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テレビにも、SNSにも、雑誌にも、あらゆるところにランキングがあります。歌、映画、本、学校、会社、有名人の好感度ランキングとあらゆるものに順位をつければ、成立すると思っている節があります。しかも順位の妥当性は、意外とどうでもいいらしく、とりあえず10個くらい項目を並べればコンテンツとして成立するのでしょうね。なぜ、ランキングがこれほどまでに多いのかといえば、やっぱり人気だからでしょうね。つまり見られるからです。ランキン
特におもしろいわけじゃないテレビ番組が、意外と数字をとっていることがあります。なぜだろうと考えてみたら、じぶんも疲れているときには、そういう番組をよく観ていました。観ているというより、流しているような感じです。たのしみにしているテレビドラマを観るときには、じぶんがしっかりしているときに時間をとってじっくり観ます。時間がないときには、録画したり配信で観たりします。しかし、じぶんが疲れているときは、たのしみにしている番
おぼえておける情報の棚には限りがあります。あれもこれも「なにかの役に立つかもしれない」と知っておきたくなります。知らないままだと時代の流れに乗り遅れてしまう気がしてとりあえず取ってきた情報というのは、意外となくてもいいのかもしれません。あふれる情報に毎日触れ続けていると感覚が麻痺していく気がします。見たくないものまで義務感のように見続けていると、じぶんがほんとうに見たいものがなんなのか分からなくなって見えなくなっ
ケンカするほど仲がいいと言います。でも、できればケンカは避けたいのが本音ですよね。それでも、じぶん以外の他人と関係性を深めていこうと思うなら、意見が食い違ったり伝わらなかったりは、どうしてもあると思います。関係性を良くしたい思いは同じはずなのに意見が食い違ってケンカになってしまう。たがいのコミュニケーションのなかで、意見のすれ違いが発生するときというのは、ほとんどの場合「じぶんが正しい」とそれぞれが思っているときです。
いま、じぶんが歩いている横をスポーツカーが通り過ぎたとします。それが世界に数台だけしか存在しない激レア高額スポーツカーだったとしても、たぶんクルマに興味のある人以外は、通ったことさえ気づかないでしょう。うるさいエンジン音を立てていたとか、印象的な色(たとえば真っ赤)だったとかならチラッと見るかもしれませんけれど、ほとんどの人が見向きもしません。ほとんどの人は、なにも思っていません。街頭インタビューで、いろんな質問が投げかけられ
働き者といわれる人がいます。彼のインタビュー記事などを読めば、ほんとうに働き者だと思います。しかし、家ではうってかわって怠け者です。家のことをなにも手伝わないで、ごろごろ、すやすや、そしてまたごろごろ…二足歩行している場面をなかなかみない。ほんとうに動物のナマケモノみたいです。以上のことから分かることは、「山田さんってどんな人?」と訊かれたとき、ごろごろしたり居眠りしている状態の山田さんをすべて省力して伝えます。居眠りを含め睡眠
「じぶんで考えて生きよう」というのが、このごろのじぶんのテーマのひとつです。あれこれ周囲のせい、時代のせい、なにか持っていないもののせいにしないで生きていきたいと思っていたりします。なにかのせいにしないということは、だれでもなく、じぶんでやれることを考えるということでもあります。「だれかがこういうことをしないかなぁ」「こんないいアイデア、だれかやらないかな」なんてところで考えることをやめないで、ほんとうにやりたいことなら、「じぶんはどうし
なにかを発見したり感じたりするのは、ひとつの大切な能力のように言われます。そして、なにかを失ったり感じなくなったりすることは、あんまりいいこととは言われません。たとえば、とても悲しいこと。ほかの人はまだ気づいていないけれど、先に感じる人は感じてしまいます。先に見える人は見えています。そういうことに優れた人がいるから、詩とか物語とか歌とか表現にかかわる世界が豊かになってきたのだろうと思います。だけど、悲しいことを感じたままで
「なんでこんなものが売れるんだ?」と驚いてしまうような商品が時折あります。いったいだれが企画したのか、これで売れるとほんとうに思ったのか、確信犯でも愉快犯でもない、ただただ天然な商品。そういうときに思うのが、「企画会議をのぞいてみたかったな…」です。意見を求められてしまうと困るので、参加ではなく見学希望です。きっと、おそらくまじめに、企画書をしたためた人がいるはずです。まじめな議論も交わされたことでしょう。そして、まじめにGOが出
たとえば幼いころに貧しくて苦労した人がいたとして、一所懸命に努力して成功をおさめて、裕福な暮らしを手に入れたとします。その人に今の若い人たちが、「お金がなくてたいへんです…」と言うと、「ぜんぜん努力が足りない」と叱責したりします。みんながそうじゃないですけどね。叱責する理由としては、じぶんが努力してきたのだから、できない理由を努力不足だと決めつけてしまうからです。それと、もうひとつ。過去のじぶんの努力をなぜか否定さ
