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よく、どんなに小さいことでも「いいこと」を見つけなさいと言われます。毎日その日見つけた「小さないいこと」を書いておくのもいいなぁと思っています。よく言われることなんだけれど、実際ぼくらはその「小さないいこと」をあんがい見えていなかったりします。絵を描く人の目は、描かない人にくらべて、よりたくさんのものが見えています。いま流行りの言い方をすれば、解像度が高いといえます。音楽にいつも寄り添っている人の耳には、そうでない人よりもた
初夏のようにあたたかい陽気ですけれど、お風呂はゆっくりつかりたい派です。夏はシャワー派の人も多いなかで、(最近は一年中シャワー派の人も多いか…)湯船につかることを大事だと思っています。そもそも入浴の目的は、あたたまるだけじゃないと思っています。からだを清潔にすることだけでもない。入浴することの重要な目的のひとつに、重力からの解放があると思います。肩まですっぽりつかった場合、通常の1/10の体重まで軽くなりじぶんのからだを支える筋
旅を「発見」と言った人がいました。理解できないものに出会い、混乱するような体験(発見)をもとめてわたしは旅に出る、と。その人の旅の定義に従うなら、ガイドマップやSNSをみて「行ってみたい」と計画を立てて出かける予定通りの「旅」は、「発見」ではなく「確認作業」となり「旅」の定義から外れてしまいます。あたらしい発見はなく、どこかでだれかが体験して本やSNSに載せたことの追体験でしかない、と。もちろん「旅」の定義は、人それぞれ
この船の進路をおまえが決めるなよ。この海でいちばん自由な奴が海賊王だ。大人気漫画ワンピースのことばですが、実社会にも「じぶんで決めていいこと」は、ものすごくたくさんあると思います。だれかの命令でやるしかないこと、決まりだからやらなきゃいけないこと、そういうことはあるにはあります。だけど、じぶんが何色の服を着るか、どんな道順で歩き、ランチになにを食べるかどんな歌を聴くか、どんな本を読むか、じぶんで決めていいことですよね。なにかに
世界には美しいものがたくさんあります。世界にある美しい(とされる)ものを、「ああ、たしかに美しい」と感じられたら、それはとてもうれしいことでしょう。すばらしいものも同じように、「ああ、たしかにすばらしい」と思えたら、それもとてもうれしいことだと思います。美しいものに「美しい」と、すばらしいものに「すばらしい」と、こころを動かすことができたなら、たくさんのしあわせを得ていることと同じなのだと思っています。大谷翔平選手のことが、日
なにかを批評するときに思うのは、文芸評論家の豊崎由美さんのことばです。「ある作品を批評する際には、初期の作品と最新作を読んで、さらに代表作を2、3冊おさえておけばいいと思います。ただし、作品をほめるのではなく、批判するときには全作品に目を通さないとマズイです」あれのこれがダメ。それのあれが間違っている。批判したり不安にさせる文章は、ほめたり応援したりする文章より広がりやすい性質を持っています。だからこそ批判する場合は、
くしゃっと笑う人が好きです。個人的な好みの話はいいとして、笑顔でいることはいいことなんだと多くの人たちは思っています。笑っているほうがいい。でも実際には、笑顔でいられる状況っていうのは、そんなに多くなかったりします。「深刻な状況で、深刻な顔をしていたって、ひとつもいいことなんてないのだから」と、笑顔でいたら高確率で怒られます。笑顔のすばらしさについて饒舌に語っていた人でさえも、やっぱり怒ったりします。それでも
いま、この瞬間になにをしているか。未来はどうとでも言えるし、過去はいかようにも脚色できるけど、現在(いま)だけは誤魔化せません。どうなるか分からない未来より、ほんとかどうか分からない過去より、現在(いま)目の前にある現象から人は信頼を得ていくのかもしれません。だから経歴がどうとか、どんな資格を持っているだとか、どんなことを実現したいとかより、「現在(いま)この瞬間なにをしているか」それがいちばん大事なんだと思います。過去がひ
ほかの人と同じようにできないことが、いけないなんてこれっぽちも思いません。ただ、ほかの人と同じようにできないのだからとじぶんを卑下するのは危うい。じぶんを卑下しすぎると、じぶんでも知らないうちに「じぶんはこんなに弱いんだから、これくらいしてもいいだろう」と人格攻撃してしまったり、あることないことでっちあげたり、他人を傷つけることに鈍感になってしまう。駄々をこねる子どもがお母さんを叩くのは、じぶんの拳に力がないことを自覚し
努力の意味を辞書で調べると、「ある目的のために力を尽くして励むこと」と書かれています。「耐える」ではなく、「励む」と書かれているのがいいですね。油断すると、つい他人の評価を得るために行動してしまうけれど、そういう努力っぽいことは、「励む」ではなく「耐える」行為で、努力とは言わないんでしょう。周囲の期待や評価のために結果を出したいと思っているなら、満たされることはないだろうし、やればやるだけ苦しくなります。じぶんがこころから望む
