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今日は舞鶴軍港東側に設けられた吉坂(きっさか)堡塁をレポートします。右端に離れて位置しているのが吉坂堡塁となります。堡塁の履歴です。◆起工:明治33年(1900年)7月20日◆竣工:明治35年(1902年)11月20日◆備砲(本堡塁):克式十二糎加農砲2門、十二糎加農砲4門、九糎臼砲6門◆備砲(付属堡塁):十二糎加農砲2門◆備砲完了時期:明治35年(1902年)7月◆設置標高:(本堡塁)240m、(付属堡塁)184m◆廃止:大正8年(1919年)要塞整理にて兵備
防府市田島には航空自衛隊防府北基地が置かれていますが、この基地の前身は陸軍の防府飛行場でした。まずは防府飛行場と駐屯した部隊について説明します。==============================大東亜戦争開戦翌年の昭和17年(1942年)、陸軍は防府市南西部の中関地区に航空隊の飛行場を建設することを決定しました。土地の買収を行い、昭和18年(1943年)9月より工事が始まりましたが、地区民を始め中学生が動員され、突貫工事にて昭和19年(1944年)5月に完成しました。飛
ビビアミ陸英雄編陸軍英雄のオススメ編成です。※注意あくまでも個人的にオススメしている編成になります。(スキルのダメージ量等はステータスで変わるので約○○%と記載、ある程度の前後があります)第1位シエル現在の全英雄中最強を争う英雄星5時のスキル効果はシエル編成時に味方陸軍が攻撃時一定確率で威力約68%のダメージをランダムで5回攻撃する。(ただし発動率は低い)陸軍をメインで使うなら最優先育成英雄となります。ダメージ量68%って低いじゃん!って思いますが発動さえすれば相手の兵器を一
2年ぶりに石原岳堡塁を訪れましたので再訪記を書いていきますが、前回の探訪記でほぼ語り尽くした感があるので、適度に端折りつつレポートしていきます。まずは履歴から。◆起工:明治30年(1897年)10月21日◆竣工:明治32年(1899年)12月31日◆備砲:・克式中心軸35口径10cm加農砲6門(明治33年9月備砲完了)・9cm臼砲4門◆設置標高:77.10m乃至73.10m◆任務:敵上陸兵の撃退、背後の面高堡塁、高後崎砲台及び港口の敷設水雷の掩護◆経過:・明治37-
陸海軍服装総集図典―軍人・軍属制服、天皇御服の変遷、ヤフオクにて出品中です。北村恒信編国書刊行会平成8年発行A4変型判:245ページISBN-10:4336038805これまであまり語られることのなかった、軍装の変遷について、詳細に調査したもの。陸海軍の比較、階級による区別、各時代ごとの特徴などが、多くの図版とともに解説されています。日本陸海軍の建軍から終戦までの軍服、軍帽、襟章、徽章、肩章、臂章などの変遷を図版3000余点で一望。陸軍と海軍がそれぞれ独
「リボルバー・リリー」を観てきました。ストーリーは、大正末期の1924年。関東大震災からの復興で、活気にあふれた東京。16歳からスパイ任務に従事し、東アジアを中心に3年間で57人の殺害に関与した経歴を持つ元敏腕スパイ・小曽根百合は、いまは東京の花街の銘酒屋で女将をしていた。ある時、消えた陸軍資金の鍵を握る少年・慎太と出会ったことで、百合は慎太とともに陸軍の精鋭部隊から追われる身となる。というお話です。1924年(大正13年)、東京は関東大震災から1年が過ぎ、復興に向
【少年特攻兵荒木幸雄伍長に想いを寄せて】〜荒木伍長の故郷の高園寺(群馬県桐生市内)にお参りしてきました‼️〜昨日は「花まつり」お釈迦の誕生日でした。ウィルス禍で閉門蟄居状態にありますが、以前から一度お参りしたいと考えていた、子犬を抱いた少年特攻兵の荒木幸雄伍長のお墓参りに出かけました。時節柄、車で弁当持参で群馬県桐生市まで行ってきました。感染防止の為、行程中は、サービスエリアでのトイレ利用以外は下車せず、昼食も家内が作った弁当を社内で摂りました。(笑)荒木伍長の菩提寺高園寺は
明治維新後、敵国艦隊の襲来に備えて陸軍による海岸防御事業が進められました。欧州から陸軍士官を招へいして指導を仰ぎつつ、重要とされる全国各地の港湾、海峡に堡塁/砲台を設置する計画が立てられましたが、東京湾に侵入を目論む敵艦を撃退し、帝都東京と横須賀軍港を守るべく建設されたのが「東京湾要塞」でした。東京湾とは一般的に、三浦半島の劔崎(つるぎざき)と房総半島の洲崎(すのさき)を結ぶ線より北の水域のことで、湾口にあたる浦賀水道を含めて言います。地図で示すとこんな感じですね。なお、横須賀の観音
