、その器量に飽き足らず政変の中心にたりえる人物を探した。法興寺の打毬で、中大兄皇子の皮鞋が脱げたのを鎌足が拾って中大兄皇子へ捧げた。これが縁...nyabecch.blogspot.com乙巳の変(2)-日本史nyabecch.blog47.fc2.com
【大化改新推進体制】孝徳紀は、乙巳の変の後に孝徳天皇が即位し中大兄を皇太子、阿倍内摩呂臣を左大臣、蘇我倉山田石川麻呂臣を右大臣とした体制で大化改新を進めることになる。孝徳は舒明天皇の息女である間人皇女を皇后、阿倍倉梯内麻呂大臣の息女小足媛と蘇我山田石川麻呂大臣の息女乳娘を妃としている。小足媛の所生に次の犠牲者となる有間皇子がいる。【左大臣薨去と右大臣の謀反発覚】孝徳紀では十数条の改新の詔が記述された後、大化五年三月十七日条に阿倍大臣の薨去記事が載る。ひととおりの葬儀が
乙巳の変(1)乙巳の変(いっしのへん)は、飛鳥時代645年(乙巳の年)に中大兄皇子・中臣鎌足らが蘇我入鹿を宮中にて暗殺して蘇我氏(蘇我宗家)を滅ぼした政変。その後、中大兄皇子は体制を刷新し、大化の改新と呼ばれる改革を断行した。蘇我入鹿が殺された事件を「大化の改新」と言うことがあるが、厳密に...nyabecch.blogspot.com乙巳の変(1)-日本史nyabecch.blog47.fc2.com
【乙巳の変の背景】『日本書紀』に出てくる中大兄の最初の殺戮は「乙巳の変」である。乙巳の変に至るいきさつについては、書紀の記述を素直に読むことはできない。舒明天皇が崩御し皇后の皇極天皇が即位すると、山背大兄と古人大兄が皇極の次の皇位に就くための争いを始める。蘇我入鹿は古人大兄側に付いて山背大兄を攻撃し撲滅する。聖徳太子の血脈がここで途絶えることとなる。古人大兄を担いだ蘇我氏が、まるで天皇になったかのようにふるまうのはここから。その状況を見ていた中大兄は中臣鎌子(後に鎌足)と知己
お読みいただきありがとうございます。人生の彩どり師・関みゆ紀です。おわりははじまり-164「プトレマイオスのルートを確保せよ-FFJTI9」の続きとなります。2022年令和4年寅年を基軸にした物語です。2024年に改めて「真意・深意・神意」を掘り下げています。「不親切にもほどがある時間旅行のツアー(日記)」です。略して、F(不親切にも)F(ほどがある)J(時間旅行の)T(ツアーは)I(いかが?)10の巻でございます。【令和4年8月5日】西の白虎むーらんから2024年2
お読みいただきありがとうございます。人生の彩どり師・関みゆ紀です。おわりははじまり-161「手出しも口出しもしないけど観てる-FFJTI7」の続きとなります。2022年令和4年寅年を基軸にして、ストーリーが進んでおります。過去(歴史)を掘り下げて、解決の糸口を見つけることが、未来のルートを確保することになります。「不親切にもほどがある時間旅行のツアー(日記)」です。略して、F(不親切にも)F(ほどがある)J(時間旅行の)T(ツアーは)I(いかが?)8の巻でございます。
お読みいただきありがとうございます。人生の彩どり師・関みゆ紀です。おわりははじまり-160「西の白虎とあおによし-FFJTI6」の続きとなります。2022年令和4年寅年を基軸にして、ストーリーが進んでおります。過去(歴史)を掘り下げて、解決の糸口を見つけることが、未来のルートを確保することになります。「不親切にもほどがある時間旅行のツアー(日記)」です。略して、F(不親切にも)F(ほどがある)J(時間旅行の)T(ツアーは)I(いかが?)7の巻でございます。【令和4年7
お読みいただきありがとうございます。人生の彩どり師・関みゆ紀です。おわりははじまり-159「おやまの横目がもう流れない-FFJTI5」の続きとなります。2022年令和4年寅年を基軸にして、今回は2024年と交差しながら、ストーリーが進んでいきます。「不親切にもほどがある時間旅行のツアー(日記)」です。略して、F(不親切にも)F(ほどがある)J(時間旅行の)T(ツアーは)I(いかが?)6の巻でございます。【令和4年7月1日,5日&6日】猫満福庵へ訪れた翌日の7月5日に
斉明天皇元年(655年)一月三日、皇極天皇が飛鳥板蓋宮にて再び即位されました(斉明天皇)。旧暦では本日は1月3日ですので1369年前の本日ということになります。※古来より何度も改暦がされていますので単純に旧暦にあてはめています。これは史上初の重祚ですが、重祚は後の孝謙天皇が称徳天皇として重祚された2例しかなく、両方とも女帝です。孝徳天皇が即位されたのは、乙巳の変の直後、皇極天皇が史上初の譲位をされたことによるものでした。これ以降光格天皇まで五十四例の譲位が行われています。(北朝は除
乙巳(イッシ)の変です。昔は、ただ「大化の改新」の一環という扱いでした。今、中大兄皇子らが蘇我入鹿を殺害した645年の事件は「乙巳の変」と呼び、翌年の改新の詔から始まる一連の政治改革を「大化の改新」と呼んでいます。が、やっぱり何となく一緒くたですよね💦乙巳の変のイメージって、たぶんコレだと思うのですが、どうですか?もちろん、普通は教科書には載っていないと思うんです。わたしはウィキで見ましたwww「乙巳の変」と「大化の改新」。けど、唯一掲載している教科書を見つ
