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こんにちは今日も家でダラダラしております。土曜日の旅先の晩ごはん用の居酒屋予約しておかないとなぁ~4月26日〜28日2泊3日ニセコ+函館旅のレポです4月28日(日)函館駅前をウロウロしていた我々、私はずっとこの摩周丸が気になっていました。チェックアウトは11時。ちょっと時間もあるし見学してみたい!と相方にお願いして中に潜入です摩周丸公式サイトはコチラホーム-函館市青函連絡船記念館摩周丸1988年3
東北本線~青函連絡船~函館本線と継走されて札幌の隣にある苗穂駅まで到着した北東航2・1・21の3両ですが、実はここが終着ではなく、まだ先への旅路が待っているのです。まず北東航2のマニは苗穂を起点とする札郵2運用のスユニ50と新たなペアを組み、急行513レ「大雪3号」に連結されて網走へ向かいます。残る北東航1と21の2両は、急行413レ「まりも」に連結されて釧路を目指すことになり、どちらも翌早朝に最終的な目的地の網走と釧路に到着となります。隅田川を出て2泊3日、所要時間35時間
皆さんこんにちは。今日は8月23日なんですが、6年前の明日2015年8月24日にこの画像で当ブログをスタートさせました。青函連絡船羊蹄丸。1988年の8月9時30分に函館港を出港する臨時2便青森行です。確か現在の道南いさり火鉄道七重浜駅付近の有川桟橋付近から函館山をバックに撮影しました。この年の3月青函トンネル開業とともに廃止となった青函連絡船。その年の夏にトンネル開業を記念して開催された青函博に合わせて一日2往復の復活運航がされました。函館
皆さんこんにちは。十和田丸に乗って函館を離れました。第1第2の二つの岸壁がありました。多分こちらの付近に現在青函連絡船メモリアルシップの摩周丸が係留されているのでしょうか?雪に霞む函館山。夏の時ははっきりと見えておいたのですが。その函館山との反対側右舷側。有川桟橋に係留されていました。青函連絡船大雪丸。私が北海道にきた数ヶ月前に検査の関係か一足先に引退してこの位置に係留されていました。かなり寂しい再会となりました。2
こんにちは5月3日は、青森に居ました。ベイエリアに係留されてる青函連絡船の八甲田丸を見学。甲板に、鯉のぼりが泳いでました。操舵室。昭和30年代の青森駅前の様子が等身大のジオラマで再現されてます。市場や商店など、なかなか楽しい。連絡船と言えば、船内に鉄道を載せて運んでました。見ごたえがあります。一番面白かったのは、鉄道模型でした。晩御飯は、青森市の老舗中華料理店、龍鳳閣本店さん。青森市安方2
ご訪問の皆様、こんこん(こんばんはorこんにちは)です。私が初めて青函連絡船に乗ったのは1978年(昭和58年)3月5日の1便摩周丸でした。春休みに帰省中の同級生を帯広近くの芽室に訪ねること。そして最後の活躍をしている10系寝台車の乗り納めが目的でした。青函連絡船は必然的に行きと帰りの交通経路に含まれました。ED75牽く50系客車に揺られて12系客車の発電エンジンの音が響く青森駅に到着し、桟橋待合室で待ちました。初めて対面したのは折り返し101便になる十和田丸でしたが、乗船は1便(摩周丸
ラグジュアリーツイン半露天風呂付(温泉)のお部屋のお風呂です。お風呂からの函館湾に青函連絡船の景色チェックアウト、ギリギリまでお風呂を楽しみました。トイレは独立お部屋のテレビ画面でホテル18階にある温泉大浴場灯の湯の空き状況を確認できます。大浴場にも着ていける館内着お部屋のタオルを持っていくのがルールでした。18階の大浴場と露天風呂は海側と街側の2方向にあり一日おきに女湯、男湯が変わります。女湯は到着日が街側翌朝が海側。露天風呂はインフィニティ風呂
青函連絡船最大の魅力は貨物車両を搭載する「車両甲板」で、鉄道車両が船を通じて海を渡ることは世界的にも大変珍しいそうです。※以下、各一部HPより引用しています。1988年(昭和63年)まで80年間、青森港と函館港を結んでいた青函連絡船で、23年7ヶ月と現役期間が一番長かった「八甲田丸」をほぼ就航当時の状態に係留保存した貴重な施設です。JR青森駅から歩いて5分。青森港に接岸された海上博物館。『青函連絡船メモリアルシップ八甲田丸』2階乗船口、受付・チケット
やはりどこへ行っても朝早く起きて周りを散歩この日も5時30分頃ホテル出発おばちゃんすごいね。。。ご苦労様観光施設アスパムが見えます青森県青森市、青森港の青い海公園に建つ青森県の観光と物産の情報を提供する三角形のユニークなフォルムのビルが、青森県観光物産館アスパム建物は青森(AOMORI)のAと伸び行く様をイメージしたもの。13階は展望台(
映画「飢餓海峡」、水上勉の同名推理小説を映画化。日本映画の最高傑作の一つに数えられています。1965年に公開。監督は内田吐夢。出演は三國連太郎、左幸子、伴淳三郎、高倉健ほか。小説は1963年に出版。1954年9月に上陸し北海道に大きな被害をもたらした洞爺丸台風を基にしており、作中では転覆し沈没した青函連絡船は「洞爺丸」から「層雲丸」に、台風の影響で大火が発生した町は「岩内町」から「岩幌町」になっています。岩内町雷電海岸のワンシーン。雷電刀掛岩の形は今も昔も変わりません。
前回は、巡洋戦艦から航空母艦へ改造されるところで関東大震災により損傷し解体された「天城(二代目)」について取り上げました。今回も「天城」を取り上げます。こちらは航空母艦として竣工した「天城(三代目)」です。ミッドウェー海戦で敗北し虎の子の航空母艦4隻を失った帝国海軍は、それまでの建艦計画である「第五次海軍軍備充実計画(通称:マル五計画)を全面的に見直し、昭和17年9月に通称「改マル五計画」として改定します。このとき、航空母艦の大幅な増産を目指し、「飛龍」をベースに艦橋の位置などを見直した
青森駅青森県青森市の代表駅です。青森市は約26万人の人口を擁する青森県の県庁所在地です。元々青森県の中心都市は弘前でしたが、県のほぼ中央に位置し、港があり北海道干拓の拠点にもなることから県庁が置かれ、今では県下一の都市にまで発展しました。青森駅はかつて青函連絡船が発着しており、本州と北海道を繋ぐ拠点として重要な地位を占めていました。その後、青函トンネルの開通や、東北新幹線が隣の新青森に乗り入れたことによりその地位は大幅に低下しました。現在では広大な鉄道用地を再開発し、青森市の