ブログ記事920件
西武OB戦翌日の3月17日(日)にMINTGAMES池袋店で行われたデストラーデ氏のサイン会&2ショットサイン会へ行ってきました。イベント2日前にはチケット予約も完売しており、当日会場には約60人のファンが集結。西武黄金期のユニフォームや帽子を着用したファンたちも10人位いました。ユニフォーム着用していたうちの一人は私です(笑)。オーレは前日のOB戦で右膝を故障していたのでイベント開催の心配をしていたのですが、松葉杖を突きながら来てくれました。今回書いて頂いたサインです。「H
【1979年の太田浩喜】西武在籍(練習生):1年目(16歳)、※クラウンライターから残留、背番号83一軍、二軍試合出場なし。1977年秋平和台球場で行われたクラウンライターライオンズのテストに参加。テストには、約80人の中学生が集まり、2名が合格した。そのうちの一人が内野手志望の太田浩喜だった。(1979年当時の記事コメントより)野球は草野球くらいで本式にやったことはなかった。中学時代は陸上部。テストを受けた動機はプロ野球の試験を受けるチャンスなんてめったに無いし、
★2018年9月30日に掲載したブログのアップデート版です★(1981年西武ファンブックより)小柄な体でキビキビと動く守りは華麗さが感じられる。今シーズンは石毛、大原とのポジション争いが見もの。バットを短く持って、シャープに振り切るバッティングは相手投手にとってはイヤな存在。【1981年の行沢久隆】西武在籍:3年目(28歳)、背番号8打撃成績:97試合、226打数58安打、打率.257、4本塁打、22打点、3盗塁1981年は、新人・石毛宏典が加入し、遊撃手のポジション
(1981年西武ファンブックより)田淵選手と並ぶチームの一の長身から投げおろす速球は威力がある。大投手になるために必要な度胸も十分。打者との駆け引きさえ学べば、1軍でも投げられる実力。【アマチュア時代】金足農高時代は、1年秋からエースとなり、2年時には秋季秋田県大会決勝まで進出。決勝はのちに西武でチームメイトになる秋田商・高山郁夫との投げ合いの末、準優勝に終わった。3年時は、夏の甲子園県予選で準決勝で敗退し、甲子園出場は叶わなかった。全国的には無名な存在もプロ球団からは186
(1979年西武ファンブックより)手の指が長く投手として理想的タイプ。多彩な変化球を投げ分けるリリーフ向き。成長が認められフロリダキャンプに参加。【1979年の良川昌美】西武在籍:1年目(19歳)、※クラウンライターから残留、背番号50成績:一軍試合出場なし1977年ドラフト5位指名でクラウンライターに入団。1年目の1978年は、一軍での出場機会は無かった。球団が変わった1979年は、高卒2年目ながら一軍班のフロリダキャンプに抜擢されるなど当初は期待もされた。しかし、
【1979年の吉田大介】西武在籍(練習生):1年目(16歳)、※クラウンライターから残留、背番号82一軍、二軍試合出場なし。1977年秋平和台球場で行われたクラウンライターライオンズのテストに参加。テストには、約80人の中学生が集まり、2名が合格した。そのうちの一人が投手志望の吉田大介だった。(1979年当時の記事コメントより)小学校5年生の時からリトルリーグで活躍していたし、野球好きの父にずっと鍛えられてきた。テストは新聞広告で知って中学生が相手なら絶対に負けない自
(1979年西武ファンブックより)左の代打の切り札。ベテランの味を生かした勝負強さは、ここ一発の時に期待がかけられる。地味な選手だが貴重な戦力。【1979年の長谷川一夫】西武在籍:1年目(34歳)、※クラウンライターから残留、背番号9打撃成績:80試合、50安打、4本塁打、15打点、1盗塁、打率.3621963年大毎オリオンズへ入団。プロ11年目の1973年には、オールスターゲームに初出場した。1975年リーグ最多の6三塁打を記録した。1977年クラウンライターに移籍