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朗読は聴く人生論ノート三木清いわく執着こと生死らしまあボケッとしてるよりかマシ疲れたんかな(˘ω˘)スヤァ仕事帰りの勉強帰りそりゃ疲れるか♪~(´ε`)
中井正一という哲学者彼について調べています。中井正一は、京都大学哲学科でカントが専門。その周りというより、当時の京都にはすごい哲学者がわんさかわんんさか居ましたので、中井はその中ではあまり目立たない方かと思います。まあ、色々あって、山代巴も後半で絡んでくるのですが、とても変わった人という印象。文系ですが、ボート部で、野球の応援が好きで、わいわいと煩いおっさん、という感じです。三木清と、戸坂潤と、中井が、1926年頃に、アリストテレスを読みながら、わいわいやってる場面、どんな感じでし
一人一人の人間にあるのではなく、大勢の人間の「間」にある。(昭和初期の哲学者三木清の『人生論ノート』の一説、と天声人語に書いてあった)人、と人間。人、はきっと一人、なんだろう。人間、はきっと、複数の関係性をあらわすものなんだろう。人、は他人があってこそ、孤独、が分かるってことなのかな。たしかに田舎に過ごしてぼんやりしていても、あんまり孤独ってものにはならない感じがする。一方で都会でマンションなんかで過ごしてると、無性に自分がひとりぼっちと感じることがあった。
日本人の哲学者である三木清の著者「読書と人生」を読んだ。読書と人生(講談社文芸文庫)Amazon(アマゾン)${EVENT_LABEL_01_TEXT}三木清(みききよし、1897-1945)哲学者、評論家。法政大学法文学部教授。京大哲学科卒。現在の京都大学で西田幾多郎に、ドイツ留学中にはハイデガーに師事。戦時中に治安維持法違反で保釈逃走中の知人を支援したことで逮捕拘禁され獄死。本書は、以前紹介したショーペンハウアーの「読書について」と内容が結構被っている『ショー
三木清さん三木清(みききよし)1897年1月5日生まれ、1945年9月26日、48歳没。兵庫県揖保郡平井村小神(後の龍野市、現・たつの市揖西町)出身、京都学派の哲学者、法政大学文学部教授。1926年、単著『パスカルに於ける人間の研究』(岩波書店)パスカルにおける人間の研究(岩波文庫)/岩波書店¥713Amazon.co.jp戦時中に治安維持法違反で逮捕され獄死したが、死後刊行された『人生論ノート』は終戦直後のベストセラーになった。1947年、単著『人生
『人生論ノート』は好きなところだけフリーに読める。はじめて読んだときは前から順番だったけどね。怒らないことは有効である。沈着冷静につとめることが自分の能力を発揮できる条件だ。まだまだ学びの多い本です。ありがとうございます。
「クリスマスの25日あたり、案外と空いてますよ」という博多劇場錦糸町店の店長からの話しを思い出して行ってきました。晩御飯食べて本を読んでいる時間みなさん楽しそうです。恕っていうのはむずかしいですね。「思いやりをもってゆるす」これなかなかできなかった。だから、忘れることにしました。距離をとって忘れる。そうすることで怒を憎しみにしてしまわないようにしました。あとは楽しく過ごすこと。これ大事です。はやく帰って早く寝てはやく起きる。これも大事ですからね。ありがとう
12月も後半になって寒くなってきました。それでも、普段通り歩きます。これ、健康促進とリラックスのため。とり皮、おでんそして、ハイボール。美味しくいただきました。本を読みながらサクサクっとね。三木清さんが幸福についていいこと言っていた。温まるね、おでん。暖かくして、ゆっくり眠りました。ありがとうございます。竹内正彦さんの「私と千代田のストーリー」竹内正彦さん2023年8月収録---千代田で暮らす人、活動する皆さんに、「私と千代田のストーリー」を5つの質問に回答
一昨日の夜またまた本書を買っていたようである。翌朝ポケットに入っていた。私は、普段から外食することが多い。昨夜も本書を眺めながら食事をしておりました。後から入ってきた会社員男女4人組がにぎやかなこと。本書を閉じて店を出ました。孤独であることは生きていく上での基本で何をやるにしろ一人で自分の力でやることを前提にする。一人の時間だけが自由な時間であり本当の意味で思考できる時間だと思っている。ありがとうございます。
自分1人では知ることがなかったであろう本が多く紹介されていて良かった。来年読むものの参考になった。必ず読むもの・「越境の声」(リービ英雄)・「人生論ノート」(三木清)・「異常の構造」(木村敏)