じぶんには、なにか特別な才能がある。若い頃にそんなふうに思っていた人も、だんだん「じぶんは凡人なのかも…」と悟るようになっていくのだと思います。ただ、そのあきらめは、そんなに悪くないのかもしれません。凡人であることを受け入れると、日常から大根演技が消えていくんですよね。「つよく見せよう」「かっこよく見せよう」「かしこく見せよう」「おもしろく見せよう」「へんな人に見せよう」そういう煩悩が少しずつ減っていきます。凡人がじぶん
なんでもかんでもそのままで、すべてじぶんの思い通りにいくのであれば、考えることをしなくてもいいわけです。ぼーっとしているだけでも、ちゃんと思い通りにいくのであれば、考える必要なんてありません。たとえば、家から駅までぼーっとしているだけでも辿り着けるのは、その道程に予想外がほとんどないからです。都心の整備された道なんてそうでしょう。なにも考えなくても容易に駅まで着けるでしょう。でも、これが険しい山道ならどうか。予想できない道
国民が、とくに若者が政治家たちのことばやおこないに幻滅し不信感を募らせ、果てには政治になにも期待できなくなり、興味関心さえ失ってしまった状態を政治不信と言ったりします。国会中継なんかを見ていると、そりゃそうだと思う場面が多々あります。これを見て尊敬はできないよな、と。一方でそういう場面は、政治にかぎったことではない気もします。たとえば、いま中学生がなんとなく世の中を見渡してみたときに、尊敬や憧れの対象ってどれくらいいるのかな。
「絵に描いた餅」とは、どんなに上手に描かれていても腹の足しにもなりゃしない…食べられない(=役に立たない)現実的になんら価値を持たない、そういう意味でつかわれます。たしかにそうなんですけれど、絵に描いた餅を過小評価するのもどうなのかなと思っています。たとえば無人島で、食べることがむずかしいときに絵に描いた餅に価値はありません。でも、食べることの心配がほとんどなくなった状況のおいて、絵に描いた餅の価値をなめてはいけないんじ
じぶんの近くに、ただただ機嫌のいいやつがいるって、それだけでいいと思うんですよね。なにができるとか、なにをしてくれるとかじゃなくて、「ただ機嫌がいい」というだけでほんとうにありがたいのです。人間は、わりと心の中のうれしい気持ちとかを隠しますけれど、犬がしっぽを振るみたいにばれちゃえばいいのに。だれかが機嫌よくしているというのは、どういうことばよりも人と人との間を幸福にします。じゃあ、どうすれば機嫌よくしていられるのか
「これはもっと簡単にできないか?」とか、「これ、もっと短くできないか?」とか、「これ、いっそ無くしちゃえないか?」とか、効率化というか、単純化というか、基本的には「いいこと」とされてきました。効率化できることは、効率化する。これが仕事の進歩だったかもしれません。鉄道の歴史なら、鈍行で1日かかったような旅行が、急行で早く行けるようになり、新幹線がもっとそこまでの時間を縮めて、その新幹線はリニア中央新幹線としてもっと速度をあげようとしています。
50・60代くらいのおじさんが、若い人たちに食事をごちそうするとき、「とりあえず焼肉」は多いと思います。若いやつらは焼肉食わせておけばOK、それがいちばんうれしいだろう、焼肉が嫌いなやつなんていないだろう、そういうシンプルな思いからでしょう。ところが、です。最近の"若いやつら"は焼肉をさほどよろこばない説があります。とくにカルビやホルモンのように脂っこいものを露骨に避け、赤みをありがたがったりしていると。特上カルビをおかわり
なにかよからぬことが起きてしまった場合、関係者は「心を傷めるべき」とされます。そういう場面において、「切り替えが早い」人間というのは、非難されたり攻撃されたりするでしょう。ほんとうは「よからぬこと」の種類にもよるのだろうと思います。現実的になにかを「よい方向」にもっていくためには、切り替えられずに深く反省したり悲しみにくれているより、切り替えたほうがいいと思います。でも、わかっていながらも、「切り替え」を早くするのはむずかしいで
宗教上の理由から、牛や豚を食べない人たちがいます。そうした禁忌にない国に育った身としては、「牛(豚)を食べられないなんて、かわいそう」「人生損してる」なんて思ってしまいます。でも、逆の立場でいえば、不浄のものと考える牛(豚)をよろこんでむさぼり食べているぼくらのほうを「かわいそう」と思っているかも。そういえば日本人も、昔は牛や豚を食べていませんでしたね。明治に入ってから、海軍で英国式の食事を出すようになって、滋養強壮のためにパン
人類は心配性だったがゆえに、こうして生き延びてこられたといいます。たぶん、大胆とか、冒険的ということが、なぜこんなに人をわくわくさせるかといえば人間が大胆でも冒険的でもないからです。火災のなかに飛び込んだり、敵陣にひとり突っ込んでいくようなことを「あたりまえじゃん」と思っている人は、わくわくもドキドキもしません。過剰なくらいに心配性だからこそ、くれぐれも命を失ったり、持っているものを無くさないように、準備したり工夫したりしてきたんで
