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人間というものは、どういうときにどういうふうに感じるのか。そして、どういうふうに行動するのか。流行や時代の先を考えることももちろん大事なことだとは思うけれど、「人間ぜんぶ」にいえることを考えることは、それ以上に大事なことだと思っています。時代がどんなに変化しても、人間が「うれしい」と思うことは、変わらないと思うからです。たとえば自動車と馬車が入れ替わった時代のことを想像します。馬車業界の人たちは、じぶんたちが主役として担って
若いということに、価値がある。と、思いすぎないほうがいいんだろうな。彗星の如くあらわれた15歳の天才歌姫宇多田ヒカルも今年で41歳になりました。当時キャピキャピの男の子女の子もいまはおじさんあばさんになっています。若いことが価値だったとしたら、そのおじさんおばさんはもう価値がない人ということになってしまいます。ま、あんまり価値があるとかないとか考えすぎないほうがいいんでしょうけれど。同じように、長く生きてきたということも、自慢
生物の歴史なんかを眺めていると、その時その時の環境に適応している種が、環境の変化によって一気に絶滅なんてことが何度もくりかえされてきたと分かります。強い生物が、弱い生物を駆逐してしまうと、もう利用する相手がいなくなってしまうからじぶんも滅びることになってしまいます。変化を前提にして生き続けていかないと、知らず知らずのうちに滅んでしまう。でも、変化というのは、根本的に怖いものだと思います。いまうまくいっているものを、変化しようだ
人々のヘアスタイルや服装の流行には、「モデル」の存在が大きく影響しています。「モデル」のヘアスタイルや服装、趣味嗜好などがメディアを通しておぼえられコピーされることで「モデル」の役割はどんどん強められていきます。たとえば雑誌のモデルは、実際にたくさんの読者たちの「元コピー」になっています。しかし、いまの時代、職業名としての「モデル」は、存在として「モデル」の役割をしているのだと思います。「モデル」があることによって、その「コピ
身近なだれかの大言壮語を応援できる人間でありたいと思っています。大口をたたく人を見て、せせら笑うことはかんたんです。せせら笑ったほうが賢く見えるし、安心もできますからね。それでも多くの場合、大きなことを言う人には、「そうせざるをえないなにか」がある。不安だったり、迷いだったり、焦りだったり、いろんなものがあって大口をたたいているのだと思います。そのとき聞きたいことばは、「信じてるよ」「応援してるよ」です。じぶん自身のこ
鳥山明さん、宮崎駿さん、庵野秀明さん、このへんの「すごい絵のひとたち」ってみんなメカ好きのクルマ好きですよね。そしてなによりミリタリー好きです。ハーレーとかキャデラックとかベスパとか、大戦中の戦艦とか戦車とか戦闘機とかすらすら描いてしまいそうです。きっとみなさんプラモデルが大好きな小学生だったと勝手に予想します。実際、作業場仕事場の写真を見ても、うしろにチラッとプラモデルが見えていたりしますからね。ぼくはプラモデル苦手でした。
世の中がいつの間にやら「させていただく」ことにだらけになっているような気がします。ご提案させていただく。お伺いさせていただく。角が立たないようにという謙虚な姿勢もあるのだろうけれど、「そちらさまが決めたんですからね」と責任を引く受けたくない気持ちも透けて見えるような気がします。面接の合格法だとか、好かれるための技術だとか、こうすれば印象がよくなるだとか、ウケる番組をつくるにはとか、人気を上げるコツはとか、「ご提案」や「お伺い
人間はその能力のほんの一部しか使えていないのだという話があります。そういう話を聞くと、「それなら使えていない能力をどのように発揮させようか」と考えてしまいがちです。でも、一部の能力しか使えていないからこそ「人類は過酷な生存競争を生き残ってこれた」という考え方もできるんじゃないかなと。歴史をみれば人間は、「足りない部分」を補い合うことで進化してきた生き物です。もしかしたら、もっと「できることの多い」生物になっていたかもしれない人
日本の運動部には、「補欠」という忌まわしい制度があります。野球でいえば9人。サッカーなら11人。それがいわゆるレギュラーで、交代要員として試合に出られない選手を補欠と呼びます。この補欠制度は、海外からやってきたサッカー関係者たちが一様に首をひねり異を唱える制度です。補欠であることの厄介さは、いくつも挙げられます。まず、試合に出られませんから、その競技の「ほんとうのおもしろさ」を知ることはむずかしいと思います。結果として数
目の前の課題と向き合いなさい。そういう言い方もあるように、課題と向き合うということはあたかもいま現在の状態と向き合っていることと誤解してしまうことがあります。でも実際には、課題と向き合うときというのは、未来を意識していますよね。そもそも、なぜ課題が生まれるかといえば、現状よりもいい状態が頭にあるからです。このままの状態に満足していなくて、未来も同じ状況になってしまうことをどうしても避けたいと思う個人の「行動を起こすべ
