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やけに浴衣姿の人とすれ違い、昨日の隅田川、今日は何処で花火だろうかと歩いていて、ふと思ったことには、もしかしたら、あの細い路地の向こうのお寺の、あの盆踊りではないだろうか、と。果たして、あの、例の、風情のある細い路地を抜けると、ブランドの立ち並ぶ煌びやかな街からどれだけ離れたか、というような、微かな光のもとで繰り広げられる夏祭りであった。これは、去年、たまたま訪れた、あの光景である。私ははからずも、同じ祭りに、2年続けてまみえた。光栄なことである。私はこういう出逢いを大切にしたい。本
渋谷駅を降り立つと、目立つもの、といったら。今年1位の。しかし、この1位、青い目のラビットうさぎではないらしい。グラスで出すワインが旨い店は、ワインの管理が行き届いているから、いいワインを頼んでよい、と聞いたことがある。確かに、同じいいワインを頼むなら、ワインの望む環境を把握出来る、ワインの個性を把握出来る人材のいる店にしたい。そういう人材の揃った店なら、グラスで出すものに気を配らない筈はない、むしろ力を入れるだろう、という考えである。私は大いにこの考えに賛成である。そして、今
youthfuldays「にわか雨が通り過ぎてった午後に水溜りは空を映し出している二つの車輪で僕らそれに飛び込んだ」街には雨の滴が残り、華やかな日差しを受けて、きらきらと輝いているだろう。見上げれば、青い空に白い雲。地面には、水溜り、天空への入り口である。永遠の風景。そして、この贅沢な水溜りを無邪気に弾けさせる。玉のような滴が弾ける。その滴には、街と空と、彼らの横顔が映っているだろう。これは、まさしく、言葉の宝石である。珠玉の短編小説のような、永遠の世界である。ノヴァ
恐らく20世紀の終わりの、ウィーンフィル、ラトル、ブレンデルのBeethovenのPianoConcertoNo.3を聴いた。ウィーンフィルは世界最高のオケである。これはよく言われる。しかし、ニューヨークフィルは?ベルリンフィルは?シュターツカペレは?チェコフィルは?シカゴは?ボストンは?皆、最高のオケである。ウィーンフィルの特異性とは何なのであろうか。70年代のカラヤン。チャイコの4番、5番、6番の美しさ。もちろん、ベルリンフィルである。彼の創造したい音を、見事に奏でている。恐
「世の中は鏡にうつるかげにあれやあるにもあらずなきにもあらず」世の中というものは、鏡に映る映像だろうか、存在するものでもないし、存在しないものでもない。プラトンの「洞窟の比喩」は、私たちが見ている世の中・世界は、洞窟に松明で映された影に過ぎないと言う。私たちは、地上の景色・本当の世界を知らないと言う。洞窟から人々を連れ出し、真実の世界を見せるのが哲学者である。私は、自ら学ぶことも指すだろうと思う。努力によって、自らの力で洞窟を抜け出し、本当の世界を見る者もいる筈だ。寧ろ、この方が大事だろう
藤原敏行の「秋来ぬと目にはさやかに見えねども風の音にぞおどろかれぬる」は、小学生や中学生にも分かりやすい。秋が来たと、目で見てはっきり確かめることは出来ないけれど、吹く風の音や様子に秋の訪れを気付かされたんだ、と言っている。夏の空気感がまだまだ続いているな、と何気なく思って過ごしている日々のある時、「秋の風」をはっきりと感じる瞬間が毎年やって来る。その日から、夏の華やかな光は急に衰えて、風に空に空気に、ポエティックな感覚を覚えるようになる。秋は私たちを否応無く詩人にさせる。詩人は、狂った
たとえ自分が圧倒的な劣勢であっても、義のためには正面から戦う。例えば、楠木正成。人望も厚く、智略に優れた南北朝時代の武将です。笠置城、千早城の戦いでは巧みな籠城戦を行いました。これが、鎌倉幕府倒幕の流れを作りました。その後、建武新政府に入りますが、足利尊氏と対立し湊川の戦いに至ります。正成は戦の前に覚悟をしていました。自分の軍勢の能力と状況、尊氏側の能力と状況を、俯瞰の視点からも、ミクロの視点からも細かく分析していたからです。戦にあたって正成は、どうしても一緒に戦いたいと言いすがる嫡男
