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今日は“愛のトンネル”内の遺構をレポートします。第一砲台(旧第二砲台)と第二砲台(旧第三砲台)を繋ぐ軍路には全長約90mの隧道が設けられており、公園整備に伴い“愛のトンネル”と言う愛称が付けられました。隧道の中には2階構造のレンガ造りの部屋が大小12部屋も残っており、これらは弾薬の一元管理を行う弾薬元庫と旧第一砲台(旧)の物と推測されています。猿島の砲台は明治14年(1881)に着工、明治17年(1884)に竣工しましたが、おそらく同時期に構築されたのではないかと思われます。猿島
先月1年ぶりに友ヶ島を訪れましたが、新たに確認した遺構がありましたのでレポートします。友ヶ島第三砲台左翼観測所の東方150m地点に観測所と思しき遺構があります。史料で確認が取れませんでしたが立地的に第三砲台の関連施設と思われますので、「第三砲台の補助観測所」として書いていきます。なお第三砲台は4回に亘ってレポートしましたので下記をご覧下さい。==============・その1(地下弾薬庫)・その2(砲座)・その3(地下弾薬庫、掩蔽部)・その4(地上施設)・友ヶ島の施設概
久々の由良要塞探訪です。友ヶ島第四砲台は長らく立入禁止でしたが、昨年2022年12月より解禁となりましたのでレポートを掲載します。砲台の履歴は以下の通りです。◆起工:明治23年(1890年)11月29日◆竣工:明治25年(1892年)5月25日◆備砲:二十八糎榴弾砲6門(明治32年12月備砲完了)、十二糎加農砲2門◆砲座設置標高:75m、72m◆廃止:昭和10年(1935年)3月、要塞再整理にて廃止※由良要塞の概略はこちら→→→見取図です。地下弾薬庫から砲座間
神ノ島電燈は低砲台の左後方50メートル、標高41.8mの高地に設けられました。竣工したのは3砲台の陣容が揃った翌年の明治34年(1901年)3月31日です。ドイツ製「シュッケルト」式90㎝射光機を備え、平時は昇降機井(電燈井)の下部に格納し、有事に照明座に引き揚げて照射するスタイルでした。各地で見られる明治期の電燈所と同じ作りです。なお昭和4年度(1929年)には改造され、アメリカ製「スペリー」式90㎝射光機に換装されるとともに、電力を供給する電燈機関舎も石炭火力からディーゼル機関に改めら
※2024年3月31日加筆修正「足立山(あだちやま)高射砲陣地」は、門司から小倉に至る企救(きく)山系の足立山(標高598m)西側、標高442mピークの山頂に構築されました。現在のピークの名称は砲台山ですが、企救山系を縦走する登山ルート上にありますので、訪れる登山者も非常に多い場所となっています。場所の地図はこちらのリンクにて。『北九州の防空①~概略』本日から新しいカテゴリーを投入します(・∀・)大東亜戦争3年目となる昭和19年(1944年)に入ると、米軍機がインドを経由して
こんばんは。昨日は友人宅でバーベキュー、友人宅ってのは自動車整備屋で今、バイクを預けているお店なんですよ、そこの家とは父、兄弟の全員と仲良くしてもらっているので、バイクやら軍用車などのお話で盛り上がり、そこのショップ、三菱のジープを買ったみたいで行く行くは自衛隊仕様にして乗り回すみたいですよ。日本軍九二式10糎加農砲要目口径105mm砲身長4,725m(45口径)砲身重量1,172kg放列砲車重量3,730kg
例によって、幻と消えた新版『帝国陸海軍事典』向けの原稿から、今回は旧陸軍の食事についてです。--------------食事営内での食事は聯隊の炊事場でまとめて調理されたものを内務班に運びこむ。炊事場へ食事を受領しに行くことを一般的に「メシアゲ」と称した。主食は麦まぜ飯で、大東亜戦争陸軍給与令(昭和18年8月)では精米600グラム(4合5勺)、麦186グラム(1合9勺)と定められていた。ただし、献立によっては白米のみを炊く場合もあり、ウドンやスイトンなどを主食とする献立もあった。
しばらく中断しておりました「大東亜戦争ダークツーリズム長崎県編」を今回より再開したい思います。長崎県内の戦争遺跡探検は何度も行っておりまして、今回からご紹介するものは、2015年9月にシルバーウィークという五連休がございまして、その休みを利用して訪れた時のものからご紹介致します。今回ご紹介する所はあの世界遺産「軍艦島」のある長崎市南部に向かう途中の長崎市伊王島町地区というにある伊王島という島でして、ここにかつて陸軍部隊が置かれていましたので、その痕跡を探しました。そもそもこの島