ボキャブラリーは、多いほうがいいと思います。知識や教養を誇示するものとしてではなく、表現力を高めるためでもなく、じぶんの世界を平和で豊かにするためにボキャブラリーは多いほうがいいです。美輪明宏さんも言っています。「すぐキレるのは、じぶんの気持ちを表現する適切なことばを知らないから。たくさんの本を読んでことばを知れば、ストレスはたまらない」美輪さんは、「本を読め」と言っているけれど、ボキャブラリーを増やす方法として、「禁句
記憶絵、というあそびがあります。著名人、漫画の登場人物、動物、昆虫、魚、あるいはその他諸々のキャラクターをなにも見ずに記憶だけを頼りに描く、というあそびです。最近ではそこに「絵心のない人」を組み合わせて、おもしろの確度を高めたエンタメとして定着しているあそびになっています。しかし、これが意外とむずかしい。そして、おもしろい特徴として、身近なもののほうがむずかしいのです。たとえば家族の似顔絵というのは、どうでしょう、描きづらい
睡眠とはじつに不思議なもので、弱肉強食の自然界において睡眠ほど危なっかしい行為もありません。睡眠時に敵から襲われ命を落とした動物たちは、たくさんいるでしょう。睡眠の危険性は知っているのに、どの生物もみんな「寝ない」という進化をなかなか遂げないのもおもしろいですね。これはもう食事と同じく生命維持に欠かせないのでしょう。そんななかで、じゃあどうすれば安全に眠ることができるかというと、いちばんの理想は「みんなで寝る」です。
映画でよくある場面なんですが、囚われの身の主人公が監視の目を盗んで腕立て伏せだとかをやっています。あるいは、なにかガラスの欠片や金属の破片から鍵やら武器をつくります。こういう場面を観るたび思うのが、「なにもないところでも意外となんでもできるものなんだな」ということ。なにもないところでも、なにもできないところでも、必死で生きようと戦っている人は、なにかができるということ。囚われの身の主人公に、いつもそんなことを思います。
人は、山や森の景色を目にしたときに、ざっくり「自然はいいなぁ」とか言います。しかし、自然というものの定義が、「人の手の加えない状態」であるとするなら、目にしているものは自然ではありません。人の住む地域で「自然」として扱われているのは、だいたい「里山」と呼ばれる人と自然の合作です。この自然に対する誤解、健康についてのあれこれもそうですよね。「自然のものを」と言ったところで、それも実は「里山」かもしれません。からだも同じで、
数字という結果は、それまでの苦労を癒します。売り上げもそうですし、スポーツのタイムもそうです。達成する喜びは、たしかに苦労を癒すと思います。でも、数字の癒しだけで、人は走り続けることはできません。ひとつのハードルをクリアすることによる喜びは、あくまで一時的なものだと思います。人は必ず「その先」に、「いったいなにがあるのか」問うことになると思うのです。「どこに向かっているのか」必ずその問いにぶつかります。
ひとつの作品から取り出せる情報量というのは、じぶんのこれまでの思考に比例して増えていくものかもしれません。たとえばジブリ作品で、こころを打たれる場面が子どもと大人でちがうというのは、人生の思考量が影響している気がします。おもしろいと思えるものがたくさんある人っていうのは、思考の量が多いんだと思います。「この芸人つまんねぇ」「こんな音楽ぜんぜんよくない」「これのどこがおもしろいの」こういう批判が口癖の人って、「ふだんぜんぜん
「創造する力」がないとき、その場をたのしむためには、他人から与えてもらうしかありません。親鳥が持ってくる餌を待つ雛鳥にとって、「なにもない状態」とはただの苦痛です。受け手にとっては、なにもない田舎より都会のほうがおもしろくて居心地がいいはず。しかしこれが、「創造する側の人間」にとっては、完成された都会よりも「なにもない場所」こそが格好の遊び場となります。クリエイティブな人ほど、未完の地にわくわくしています。不完全とか未
人がなにかを思ったり考えたりして、それを心から話しているときというのは、歌に似ているような気がします。しゃべりの上手い芸人さんの話も、名人の落語を聴いていても同じようにいい気持ちになることがあります。これは語られている意味や内容の部分より、声の表情や流れが気持ちよくていい気持ちになるんじゃないかと思います。歌をたくさん歌っている人たちの話しぶりというというのは、どうしても音楽的に感じられます。声に感情を乗せることと、心地よ
あたかかくなってきたから春を感じるということもあるけれど、花が咲いているのを見つけて春を感じるというのもあります。最近だと「鼻が春を感じる」、ということもあるのかもしれません。目が痒くなったり鼻水が出たり、そういう春の感じ方です。あと、立て続けにお出かけのお誘いが入ると春を感じたりします。飲みに行こうとか、BBQしようとか、お花見しようとか、やたらお誘いが多くなるのも春のように思います。人間もやっぱり動物だから、