だれにだって苦手なものはあると思います。トマトが苦手。パクチーは食べられない。食わず嫌いもあればアレルギー体質でどうしても口にできない人もいるでしょう。食材の苦手だけではなく、小説・映画・音楽・ファッションその他諸々苦手なものはだれにだっておそらくきっとあるのだと思います。「あぁ、じぶんはこれ苦手だな……」そんなふうに思ったとき、気をつけていることがあります。それは苦手なものについて、攻撃の態度をとらないようにすること。
三日坊主を自認しているので、どうすれば続けられるかということを長い間ずっと考えてきましたけれど、続けたいことを非日常にしたら続かないのだと思います。日記でも、ダイエットでも、急激に熱を入れてやり出すと景色が変わって非日常になります。それこそが原動力にも思えるけれど、たぶん続けるにはいい状態じゃない。熱がある状態でやっていると、結果が早く見たくなってしまうんですよね。「ゆりもどし」というのもあります。それに、熱はやがて必ず冷める。
なにかを決めるとき、「すべて完璧な選択はありえない」と最初に決めてしまうことで、納得できる選択ができるのだと思います。どんなに慎重にどれほど時間をかけて選んだ答えであっても完璧を求めた「正解」」にはかならず不満が残るものなのだと思います。たとえば服を選ぶとき。デザインで選ぶのか、価格、素材、使い勝手と総合的に判断する選び方がまあ一般的だと思うんですけれど、すべてに完璧を求めようと思えば短所は排除されるでしょう。結果、
なにかを頼まれるというのは、とても幸せなことだと思います。だれにもなんにも頼まれなかったら、張り合いがない人生になってしまいます。なにかで、あてにされているということ。だれかに思われているということ。なんなら耐えられる範囲で憎まれていることまでも、人は人との関係があることを望んでいます。仕事ひとすじで生きてきた人が会社をやめたらすっかり元気がなくなった、というような話もよく聞きます。もちろん仕事をしていなくても、なにか
老いた人がいろんなことを忘れたり、できないことが増えていってしまうのは、ある意味で自然なことだと思います。ただ、それまでとちがって、「お風呂に入らなかったりする」というのは、かなり危うい兆候なんだといいます。入浴とか歯を磨くというのは、じぶんの健康のためでもあるけれど、「他人と関わるため」にしているという要素も含んでいます。それらをしなくなるというのは、「社会のなかにいる」という事実を考えられなくなっている兆候かもしれない。失恋
なんの障害も抵抗もなくストレスフリーで気持ちよく取り組める状態というのは、はたして最高なのでしょうか。なにかしようと思うとき、「邪魔するものがなにもない状態」で力を発揮するのはむずかしいです。子どもがまだ小さいとか、兄弟がちょっかい出してくるとか、友だちが誘いにくるとか、上司がダメダメだとか、姑がうるさいとか、高いとか低いとか重いとか軽いとか、そういう邪魔や抵抗があったほうが能力は発揮されやすいのかもしれない。邪魔があるから
禁止されるとかえってやりたくなる心理現象のことを、「カリギュラ効果」といいます。袋とじをのぞきたくなるのも、禁止されている恋愛ほど燃えるのも秘密を知りたくなるのだってカリギュラ効果です。1月がものすごく忙しくて、じぶんの時間がほとんどありませんでした。どこにも行けないと行きたい場所リストが、どんどん増えていきます。どこにも行けないと行きたい場所が明確になります。やりたいことが明確になります。それは同時に、なん
苦手と思っていることのなかには、ほんとうに向いていないこともあるけれど、「やったことの回数が単純に少ない」そういうものもある気がします。苦手意識をなくして、たとえば10回くらいやってみたら、意外とできちゃうなんてこと、結構あるんじゃないかな。できなかったことができるようになって「新しいじぶん」に出会えると、毎日きっとたのしくなると思います。苦手なことに挑戦するんじゃなく、苦手だと思っていることを「やったことの回数がただ少ないだけ」と
「じぶんは世界でいちばん強い」ともしも言っている人がいたとしたら、厄介なことは想像できます。でも逆もまた然りで、「じぶんは世界でいちばん弱い」と言っている人がいたとしたら(言っていなくても思っているなら)それはそれで厄介だと思います。「じぶんには力がないんだから、これくらいやってもいいでしょう?」そうやって言われたら、ある意味で強い人より怖いです。弱いことを理由にして、レッドライン(一線)を越えてきそう。正攻法で太刀打ちで
大人になれば優柔不断は卒業できて、決断は容易になると思っていました。しかし、どの立場の人の気持ちも想像できるようになるから決断は困難になりさらに優柔不断になっていきます。言われた人の気持ちや周囲の反応が分かるようになると、ひとりの人間として口に出すべきかじぶんのなかで咀嚼した結果、「言わない」という判断をする場面も大人になると増えていきます。突き詰めればたぶん、それらすべての根底にあるのは、「なに者も傷つけたくない」というずる