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趙高の死から、時間を遡り、視点を秦から、叛乱軍に移す。「中国史上最初の農民の叛乱」、陳勝・呉広の乱が、勃発したのは、紀元前209年である。以降、中華世界において、農民の叛乱が、王朝を滅ぼすことが繰り返された。新末の赤眉の乱、後漢末の黄巾の乱、唐の末の黄巣の乱、明の末の李自成の乱等、農民の叛乱が、統一王朝を滅亡させたのである。「中国史上最初の農民の叛乱」を起こしたのが、陳勝である。南陽郡陽城県の出身であり、陳勝は、若い頃は、日雇い農夫をしていた。過去に、自身の雇い主に対して、大きなことを
趙高は、胡亥の死体から、玉璽を奪うと身に帯びて、秦の帝位に就こうとしたが、側近、百官は、趙高に従わなかった。秦帝国の臣下達は、暗愚であるが、秦の王族の血脈の胡亥に従ったが、王族ではなく、宦官に過ぎない、趙高を皇帝と認めなかったのである。趙高は、殿上に登ろうとしたが、宮殿は、三度、崩壊しようとした。趙高は、天が、自分に味方せず、自分が、支配者になることを秦の群臣が許さないことを理解した。この時、趙高は、楚の劉邦軍と密かに内通を画策していたが、劉邦からは、全く、相手にされなかった。
趙高は、閻楽、趙成に対し、「陛下は諫言を聞かず、この事態の急変の責任を我々一族に負わせようとしている。私は、皇帝を替え、後継に公子である、子嬰を立てたい。子嬰は、仁篤あり、控えめな人柄で、民も皆その言をいただいている」と述べた。三人の謀議により、趙成に内応させ、宮中に敵が来たと称して、騒ぎ、閻楽が、役人達を呼び出した。そして、閻楽が、兵士達を率いて、敵を追いかけさせるようにした。趙高は、閻楽の母を脅かし、趙高の屋敷へと連れ出して、人質とした。趙高は、閻楽に千人余の役人・
相田公弘中国の歴史書「列子」に、面白いお話がありました。今から2500年ほど前に書かれた書物ですが、今の世でも通ずる学びがありますね♪_______酔っぱらいが車から落ちた時、けがはしても死ぬほどのことはない。同じ人間のからだでも酔った時は軽くてすむのはなぜか。無心の境地にいるからである。車に乗ったのも知らない、落ちるのも知らない。...www.facebook.com相田公弘2024/5/206:47中国の歴史書「列子」に、面白い
NHK高校講座「世界史探究」の「古代中国」について聞いてた。周は、王が諸侯に領地を与え、その土地を治めさせる代わりに諸侯は王に貢納や軍役の義務を果たした。(封建制)深掘りして調べた。(河出書房新社:山本英史著:「中国の歴史」より)父系血縁集団が国家を組織し、血縁は後々中国の基本となる。成王と康王の時代に天下安寧したが、四代目昭王の頃衰え始める。増え続ける諸侯だが、王はそれら諸侯に十分な領地を与えられなくなる。日本でも聞いたような話ですね^^前770年なんだかんだ13
紀元前207年、趙高は、丞相の地位にあった、李斯を刑死に追い込むと、自身が、後任の丞相となった。秦の将軍の章邯は、鉅鹿の戦いにおいて、秦軍を大破した、項羽の率いる、楚軍を中心とした、反乱軍を相手に敗走を重ねていた。胡亥は、何度か使者を送り、章邯を責めたため章邯は、長史の司馬欣を趙高の許に派遣した。司馬欣趙高に指示を願い、援軍を請うたが、趙高は、面会しようとせず、また、司馬欣を責めた。趙高が、司馬欣を誅殺しようとしたため、司馬欣は、恐れ、章邯の許に逃げ帰った。趙高は、追っ手を送り
胡亥は、趙高から、「陛下は、若くして、皇帝に即位されたばかりであるために、陛下に過ちがあれば、群臣達に短所を示すことになります。天子が『朕』と称するのは、「きざし」の意味ですから、群臣に声も聞かせないことです」との進言を受けた。以降、胡亥は、常に禁中に籠り、大臣達は、趙高を介してしか、対面できなくなった。李斯は、この措置に不満を持ったが、趙高は、表向きは、李斯に「胡亥を諫めてほしい」と伝え、胡亥が、酒宴を行っている時に限り、李斯に上殿を要請したため、胡亥は、李斯が酒、宴の時に限って