皆津崎(かいつざき)第一砲台が築城されたのは奄美大島南端の皆津崎付近でした。以下、簡単な履歴です。*************************************◆起工:大正10年(1921年)11月21日◆工事中止:大正11年(1922年)3月31日◆配備予定火砲:四五年式二十四糎榴弾砲4門◆実際の配備:備砲されず(大東亜戦時、野砲をもって陣地構築)◆砲座標高:7.5m◆任務:大島海峡東口の防御◆特記:同じ敷地内に第二砲台(配備予定火砲“十一年式七糎加農4門”
テテが双竜部隊に配属され、8日に移動しました韓国メディア情報をまとめると陸軍総合行政学校を終えて、2024年2月8日、Vは江原道(カンウォンド)春川陸軍2軍団の双竜部隊に配置されました。第2軍団で司令部直轄の軍事警察団特任隊として服務をします。Vは、首都防衛司令部特殊任務隊(SDT)に志願。1次書類選考と2次面接及び体力検査に合格した後、2023年12月11日に新兵教育隊に入所。5週間の軍事基礎訓練を受け、後半期教育部隊である陸軍総合
今日から千代ヶ崎砲台をレポートしていきます。まずは砲台の履歴から。************************************・起工:明治25年(1892)12月・竣工:明治28年(1895)2月・備砲:二十八糎榴弾砲6門(明治27年12月/4門、30年10月/2門据付)十五糎臼砲4門(明治28年1月据付)十二糎加農4門(明治33年12月据付)七糎野砲4門(明治37年の日露戦争時に据付)・特記1:昭和20年(1945)の大東亜戦争終結まで存続・特記2:
前回の続き…。陸軍では、四式重爆撃機、飛龍に桜弾という大型爆弾を搭載し、その桜弾機で出撃した特攻隊があったという話。桜弾を詳しく書きます。【桜弾】とは…桜弾は、直径1.6m、重さ2.9tの対艦用大型爆弾。航空機に装着して体当たり特攻をすることで爆発する。爆発威力は、前方3㎞、後方300mが吹き飛ぶことを想定していた。搭載された機体は、四式重爆撃機であり桜弾機(キ167)と呼ばれた。Wikipediaより引用https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E6%
昨日の日曜日は、嫁が出掛けてしまい、一人で何しようか?と思っていて、だけど外は暑いしなぁ。。😵。そんな時、ふいに"桶川飛行学校平和祈念館"を思い出し、じっとしてられずに、やっぱり行ってみる事に。桶川までは、ウチから車で向かえば圏央道で直ぐなんです。圏央道の入間から桶川北本は40分位。その後は一般道を10分程走り到着です。Yahooカーナビでも分かりやすい場所でした。到着して駐車場に車を停めて、ドア開けて降りた瞬間から、意識が朦朧(もうろう)とするくらい暑い日でした。まともな感覚での、
ワンピースの世界地図では、レッドライン大陸を除けば、サイズの大小あれどほとんどが島であるそして一つの島に二つ以上の国家がないことを考えるとほとんどが島国だということになる。(インドネシアのように一つの国家が複数の島を支配することも含む)各々の島国は独自の軍隊があり、その島で紛争があった際はその軍隊がまず対策にあたる。出来なければ海軍も加勢する。普段は海軍が助力すれば問題解決するが、そうならない場合はその上の段階があるのではないだろうかと考える。ここで空白の100年の「20の国家vs
大東亜戦争末期、北九州市小倉南区曽根に陸軍の飛行場が建設されました。場所はこちら。大東亜戦争中、北九州・関門地区の防空は第19飛行団(のち第12飛行師団に改編)が担っていましたが、航空基地増強のため、水田79ha余、塩田64haを買収して、昭和18年(1943)4月より曽根飛行場の建設が開始されました。昭和20年(1945)2月から第70独立整備隊、4月には第80飛行場中隊が学生などの勤労奉仕を得て鋭意建設に務めたものの、終戦までに完成しませんでした。(昭和19年9月に建設したとの
例によって、幻と消えた新版『帝国陸海軍事典』向けの原稿から、今回は旧陸軍の食事についてです。--------------食事営内での食事は聯隊の炊事場でまとめて調理されたものを内務班に運びこむ。炊事場へ食事を受領しに行くことを一般的に「メシアゲ」と称した。主食は麦まぜ飯で、大東亜戦争陸軍給与令(昭和18年8月)では精米600グラム(4合5勺)、麦186グラム(1合9勺)と定められていた。ただし、献立によっては白米のみを炊く場合もあり、ウドンやスイトンなどを主食とする献立もあった。