日比谷線、六本木駅、ヒルズ方面出口にありました。出光と言えば百田尚樹さん。岡田准一さん主演で映画化されました。昨年、日本橋の三井住友美術館の魯山人展で、織部が特によかったが、唐津の壺もよかった。魯山人は賛否の激しい人ですが、焼き物にしても書にしても、先人から学ぶことを徹底し、創造に繋げた人であることは間違いないことでしょう。ミッドタウンの酢重で鮭ハラスのイクラのせを堪能して、階下に下りて行くと、何やら花に溢れた一画がある。近づいていくと、新作のホワイトビールの紹介ブースでした。売り出さ
「知識のある人は全てに就いて知識があるとは限らない。だが、有能な人は、全てに就いて有能である。無知にかけてさえも有能である。」モンテーニュ「無知にかけて有能」とは一体どういうことであろうか。まさか、有能な人は巧みに無能を演じられる、ということではあるまい。いや、そうした解釈だってあっていい。浮かぶのはソクラテスである。あの、知である。あの知において、無知は不名誉でも、羞恥を起こさせるものでも、非難の対象でもない。私たちは、無知にかけて有能であるべきである。これもモンテーニュ。The
フィリップグラスのエチュードは、1994である。迫るピアノの波。ミシマの、日本では公開されていない、緒形拳の映画。グラスであった。断片は見た。田園都市線を降りて、改札へ、予期せぬ人に出会い、はっとする。人はおれ(をれ)ども、人ではないの習ひ。そこに、中学生時分から知る、今は大人の、ある、知る人に会い、美しさと清潔感を湛えている姿に、思わずはっとして、ろくに挨拶も出来ない。その惚けた状態で、また、人に出会う、久しく前から声を掛けられていたことを知り、また、はっとする。耳には洗練された
ブルバキは1939年から1967年。ブルバキは集団である。ブルバキは、数学を「構造」を公理として確立した。ユークリッドの平行も公理である。クロードレヴィストロース、ジャックラカン、ミシェルフーコー。実存から構造へ。構造から、脱構築、デリダへ。プラグマティズムへ。デリダは、もう少し生きて欲しかった。今、哲学不在である。人間は浮遊するもの。どの時代にも、健全不健全、哲学は必要である。哲学が、原動力である。哲学とは、アレレおかしいぞ精神、である。と、ともに、徹底的に考えること
「詩的イメージは言葉からの浮上である。それはいつも意味を担った言葉のやや上にある。」「実用語の通常の列から離れた言葉の飛躍は、ミニアチュールの生の飛躍である。」バシュラール私たちは言葉を操る。マザーラング、母語は、必ず考えるための基礎、思考言語になる。考えることが人間の存在そのもの、我思う故に我あり。それ故、英語が母語なら、英語の洗練は生涯当然怠らない。その鍛錬をせぬ者の英語は聞くに堪えない、読むに堪えない。日本語も同じ。詩的イメージは、言葉のやや上にある、洗練した先に必ず行
「常に酔っていなければならぬ。全てはそこにある。しかし何によって?詩であろうと、徳であろうと、それは君に任せる。ただひたすら酔い給え。」ボードレールシャルル。ブルトンが硝子売りの話を収めていたが、あれは何であろうか。呼んで、割る、あの話。八重洲で見つけた、ボードレールの朗読は、いつのまにやら消えている。もう、10年、15年前の話であろうか。日本橋のあの鰻屋は、旨かった。森繁さんの痕跡のある。麻美女史のセンスに感謝。
「瞬間の支配者があれば、おそらく出向いただろう。12月の失策。勿体無い。同じ時間は二度と来ないのに。やりなおす機会とて、もうないかもしれない。それでも、準備の努力は怠らぬ。それでよいだろう。」サントリーホール活気溢れる、いいホールです。聴いた後の、食やワインの楽しみも豊かです。