よく見るテレビ番組は?*英雄たちの選択*ネコメンタリー猫も、杓子も。▼本日限定!ブログスタンプあなたもスタンプをGETしよう私は毎朝、新聞のテレビ欄のチェックをします。見たいテレビ番組は事前に予約していますが、モレはないかとか、他に何かおもしろそうなものはないかのチェックです。😙👍私はテレビ好き。見る番組はNHKが多いけど、民放も見ますよ。では、私が好きな番組を2つ挙げますね。*英雄たちの選択(NHKBS)(番組HPから画像をお借りしました。)歴史の番組です。
中大兄皇子(なかのおおえのおうじ)が中心となって蘇我大臣(そが・おおおみ)家の蝦夷(えみし)・入鹿(いるか)父子を滅ぼした古代の政変が大化の改新のクーデター。その年、西暦645年の干支をとって乙巳(いっし)の変とも呼ばれます。皇子は外交使節を迎える宮中の儀式の最中、皇極天皇が臨席する前でみずから刺客として入鹿に斬りかかり、見事に仕留めています。入鹿は息絶える前、天皇に「私に何の罪がありましょうか」と訴え出るが黙殺され、その後、父の蝦夷も自邸で自害して果て、飛鳥時代の朝廷
202312/30実施のTOLANDVLOGオンラインライブ第一部神々の系譜今見終わりました。(早よ見たかった家族の冬休み中は無理でした)もうありがとうです!いろいろとスッキリーの、ビックリーの、ウレシーで、あたしゃシアワセです。「雲は完璧な姿だと思う...」ブログと、「ノナの家」ブログのコメント欄から出会えたTOLANDVLOGさん。myブログに初出はコレ↓。『1107#最近の学びはペンキ画家ショーゲンさん』ペンキ
今年の抱負を宣言しよう!▼本日限定!ブログスタンプあなたもスタンプをGETしよう•••••cut•••••646年(大化2年)1月1日、大化改新の詔が出される。→乙巳の変で蘇我氏が滅び、飛鳥から難波に都が移され、新しい政治方針が発表されました。公地公民制や、新しい税の制度などが決められました。•••••cut•••••
歴史フリークではないけれど…いつの時代が面白い?そう聞かれると『飛鳥時代』とそう答えます。そんな飛鳥時代の大事件の発端となったそんな場所を訪ねました。燃ゆるモミジの談山神社石舞台で有名な明日香を通り山中に分け入ると『多武峰』。多武峰(とうのみね)という語感というか、響きがなんか好き。そんな多武峰に佇む神社談山神社紅葉で有名な神社でもありますね。この時期普段は静かな神社も多く
★第三十六代孝徳天皇は飛鳥時代の天皇、(大化の)改新の詔を発した天皇です。御父は敏達天皇の皇子である押坂人大兄皇子の王子茅渟王、御母は欽明天皇の第六皇子である桜井皇子の王女の吉備姫王の第一王子として誕生。同母の姉は皇極(斉明)天皇です。御名は軽皇子(かるのみこ)。推古天皇四年(596年)生。在位孝徳天皇元年(645年)~白雉五年(654年)。皇極四年(645年)六月、大極殿にて中大兄皇子と中臣鎌子(のちの鎌足)が、蘇我入鹿を誅殺しました。翌日にはその父の蝦夷も自害(乙巳の変)し、翌翌日
ミニバスケットボールの練習に二人しか来ませんでした。こんなことが起きるようでは先が思いやられます。もっとも、僕の目的は子供たちと遊ぶことです。一人でも来てくれたら、その日はそれで事が足ります。僕を含めて三人でバスケットはおもしろくありません。運良く運動場が空いています。いつもは野球チームが練習をしているのですが、その日はよその野球場で試合でもやっているのでしょう。子供たちの希望により外で遊ぶことにしました。フリスビーやラグビーボールでしばらく遊んだあと、ブランコに乗りました。三
さてさて………………西国三十三所番外札所である【元慶寺(がんけいじ)】を出発し、我々が次に到着したのは、この日最後の目的地となる………………【天智天皇山科陵】京都府京都市山科区御陵廟野町こちらも、ココロ念願の初めての訪問となる【天智天皇(てんじてんのう)】626年ー672年日本の第38代天皇。奈良県民のココロからすると、中大兄皇子(なかのおおえのおうじ)としての名前のほうがしっくりくる中臣鎌足とともに『大化の改新』を行った事で知られる。また、天智天皇の弟で知られる天武天皇は、
今回は、不比等が作った幻想の国「日本」(その5)として、近江(おうみ)朝編をお話しします。「近江朝」という言葉を聞いた事が無いという方もいらっしゃるかと思います。近江朝とは、天智天皇が近江(現在の滋賀県大津市)に遷都(667年)してから、壬申の乱(672年)で敗れるまでの5年間を指します。大和政権が近江を都としたのはこの時だけで、特徴的なことだったため、「近江朝」と呼ばれることになったようです。今回は、近江朝編として、645年の「乙巳の変」後に起こった、以下の①~⑩の出来事についてお話しす