紀元前209年、中国史の運命を決定した、中国史上初の農民の大叛乱、陳勝・呉広の乱が、発生した。以降は、秦軍側と叛乱軍側の二つの立場からの見方があるために、先に秦の側を解説することにする。陳勝・呉広の乱の発生後、胡亥は、使者から叛乱の事実を伝えられた。しかし、胡亥は、激怒して、使者を獄に繋いだのである。更に、諸々の学者や博士を召して「楚の守備兵(陳勝・呉広達)がが、蘄を攻略し、陳に侵入したようだ。お前達は、どう見るか」と尋ねた。多くの者は、「これは反乱ですので、即座に軍を出して討
【ぼくらの国会・第729回】ニュースの尻尾「これが中国の歴史破壊工作だ」
胡亥は、法令の作成の職務を趙高に依頼しており、ある時、「大臣は、私に服しておらず、官吏は、なお力を持っている。諸々の公子は、必ず、私と争う気でいる。どうすればよいか?」と尋ねた。趙高は、「群臣に相談せずに大いに武力を振るってください」と促し、胡亥は、その進言を受けて、大臣及び、諸々の公子の粛清を実行した。秦の公子、12人は、咸陽の市場で処刑され、公主10人は、杜(地名)にて、車裂の刑に処された上に市場で、晒し者とされ、財産は朝廷に没収された。公子高などは逃亡しようと図ったが、
子嬰は、『史記』において、胡亥の兄の息子とされており、父は、扶蘇との説があるが、定説ではない。子嬰は、胡亥に対し、「蒙恬を殺害してはいけません。過去に趙の幽繆王は、良将の李牧を殺して、顔聚を用い、燕王喜は、荊軻の計略を用いて、秦との盟約に背いて、斉王建は代々の忠臣を殺して、后勝の意見を用いました。三人の君主は、皆、古来のやり方を変えて、国を失い、災いは、その身に及んだのです。蒙恬・蒙毅の兄弟の蒙氏は、秦の大臣で、謀士であります。私は、『思慮が足りない者は、国を治めることがで
左丞相の李斯は、始皇帝の崩御が、天下騒乱の引き金になることを恐れて、秘したまま、巡遊の一行は、咸陽へ向かった。始皇帝の崩御を知る者は、末子の胡亥、左丞相の李斯及び、中車府の令の趙高等、数名であった。死臭を誤魔化すため、大量の魚を積んだ車が、伴走し、始皇帝が、生きているような、振る舞いを続けた。趙高は、胡亥に、始皇帝の崩御を伝えると同時に、「扶蘇様が、即位すれば、他の公子は、わずかな土地も与えられません」と告げた。胡亥は、「父が決めた事に対して、私が、口を挟むことがあろうか」と答
詳しく見る【聞く力は嘘】元宏池会・事務総長代行、国民の声を書き留めている“岸田ノート”について「私は15年以上付き合ってあんなノート1回も見たことないです」と断言【聞く力は嘘】元宏池会・事務総長代行、国民の声を書き留めている“岸田ノート”について「私は15年以上付き合ってあんなノート1回も見たことないです」と断言元宏池会・事務総長代行の三ツ矢憲生(みつやのりお)が、“岸田ノート”について「15年以上付き合ってあんなノート一回も見たことがない」と暴露し、波紋を呼んでいます。三ツ矢憲生
前述の通り、始皇帝は、紀元前212年、蒙恬に命じて、30万の軍勢により、北方遊牧民の匈奴を討伐させた。匈奴征伐の一つの要因は、『録図書』の「秦を滅ぼす者は胡」であるとの予言を信じたためである。「胡」は、中華の人々にとって、北方の遊牧民を意味した。しかし、「胡」の予言は、別の形で、実現し、秦は、「胡」によって、滅びた。始皇帝の息子は、二十数人いたが、長子は、仁愛の人格と聡明さで知られる、扶蘇である。歴史書には、扶蘇の母については、全く、触れられておらず、不明のままである。
秦の始皇帝は、泰山にて、封禅の儀を行った後、山東半島を巡った。始皇帝は、神仙思想に染まりつつあり、そこに取り入ったのが、方士と呼ばれる者達あった。方士は、不老不死の秘術を会得した、人物を指すが、その実態は、「怪迂阿諛苟合之徒」と、怪しげな調子の良い話によって、権力者に媚び諂う者達であったとされる。その代表格が、始皇帝が、瑯琊で石碑を建立した後に謁見した、徐福である。斉の出身の徐福は、東の海には、伝説の蓬萊山等、仙人が住む、三神山があり、それを探って、1000歳と言われる仙人の