『世界の名言名文句事典』-三木清(1897~1945)日本作家『人生論ノート』✪人は侮辱されたと感じたときによく怒る✪フランス人の文人、ラ・ロシュフーコーは「軽蔑されまいと怖れているのは、軽蔑されてしかるべき輩ばかりである。『道徳的反省』」と述べている。三木清をかりれば"自信のない者である"ということになるだろうか。自信を持っている者は人の批判や軽蔑を怖れないであろうから。また自信のない場合ほど、人の軽蔑に対して全く打ちのめされてしまったり、逆に訳のわからない怒りに捉われたりしがちなも
次に向かったのは揖保の地名ゆかりの粒坐天照神社へ大きな神社です隅々まで掃き清められています神門をくぐって上がり切ると美しい絵馬堂があり本殿は数段上にありました粒坐天照神社は「いいぼにいますあまてらすじんじゃ」と読みますたつの市龍野町日山463粒(いいぼ)は種稲のことで社伝によれば、推古天皇2年関村(江戸時代の小神村の旧称)の長者伊福部連駁田彦が天照国照彦火明命の神勅により種稲を授けられ、それを尊んで社を建立し、またその
幸福論を抹殺(まっさつ)した倫理(りんり)は、一見いかに論理的であるにしても、その内実(ないじつ)において虚無主義(きょむしゅぎ)にほかならぬ。(語注:・倫理=対人関係のことを考える道徳のこと。・虚無主義=価値を見出せず、虚(むな)しいさま。)[三木清(哲学者)]幸福は人生の意味および目標、人間存在の究極の目的であり狙(ねら)いである。[アリストテレス(古代ギリシャの哲学者)]人はいつも真面目(まじめ)くさってばかりいて、少しの楽しみもくつろぎも味わわずにいると、知らず知らずのう
希望に生きるものは、常に若い。三木清(哲学者)
AIは人間の仕事を奪うか?という問いは規格大量生産を基盤とする工業文明、アルビン・トフラーの言うところの「第二の文明」の思考枠組から出てくるもので、いま世界で起きていることをきちんと把握できる見方ではない、と僕は思っています。要するに「時代遅れ」の見方、思考枠組だということです。三木清(1897~1945)という思想家がいました。三木は『構想力の論理』という作品のなかで、従来の哲学は「行為」を人間の意志が物に働きかけることだと考えてきたと述べています。三木は、これに対して正
みなさま、こんにちは!当事務所で毎月お配りしている冊子の事務所通信の9月の「今月のことば」は、希望に生きる者はつねに若い三木清(哲学者)です。みなさまはどんな希望に生きていますか?新しい月・9月が始まりました。このひと月もみなさまにとって充実した日々になりますように!
8月25日(金)、東京芸術座の公演、『アンブレイカブルー敗れざる者たちー』を、見ました。柳広司の『アンブレイカブル』(KADOKAWA刊)を原作として。杉本孝司の脚本、演出。会場は、東京芸術座アトリエ。西武新宿線上井草駅下車。徒歩7分。遠いのです。前に来た時には、『ちひろ美術館』に立ち寄りました。アトリエの、すぐ近くにあります。『アンブレイカブルー敗れざる者たちー』。「約100年前のこの国で、何らかの価値があると思えるものを手に入れようと、努力したり、苦しんだり、闘った人々が
三木清「人生論ノート」(1941年)という文庫本を読了した。随分と昔の著作。三木清という哲学者については、名前だけで私は何も知らない。流れるように、いや、適当に流すようにしか読めず、文字を追うだけで内容が頭に入らない。つまらんことをあれやこれやと難しく語っている。やっぱり我々とは違う、あちら側の人間ではないだろうか。大体、経歴が立派なのだ。西田幾多郎に学んだ後、リットルト、ハイデッガーに教えを受けている。やけに華々しい。しかし一方、治安維持法で捕まったり、敗戦直後、獄死したりしている事実
(つづき)●希望についてこの項では、まず、運命は、偶然と必然の間なので(一切の偶然も一切の必然もない)、人生は、運命だとし、希望は、運命と同様で、符合が逆とみているため、運命は、対外的、希望は、対内的といえ、希望も、偶然と必然の間で(一切の偶然も一切の必然もない)、人生は、希望だといっています。つまり、人間は、対外的な運命を生きる中で、対内的な希望を持っており、人生の全体が、本来の運命なので、個々の出来事も、運命であるのと同様、人生の全体が、本来の希望なので、個々の出来事も
(つづき)●旅についてこの項は、初出が不明で、『人生論ノート』を単行本化する際に追加され、ほとんどの項のような、断章形式でなく、「個性について」の項よりは、エッセイ的です。さて、まず、旅は、次のように、日常生活と対比させており、日常生活は、行動的で、結果を主要な関心とし、実践を為す人である一方、旅は、観想的で、過程を主要な関心とし、感情・認識の変化を見る人だといっています。・日常生活=行動的、結果が主要な関心→為す人:実践・旅=観想的、過程が主要な関心→見る