ベルリンフィル、ラトルのMozartの39番を聴いた。ラトル。あと、10年やった方がいいのではないかと、まず思った。ラトルの創りたい音楽と、楽団が年々噛み合って来ているのではないか。ラトル自身も、思い描く音楽と彼自身の力量が揃って来たのではないか。ラトルの努力、楽団員の努力、豊かな才能、これが見事に結実した、見事な39番。第二楽章の響きは特に素晴らしい。MozartらしいMozart。Karajanとはまるで違うMozart。しかし、美しいMozart。今は、カールベームのMoz
鳰(にほ)の海や月の光のうつろへば波の花にも秋は見えけり藤原家隆ライズの地下のエノテカのバーカウンターに、シャンパン専門のカタログがあって、面白く眺めました。もう一つ、現代の小説家が、ワインや文学を語った本があって、みてみましたが。。。食や飲み物と、知性や創造性は密接です。大デュマの話、バルザックの話、もちろんブリアサヴァランの話、サド侯爵の話。日本では谷崎さん、くらいでしょうか。魯山人も。池波さんも。やはり、芸術的健啖、というものはあるものです。活力はもちろん、俯瞰能力も鍛
「Brevityisthesoulofit.(簡潔こそ知恵の精髄。)」Shakespeare足すことは実は容易い。何より、削ぎ落とすことである。芭蕉はそれをやってのけた。Shakespeareは1564生まれ。桶狭間の4年後である。芭蕉は、1644生まれ。同時代人とは言い難いが、100年ほどしか違わない。二人は、同じことを考えたのだ。仮に、1000年違っていても、やはり、同じことを考えたに違いない。言語に関する卓抜な感覚は、洋の東西を超え、時間を超え、同じ考えに至るも
自由が丘の熊野神社。私が生まれ育った土地にも熊野神社があり、よく社(やしろ)の周りで遊んだものです。あの、美味しい、黒船です。熊野神社の近くにあるフレンチレストラン。この時は、準備中でした。コッコ線路に近い通りの焼き鳥屋さん。活気みなぎる焼き鳥屋さん。ザ自由が丘。中目黒で乗り換えて、六本木に。かりんミッドタウンの富士フイルムで発見。
「なるべく上等な劣等感を身につけた方がいい。」「時代より半歩遅れることにしている。」吉行淳之介
「解釈を拒絶して動じないものだけが美しい。」小林秀雄カルティエブレッソン撮影のサルトルinterpretサルトルはまず、英語訳で触れました。高校の時だったでしょうか。まず、この単語が浮かんで来ます。
自由が丘といえば、メルサにあるブラームスのハヤシライスです。絶品の一品です。その向かいに最近できたのか、人だかりのあるお店があって、ベンズクッキーなる看板。私は初めて見ましたが、有名なのでしょうか。通りを進むと、懐かしいオモチャ屋さんがあり、これも人だかりです。コマの指導者が、子どもたちにケンカゴマを教えていました。更に進むと、国語専門なる塾を発見。国語は成績を上げられなくとも言い訳がしやすい教科ですが、そこをあえてリスクを取って、専門をうたうとは、何と覚悟のある塾でしょう。一度取材
「プラトンによると、原初の人間は、その容姿は球体であった。ところが、傲慢な人間どもが神々に逆らって、天上に攻め上ろうとしたので、ゼウスが怒って、彼らの身体を二つに切断してしまった。それ以来、人間は元の姿が二つに断ち切られてしまったので、それぞれ自分の半身を求めて再び一心同体になろうと熱望するようになった、というのである。この古い神話は、実に貴重な示唆を含んでいる。人間の最も深い欲求は、この分離を何とかして克服し、存在の宿命的な孤独地獄から逃れようという欲求なのであろう。」(一部省略)この神話
「申すまでもなく、人間と人間とが接触する最も重要な要因である。だからサルトルの存在論を俟つ迄もなく、それは自己と他者との関係を際立たせ、単に自分一人の問題ではなく、相手によって自分が規定されるという、社会的な問題に発展せざるを得ない契機を含んでいるのだ。」自己と、他者と、自然。ギリシアの哲学者たちはこの三つを熟慮することで、現在のあらゆる学問、芸術、の基礎を打ち立てた、と言っても過剰ではないと思います。「ギリシア人であるとは、知ること、即ち物質の原初の実体を知り、数の意味を知り、一つの合理