「いかにも大変そうなこと」を、「いや、それほど大変じゃない」と言える場合それは「得意なこと」なのでしょう。「得意なこと」を生業にしている人は、「それほど大変でもない」からこそ、続けていられるんだと思います。あるいは、大変だけど我慢してやっているうちに、「それほど大変でもない」ようになったという場合もあるでしょう。そういうものも、「得意なこと」になったというわけですね。ただ「それほど大変でもない」と思っていることは、お金を取るのには
人を動かす表現で、上位に入るのが「新発売」です。たった3文字ですが、ずいぶん重宝されていますよね。「新発売」とあるだけで、「どれどれどんなんよ?」と手をとってみたくなる。あたらしいはニュースで、あたらしいはそのまま価値になる。「お、あたらしいね」と言ったら、「いいね」と言ったのと同じでしょう。あたらしいに、魅かれる人。それは、もしかしたら、文化・文明・経済いろんなものが「時間が経つにつれより良くなる」と信じている人たちか
陰キャとか陽キャとか、文系とか体育会系とか、なんでもかんでもふたつに分けてどっちかを突きつけるというやり方には、ちょっとした快感があると思います。YESかNOか、右か左か、中央か地方か、正義か悪か、アナログかデジタルか、現実か悪か、西か東か、ホントかウソか。ただ、そんなふうに敵と味方みたいに分けて、「敵だったらみんなぶっ倒してしまえ」みたいな発想は戦場を増やすだけです。アレルギーの症状だって、これは自己じゃないと判断して
少し適当な話です。光の側と影の側があるとして、光の側を見ながらなにかを語っていると能天気に思われることがあります。そしてなぜだか、影の側を語っている姿というのは、真剣に見えやすいように思うんです。だからきっと、真剣に考えているように見せたいときには、影の側を語っているとそれっぽく見えるような気がします。でも最近すごく思うのは、光の側を見ながらなにかを語っている人もそうそうバカというわけではないですし、影の側を語っている
人間というものは、どういうときにどういうふうに感じるのか。そして、どういうふうに行動するのか。流行や時代の先を考えることももちろん大事なことだとは思うけれど、「人間ぜんぶ」にいえることを考えることは、それ以上に大事なことだと思っています。時代がどんなに変化しても、人間が「うれしい」と思うことは、変わらないと思うからです。たとえば自動車と馬車が入れ替わった時代のことを想像します。馬車業界の人たちは、じぶんたちが主役として担って
若いということに、価値がある。と、思いすぎないほうがいいんだろうな。彗星の如くあらわれた15歳の天才歌姫宇多田ヒカルも今年で41歳になりました。当時キャピキャピの男の子女の子もいまはおじさんあばさんになっています。若いことが価値だったとしたら、そのおじさんおばさんはもう価値がない人ということになってしまいます。ま、あんまり価値があるとかないとか考えすぎないほうがいいんでしょうけれど。同じように、長く生きてきたということも、自慢
生物の歴史なんかを眺めていると、その時その時の環境に適応している種が、環境の変化によって一気に絶滅なんてことが何度もくりかえされてきたと分かります。強い生物が、弱い生物を駆逐してしまうと、もう利用する相手がいなくなってしまうからじぶんも滅びることになってしまいます。変化を前提にして生き続けていかないと、知らず知らずのうちに滅んでしまう。でも、変化というのは、根本的に怖いものだと思います。いまうまくいっているものを、変化しようだ
人々のヘアスタイルや服装の流行には、「モデル」の存在が大きく影響しています。「モデル」のヘアスタイルや服装、趣味嗜好などがメディアを通しておぼえられコピーされることで「モデル」の役割はどんどん強められていきます。たとえば雑誌のモデルは、実際にたくさんの読者たちの「元コピー」になっています。しかし、いまの時代、職業名としての「モデル」は、存在として「モデル」の役割をしているのだと思います。「モデル」があることによって、その「コピ
身近なだれかの大言壮語を応援できる人間でありたいと思っています。大口をたたく人を見て、せせら笑うことはかんたんです。せせら笑ったほうが賢く見えるし、安心もできますからね。それでも多くの場合、大きなことを言う人には、「そうせざるをえないなにか」がある。不安だったり、迷いだったり、焦りだったり、いろんなものがあって大口をたたいているのだと思います。そのとき聞きたいことばは、「信じてるよ」「応援してるよ」です。じぶん自身のこ
鳥山明さん、宮崎駿さん、庵野秀明さん、このへんの「すごい絵のひとたち」ってみんなメカ好きのクルマ好きですよね。そしてなによりミリタリー好きです。ハーレーとかキャデラックとかベスパとか、大戦中の戦艦とか戦車とか戦闘機とかすらすら描いてしまいそうです。きっとみなさんプラモデルが大好きな小学生だったと勝手に予想します。実際、作業場仕事場の写真を見ても、うしろにチラッとプラモデルが見えていたりしますからね。ぼくはプラモデル苦手でした。