(つづき)●娯楽について「幸福について」の項では、現代は、倫理の混乱で、幸福論が喪失し、不幸が充満、そのうえ、幸福を成功と同一視するようになったとしましたが、成功が、近現代の主要な価値基準になるとともに、この項では、生活から分離・対立する、娯楽の観念が、登場するようになったとみています。よって、ここでは、昔の娯楽は、生活内にあり、他の仕方を作ることで楽しんでいたのに、今の娯楽は、生活外になり、娯楽の専門家が提供するものを使ったり・見ることで楽しむしかなく、非人間的になったの
(つづき)●瞑想についてこの項では、まず、瞑想は、不意に訪問・招来する客、予期しない(思い設けぬ)客なので、その準備に、思索の方法的訓練を具えて待つべきとされ、瞑想には、条件つきの中途半端がなく、着いて行くか虐殺するか(絶対的な瞑想か否か)、いずれかを孤独で選択することになります。また、瞑想は、思索の根底にあり、思索の厳しさで瞑想を生かすべきとされ、次のように、思索と対比させています。・瞑想=上から降りてくる、天与の性質、ミスティック(神秘的)、結果的、リズム・思索
(つづき)●感傷についてこの項では、まず、喜びや怒りが、運動の活発・激烈なのとは対照的に、感傷は、立ち停まることだといい、静止から動き始めれば、感傷から脱し、他に変わるとされ、精神(内心)が身体(外観)と一致しなければ、頑丈な人間でも、感傷的になるとしています。ここで、他に変わるというのは、感傷が、別の感傷を呼び起こすか、消滅するかの、いずれかになりますが、日本人は、長年の生活様式により、静止と運動が強要され、それが感傷の心理的性質となるので、特別に感傷的だとされています。
(つづき)●嫉妬(しっと)についてこの項では、まず、嫉妬は、人間の本性の善を疑うだけでなく、闇の中で善を侵害することに向かって悪賢く働く、悪魔に最もふさわしい属性で、嫉妬の情念には、天真爛漫さ・美しさがないとされています。つぎに、嫉妬は、次のように、愛と対比させており、同じものと違うものが混合しているとみています。・愛=純粋でありえる→嫉妬の混入で策術的になる・嫉妬=陰険→愛の混入で想像力が働く同じものについては、愛も嫉妬も、情念の中で最も策術的
(つづき)●怒(いかり)についてここからは、怒・嫉妬・感傷・瞑想と、感情関連を取り上げていきますが、まず、怒りは、怒りの神が、愛の神と対比させており、愛の神は、世界を人間的にする一方、怒りの神は、普段は隠れていて、正義が侵害されると出現し、悪魔的とされています。しかし、今日では、怒りを忘失し、愛のみを語るので、神も悪魔も、人間的になり、人間は、無性格化しているとみています。つぎに、怒りは、憎しみと対比させており、憎しみは、怒りの付帯的な原因なので、避けるべきである一
(つづき)●個性について(原題:個性の理解)この項は、三木が23歳の大学卒業直前、『哲学研究』(1920年5月)に、「個性の理解」という原題で発表されましたが、『人生論ノート』の他の項は、41~44歳の発表なので、約20年間の前と後で、同じものと違うものが混合しています。同じものについては、先に外面の認識(眺めること)から出発し、後に内面の体験(働くこと)で自己形成・個性化していくことや、その自己形成を、自由な創作・創造的活動とみていることです。なお、「自己の個性が
みなさま、こんにちは。Lynnです。今日は「【補足】三木清「語られざる哲学」抜粋ノート」と題してお届けします。角川ソフィア文庫の「人生論ノート他二篇」のp173~p266に収録されている、三木清著「語られざる哲学」。概要から①~⑦と紹介してきました。①~⑦は、わたしが読みながら付箋をはっていった箇所を、1000字程度に分けただけ。感想を交えずお届けしたことで、みなさまといちばん分かち合いたかった「100年も前、23歳の人間がこれを著したという驚き」がダイレクトに伝わって
(つづき)●幸福について(原題:個性と幸福)「成功について」の項では、幸福と成功を、次のように対比させていました。・幸福=非現代的、進歩なし、宗教的、各人でオリジナル(個性的)、性質的(質的)、人格的→存在(外面の「ある」)に関係・成功=現代的、進歩あり、非宗教的、オリジナルでない(非個性的、追随者風)、量的、一般的→過程・成果(内面の「する」)に関係そこでは、成功が現代的で、幸福が非現代的としましたが、この項では、現代は、倫理の混乱で、幸福論が喪失
みなさま、こんにちは。Lynnです。今日は「⑦三木清「語られざる哲学」抜粋ノート」と題してお届けします。三木清著「語られざる哲学」の概要はこちら。『【概要】三木清「語られざる哲学」抜粋ノート』みなさま、こんにちは。Lynnです。今日は「【概要】三木清「語られざる哲学」抜粋ノート」と題してお届けします。角川ソフィア文庫の「人生論ノート他二篇」著者は…ameblo.jp角川ソフィア文庫では「人生論ノート他二篇」のp173~p266に収録されています。1から12に割り振られたものの