男は冒険的であるといわれます。現実のことを考えないで、未知の荒野に飛び込んでいくといわれます。それは遺伝子のせいであり、そういう男の浪漫が人類を進化させたのだとまことしやかに肯定的に語られてきました。ちなみに、こういう物語を語ってきたのは、当然のことながらその男たちが中心です。一方で、女は冒険は嫌います。男の冒険に「無謀だ」と水をかけます。散らかし放題の浪漫の残滓を片づけて、今日を生きる食事の用意をします。子どもを育てるために
歩道橋の上でジャンプすると揺れます。倒壊しないためには、ガチガチに補強するより柔軟性が必要です。こういう柔軟性の大切さっていうのは、人にもいえると思うんですよね。スポーツでも仕事でもなんでもいいのだけれど、一緒になにかをしたいと思うチームには、いたずらを思いついたときのような「へへへ」の要素がある気がします。「あそびごころ」というのかな。あそびごころ、笑い、冗談、ポテンシャル。いろんな言い方ができるけれど、「へへへ」という柔軟性
肉食魚というのは、追いかければ食べられる小魚を狙います。基本速く泳ぐ元気のいい魚は追わないし、死んで浮かんでいる魚も無視します。「ちょうどいい感じ」の魚を狙うんですね。「口説き落とせなそうで、落とせそう」このあたりがいちばんモテるといいます。狙われる魚も同じなんでしょう。口が悪いので評判の大将のいる店にどうしてわざわざ客がいくのかの問いも、このロジックで説明できる気がします。毒舌とか口が悪いとか無愛想だとかを看板にすると、客の
テレビにも、SNSにも、雑誌にも、あらゆるところにランキングがあります。歌、映画、本、学校、会社、有名人の好感度ランキングとあらゆるものに順位をつければ、成立すると思っている節があります。しかも順位の妥当性は、意外とどうでもいいらしく、とりあえず10個くらい項目を並べればコンテンツとして成立するのでしょうね。なぜ、ランキングがこれほどまでに多いのかといえば、やっぱり人気だからでしょうね。つまり見られるからです。ランキン
特におもしろいわけじゃないテレビ番組が、意外と数字をとっていることがあります。なぜだろうと考えてみたら、じぶんも疲れているときには、そういう番組をよく観ていました。観ているというより、流しているような感じです。たのしみにしているテレビドラマを観るときには、じぶんがしっかりしているときに時間をとってじっくり観ます。時間がないときには、録画したり配信で観たりします。しかし、じぶんが疲れているときは、たのしみにしている番
おぼえておける情報の棚には限りがあります。あれもこれも「なにかの役に立つかもしれない」と知っておきたくなります。知らないままだと時代の流れに乗り遅れてしまう気がしてとりあえず取ってきた情報というのは、意外となくてもいいのかもしれません。あふれる情報に毎日触れ続けていると感覚が麻痺していく気がします。見たくないものまで義務感のように見続けていると、じぶんがほんとうに見たいものがなんなのか分からなくなって見えなくなっ
ケンカするほど仲がいいと言います。でも、できればケンカは避けたいのが本音ですよね。それでも、じぶん以外の他人と関係性を深めていこうと思うなら、意見が食い違ったり伝わらなかったりは、どうしてもあると思います。関係性を良くしたい思いは同じはずなのに意見が食い違ってケンカになってしまう。たがいのコミュニケーションのなかで、意見のすれ違いが発生するときというのは、ほとんどの場合「じぶんが正しい」とそれぞれが思っているときです。
いま、じぶんが歩いている横をスポーツカーが通り過ぎたとします。それが世界に数台だけしか存在しない激レア高額スポーツカーだったとしても、たぶんクルマに興味のある人以外は、通ったことさえ気づかないでしょう。うるさいエンジン音を立てていたとか、印象的な色(たとえば真っ赤)だったとかならチラッと見るかもしれませんけれど、ほとんどの人が見向きもしません。ほとんどの人は、なにも思っていません。街頭インタビューで、いろんな質問が投げかけられ
働き者といわれる人がいます。彼のインタビュー記事などを読めば、ほんとうに働き者だと思います。しかし、家ではうってかわって怠け者です。家のことをなにも手伝わないで、ごろごろ、すやすや、そしてまたごろごろ…二足歩行している場面をなかなかみない。ほんとうに動物のナマケモノみたいです。以上のことから分かることは、「山田さんってどんな人?」と訊かれたとき、ごろごろしたり居眠りしている状態の山田さんをすべて省力して伝えます。居眠りを含め睡眠
「じぶんで考えて生きよう」というのが、このごろのじぶんのテーマのひとつです。あれこれ周囲のせい、時代のせい、なにか持っていないもののせいにしないで生きていきたいと思っていたりします。なにかのせいにしないということは、だれでもなく、じぶんでやれることを考えるということでもあります。「だれかがこういうことをしないかなぁ」「こんないいアイデア、だれかやらないかな」なんてところで考えることをやめないで、ほんとうにやりたいことなら、「じぶんはどうし