始皇帝は、中華統一後に国内にある、斉・韓・魏等の長城を取り壊した。始皇帝の時代の長城は、版築により、粘土質の土を固めて築いた、建造物であった。高さは、馬、または、人が、乗り越えられなければ良いとの程度であったため、現在の「万里の長城」と異なり、壮大な建築物ではないが、長大であったことに変わりはない。中国南部の有名なことわざに「北有長城、南有霊渠」がある。紀元前前214年、始皇帝は、軍事輸送のため、大運河の建設に着手し、中国の南北を接続した。長江に流れ込む、湘江と、珠江の注ぐ
木材及び、石材は、遠方から運ばれ、地下水脈に達するまで、掘削した陵の周囲は、銅で固められた。その中に宮殿及び、楼観が造られた。更に水銀の流れる川が、100本造られ、「天体」を再現した装飾をし、侵入者を撃つ石弓が据えられた。珍品及び、豪華な品々が、集められ、俑で作られた、官臣が備えられた。驪山の陵墓は、驪山陵、または、後世、始皇帝陵と呼ばれる。驪山陵は、始皇帝の死後に、生前と同様の生活を送ることを目的とした、荘厳な建築物であり、現世の宮殿の阿房宮の間の80里は、閣道で結ばれた。
始皇帝は、儒者に激怒して、咸陽中の学者を尋問し、盧生の様に人を惑わすような人間を挙げるように命令した。そして、咸陽の460人の学者を見せしめに穴埋めにした。始皇帝の長男の扶蘇は、坑儒を諌めたが、始皇帝の怒りを買って、北方の防衛の任務に就かされた。しかし、儒者が、全て、殺されたのではなかった。儒者の中には、易占いの専門家として、始皇帝に仕えていたと思われる者がいる。更に、始皇帝の死の直後に、二代代皇帝の胡亥が、一人の儒者に意見を求めている。そして、前漢の武帝の時代に飛躍的
商鞅は、咸陽を中心に秦に41県を配置した。郡は、秦においては、他国を併合した際にその領域を称することが多く、県を置くのは、その後であった。そのため、秦の郡県制は、当初は、郡・県が、上下の統属関係として、設けられたわけではない。中華全土の郡・県の上下関係を整備したのが、始皇帝なのである。始皇帝は、全国を36郡(後に48郡)に分けると、郡の下に県を置き、皇帝任命の官吏を派遣した。郡の行政長官は、郡守と呼ばれ、警察担当として、郡尉及び、監察担当として、郡監を置いた。県の長官は
大河ドラマ「光る君へ」16回「華の影」の感想の続きです。中関白家(道隆の家)の栄華が極まるこのころ、都に疫病がはやることとなる。安倍晴明はそのことを察知した。一条天皇も都の疫病のことを気にかけるが、関白・道隆は疫病への対策を考えない。天皇は中国の歴史を例に取り上げ、心配するが、道隆に任せるようである。道隆の息子・伊周は道隆の弟・道兼と疫病について語る。(道兼さん、なぜか、凛々しくいいお顔になっていますね。)
他の一つは、殷の遺民を封じた、宋の様に、旧来の族集団を基本的に維持したままにして、諸侯に封じて、建国させる類型である。周王権は、その支配領域を再編し、政治的影響力を四方に拡大していった。しかし、西周時代の封建制の特質は、武装植民地型の封建制である。その結果、「中華世界」は、拡大の一途を辿ったと言える。紀元前771年、西周王朝が滅亡し、東周、即ち、春秋時代に入ると、周王に対する、諸侯の自立性が高まった。周王の権威が衰退して、封建制が動揺し始めた。春秋時代に入ると、各国間の戦争
中華世界では、龍山文化期から、殷代にかけての社会統合の制度は、「貢献」と呼ばれる、貢納制であったとされる。殷末から、西周期にかけて、貢納制は、更に進化し、複雑化して、封建制に展開した。貢納制は、首長・王権等の政治的中心に向かって、従属・影響下にある、各地域聚落・族集団から、礼器・武器・財貨・穀物・人物等を貢納する。更に、首長及び、王権が、主宰する祭祀・儀礼を助成すること等によって、緩やかな従属を表明する行為である。それに対し、首長及び、王権は、祭祀、儀礼の執行時に政治的中心に蓄