世の中がいつの間にやら「させていただく」ことにだらけになっているような気がします。ご提案させていただく。お伺いさせていただく。角が立たないようにという謙虚な姿勢もあるのだろうけれど、「そちらさまが決めたんですからね」と責任を引く受けたくない気持ちも透けて見えるような気がします。面接の合格法だとか、好かれるための技術だとか、こうすれば印象がよくなるだとか、ウケる番組をつくるにはとか、人気を上げるコツはとか、「ご提案」や「お伺い
人間はその能力のほんの一部しか使えていないのだという話があります。そういう話を聞くと、「それなら使えていない能力をどのように発揮させようか」と考えてしまいがちです。でも、一部の能力しか使えていないからこそ「人類は過酷な生存競争を生き残ってこれた」という考え方もできるんじゃないかなと。歴史をみれば人間は、「足りない部分」を補い合うことで進化してきた生き物です。もしかしたら、もっと「できることの多い」生物になっていたかもしれない人
日本の運動部には、「補欠」という忌まわしい制度があります。野球でいえば9人。サッカーなら11人。それがいわゆるレギュラーで、交代要員として試合に出られない選手を補欠と呼びます。この補欠制度は、海外からやってきたサッカー関係者たちが一様に首をひねり異を唱える制度です。補欠であることの厄介さは、いくつも挙げられます。まず、試合に出られませんから、その競技の「ほんとうのおもしろさ」を知ることはむずかしいと思います。結果として数
目の前の課題と向き合いなさい。そういう言い方もあるように、課題と向き合うということはあたかもいま現在の状態と向き合っていることと誤解してしまうことがあります。でも実際には、課題と向き合うときというのは、未来を意識していますよね。そもそも、なぜ課題が生まれるかといえば、現状よりもいい状態が頭にあるからです。このままの状態に満足していなくて、未来も同じ状況になってしまうことをどうしても避けたいと思う個人の「行動を起こすべ
ボキャブラリーは、多いほうがいいと思います。知識や教養を誇示するものとしてではなく、表現力を高めるためでもなく、じぶんの世界を平和で豊かにするためにボキャブラリーは多いほうがいいです。美輪明宏さんも言っています。「すぐキレるのは、じぶんの気持ちを表現する適切なことばを知らないから。たくさんの本を読んでことばを知れば、ストレスはたまらない」美輪さんは、「本を読め」と言っているけれど、ボキャブラリーを増やす方法として、「禁句
記憶絵、というあそびがあります。著名人、漫画の登場人物、動物、昆虫、魚、あるいはその他諸々のキャラクターをなにも見ずに記憶だけを頼りに描く、というあそびです。最近ではそこに「絵心のない人」を組み合わせて、おもしろの確度を高めたエンタメとして定着しているあそびになっています。しかし、これが意外とむずかしい。そして、おもしろい特徴として、身近なもののほうがむずかしいのです。たとえば家族の似顔絵というのは、どうでしょう、描きづらい
睡眠とはじつに不思議なもので、弱肉強食の自然界において睡眠ほど危なっかしい行為もありません。睡眠時に敵から襲われ命を落とした動物たちは、たくさんいるでしょう。睡眠の危険性は知っているのに、どの生物もみんな「寝ない」という進化をなかなか遂げないのもおもしろいですね。これはもう食事と同じく生命維持に欠かせないのでしょう。そんななかで、じゃあどうすれば安全に眠ることができるかというと、いちばんの理想は「みんなで寝る」です。
映画でよくある場面なんですが、囚われの身の主人公が監視の目を盗んで腕立て伏せだとかをやっています。あるいは、なにかガラスの欠片や金属の破片から鍵やら武器をつくります。こういう場面を観るたび思うのが、「なにもないところでも意外となんでもできるものなんだな」ということ。なにもないところでも、なにもできないところでも、必死で生きようと戦っている人は、なにかができるということ。囚われの身の主人公に、いつもそんなことを思います。
人は、山や森の景色を目にしたときに、ざっくり「自然はいいなぁ」とか言います。しかし、自然というものの定義が、「人の手の加えない状態」であるとするなら、目にしているものは自然ではありません。人の住む地域で「自然」として扱われているのは、だいたい「里山」と呼ばれる人と自然の合作です。この自然に対する誤解、健康についてのあれこれもそうですよね。「自然のものを」と言ったところで、それも実は「里山」かもしれません。からだも同じで、
数字という結果は、それまでの苦労を癒します。売り上げもそうですし、スポーツのタイムもそうです。達成する喜びは、たしかに苦労を癒すと思います。でも、数字の癒しだけで、人は走り続けることはできません。ひとつのハードルをクリアすることによる喜びは、あくまで一時的なものだと思います。人は必ず「その先」に、「いったいなにがあるのか」問うことになると思うのです。「どこに向かっているのか」必ずその問いにぶつかります。