「倦怠より死を。」「執拗な努力よ、宿命の努力よ。」ダヴィンチ努力に努力を重ね、出来た著作、舞台に立つ役者、ステージに立つアーティスト、マウンドに立つ選手。努力が、その人は微塵もアピールしてはいないのに、こちらに伝わって来る場面。そういう場面では、決まってその著作は奥深く、芝居は真に迫り、歌声は力強くやさしく心に響き、プレーは冴え渡るものです。そして見ている者に、確かな感動をもたらします。私などは、そうした場面では自然と涙ぐんでしまいます。その場面の人について、それ以前のまだまだだっ
「【科学技術】という言葉は、単に【科学と技術】を意味するのではなく、【科学と結びついた技術】を含意する、科学と結びついた技術の発展は、科学から独立した伝統的技術の発展よりもはるかに早く、またその環境を操作する能力がはるかに強大であり、その程度(早さと能力)は、恐らく今世紀の初めに誰もが予想出来なかったほどである。」加藤周一20世紀以前は、技術が生まれてから、学問が成立して来たのです。技術が人の手となり血となり、便利さと危険性を充分に認識し、そこに、理論付けがなされ、改良が加えられ、発展して来ま
好きな食べ物は、と聞かれたら、私は「ワイン」と答えます。「食べ物の順序は、最も実のあるものから最も軽いものヘ。飲み物の順序は、最も弱いものから最も強く最も香りの高いものへ。」ブリアサヴァラン何も、敢えて素っ頓狂なことを言おう、と言うのでもなく、見た目のキレイさ、口に運ぶ時の香り、舌に乗せた時の味の広がりと変化、口の中に広がる香り、喉を通る時の味わい、その後、身体にしみわたっていく感覚、こうした楽しみや味わいをもたらすワインを、一番に挙げない理由が見つからないのです。あくまで私の一番として。
「鵜飼はいとをしや、万劫年経る亀殺し、現世は斯くてもありぬべし、後生我が身を如何にせむ」梁塵秘抄「後の世を知らせ顔にも篝火のこがれて過ぐる鵜飼舟かな」有家「鵜飼舟あはれとぞ見るもののふの八十宇治川の夕闇の空」慈円「おもしろうてやがてかなしき鵜舟かな」鵜飼には、まず、その独特のエンターテイメント性の魅力があるでしょう。そして、鮎の美味の魅力。これは陽の魅力です。一方で、鵜と亀と鵜匠、仏教による陰の背景。古今東西の、人を惹きつけ続けている魅力は、もれなくこうした構造を備えていることでしょ
「客観的には高度に操作された、主観的な自由の幻想」加藤周一私たちは、当然のこととして、自らの意志で自由にものごとを選択していると思っています。だがしかし、と言わざるを得ない、と加藤周一は言っているのです。その自由は幻想であると。俯瞰的に見てみれば、高度に操作され、選ばされているのだ、と。私たちは、俯瞰能力、メタ認知を鍛えねばなりません。教育システムの不備や、刷り込みやレッテル貼りを、どうのこうのと言っても仕方ありません。分からないのは、環境のせいでも、他人のせいでもありません。常
「風になびく富士の煙の空に消えて行方も知らぬ我が思ひかな」「願はくは花の下にて春死なむその如月の望月のころ」「咲き染むる花を一枝まづ折りて昔の人のためと思はむ」「年たけて又越ゆべしと思ひきや命なりけり小夜の中山」「あはれいかに草葉の露のこぼるらむ秋風立ちぬ宮城野の原」小林秀雄も、吉本隆明も、西行を論ずる。それ以前に、芭蕉さんも。もっとも、芭蕉は、論ずるというよりは、追いかけていた、と言うべきでしょうが。「道の辺に清水流るる柳かげしばしとてこそ立ちどまりつれ」たった十七音で、それ
「形式と内容の一種の融合」「瞬間と永遠とを一致させる試み」私たちは、相反する感情を持ち合わせます。それを自分で表現することはなかなか難しいものです。優れた文学作品というのはまさにこれで、二律背反(アンビヴァレンツ)を巧みに表現してくれていて、そう、そう、まさにこの感じだ!、自分に確かに認識はありつつも、形にならなかった気持ちや状態を眼前に示してくれるものです。しかしながら、私たちは、二律背反の気持ちや状態を表現出来なくとも、「全ては一つであり、全ては多様である」訳ですから、思考を高める過