「従士団」とは、主君に統率された、一団の自由人男子に形成された、戦士共同体である。古代ゲルマン人における、支配・服従の関係は、被支配者の自由人男子の隷属化ではなく、誠実関係であるとされる。被支配者は、自由的身分を維持していたのみならず、「従士団」に参加することは、名誉なこととされている。職業軍人的エリートの仲間組織であったと考えられている。古ゲルマンでは、「従士団」に所属する以外の自由男子にも、兵役義務があったが、従士団は、それら半農の兵士とは、区別されて、主君の周囲に特殊なエ
中国ドラマ「始皇帝天下統一」を見始めた。これまで「三国志」「孔子」「孫子」「隋建国」的な話を観てきたがどれも面白かった。学校の勉強から何もやっていないものだから自分の無知さが悲しくなるほどにドラマが面白い。当然、史実とはずいぶん違った脚色も加わっていると思うがそれでも中国の歴史の面白さは底知れないものがある。始皇帝の話と言うとアニメの「キングダム」も見ている。「キングダム」と被っているキャラクター
【前言】中国の歴史書『宋史』のなかで、北宋の武将・楊延昭(ようえんしょう)は北辺の国境を守り、20年以上にわたり北方の異民族王朝である遼(916~1125年)に対して徹底抗戦を続けた英雄でした。その智勇と奮戦ぶりは、敵である遼軍にも知られており、同じく有能な武人であった父・楊業の六男であったことから楊六郎とも呼ばれていました。楊延昭とその一族が祖国を守って奮戦する忠義は、やがて物語になり、とくに元代以降は各種の版本によって戯曲や小説となりました。それらの物語は、人々に広く伝わり、愛され
「封建制」においては、諸侯達は、領有統治権の代わりに君主に対し、貢納、軍事奉仕等の臣従が、義務づけられ、領有統治権及び、臣従義務は、一般に世襲される。「封建制」は、日本では、平安時代中期~江戸時代末までの武家の時代である。「武家」は、平安時代中期以降には、荘園、即ち、土地を領有し、「一所懸命」と呼ばれるほど、土地に執着した。平安時代には、武家の土地所有は、京の公家達に寄進することにより、認められていたが、その立場は、不安定であった。源頼朝は、「武家の棟梁」として、鎌倉に武家政権
「中華」または、「華夏」の用語は、「優れた文化を持つ者」を意味し、漢民族の間では、「中国」と同様の自称として用いられた。「中心の国に住む優れた文化の担い手」との意味の「中華」には、地理的な意味に加えて、「漢民族のアイデンティティ」及び、「華夏文化の優越性」との要素が、共存していたのである。中華思想においては、天の意志を代行する、「皇帝」が、その徳によって、統治を行うが、徳を失えば、新たな家系に替わる。即ち、前述した、「易姓革命」の概念であり、中国では、「禅譲」及び、「放伐」による、
筆者は、「中華世界」との言葉を使用し続けたが、一般に用いられる、「中国」とは、本来、特定の国家や及び、民族を指す言葉ではない。西周時代には、中原、または、洛陽の周辺を指していた。中華世界、初期の王朝、「夏」「殷」「周」の三代には、中原及び、洛陽周辺は、「夏華」と呼ばれ、「夏華人」と自称していた。黄河流域で、黄河文明を営んでいた、漢民族の前身となる、都市を持つ、部族国家の連邦の民の国際社会では、「中国」との語は、王及び、覇者を中心とした、秩序に基づいていた。その後、「中華思想に基
中国の歴史を見ても、殆どが200年~300年で、一つの王国が終わっていますけど、600年も続く王国作り上げたのですね。*●日本ラエリアン・ムーブメント**https://www.ufolove.jp**●無限堂出版**http://www.mugendo.co.jp/index.html*
秦王政によって、中華世界は、初めて強大な一人の権力者の支配に入った。夏・殷・周の三代王朝は、中華世界の唯一の支配者であったが、周の建国当初の中華世界は、黄河周辺に過ぎなかった。しかし、西周及び、春秋戦国時代の間に、各国が、競って、東西南北に領土の拡大の一途を辿ったため、中華世界は、周建国当初と比較できないほど巨大になった。秦王政は、六国を帆乏し、中華世界を統一すると、重臣の王綰・馮劫・李斯等に「称号」を刷新する、審議を命じた。夏・殷・周・春秋戦国時代に用いられていた、称号の「王