津和瀬洞窟砲台は、福岡県宗像市の沖合に浮かぶ大島の南西部に構築されました。洞窟砲台構築に至る経緯は下記リンクをご覧下さい。◆下関要塞の本土決戦準備→→→なお洞窟砲台が設置されたのは津和瀬地区の南方です。『下関要塞守備隊戦史資料』では「大島砲台」と記載されていますが、元々北部にあった砲台も大島砲台ですので、混同を避けるために「津和瀬」と名付けています。昭和20年(1945年)2月下旬のキ号演習発動により、下関要塞が保有する15㎝加農砲は洞窟陣地を構築して移設することになり
友ヶ島には近年の台風や豪雨災害により通行止めの箇所があります。島北東部の虎島に向かう道も通行止めが続いていましたが、現在は案内センターにて許可を受ければ虎島手前の「閼伽井の碑」まで通行することができるようになっています。地図に記してみました。なお島西部の海岸沿いの道は2022年10月11日現在通行禁止でしたが、復旧工事中でしたので最新の情報は自治体からのお知らせをご確認ください。さて、今回紹介するのは友ヶ島第四砲台の左翼観測所です。通行制限の道沿いに隠れていますので行ってみる
その3では右翼観測所から見ていきます。第四砲台最大の見どころ...それは観測所直下に設けられた回廊です(・∀・)真ん中のレンガ積みされた八角形の中に観測所に上がる螺旋階段があり、その周囲が回廊のようになっています。特別この空間になにかある訳ではないのに、なぜこんな造りにしたのでしょうか。回廊には2つの窓があります。そのうちの1つ。灯り置きかな?奥から高塁道の出入口を見ています。観測所への階段です。螺旋階段です。見上げるとこんな感じ。初めて見るスタイ
その2では砲座を見ていきます。弾薬庫③横の階段を上がって高塁道へ。左折すると第3砲座、右折すると第2砲座ですが、まずは第3砲座から。見ての通り荒れていますね。って言うか砲座は3つともあまり状態がよくありません。*************************************高塁道に戻ります。奥は第2砲座ですが、右壁には2つの階段があり、その一つは指揮所に上がる階段です。指揮所は左翼と右翼に1つずつ配置されています。指揮所への狭い階段です。階段を上がって行き止
友ヶ島には昭和期に建設されたと思われる穹窖砲台が残っています。穹窖(きゅうこう)砲台、つまり敵から秘匿するために洞窟をこしらえて、その中に火砲を据え付けた砲台のことです。現存しているのは1つの砲座だけで、巷間では第五砲台の備砲である斯加式三十口径十二糎速射加農を移設したと言われています。第五砲台のレポートはこちらをご覧下さい。『由良要塞探訪⑳~友ヶ島第五砲台』◆起工:明治33年(1900年)1月2日(現代本邦築城史による)◆竣工:明治38年(1905年)3月31日(現代本邦築城史によ
こんにちは。昨日報道の違う記事です。毎日緊張の連続でスヒョン君が怪我をしないか心配です。どうか怪我や病気をしないで除隊するように祈ってます。紹介します。「地雷いっぱい最前線DMZで軍服務中のPFCキム・スヒョン近況」韓国語記事・・・クリックして見てください。http://www.insight.co.kr/news/149325日本語翻訳記事・・・クリックして見てください。https://translate.google.co.jp/translate?sl=k
本日は、勇忌でしたね。流山での法要でしたが、綾瀬と流山ってセットで思い出される場所。現在その綾瀬・五兵衛新田の記事を書いているので、胸が締め付けられる想いです・・・という事で、その五兵衛新田に戻ります。150年前の本日は、慶応4年3月16日。この日金子家の大久保隊は総員115名となり、分宿させました。※綾瀬での隊名なのですが、特に記したものもなく…「新選組」というのも、ちと違う気がするので、大久保隊でm(__)m十六日百十五人一、弐両寺真
見取図です。「揚弾井C」です。弾を揚げるクレーン支柱は残っていますが、揚弾井(縦穴)は埋められています。支柱を上から。「立坑C」周辺です。「立坑C」をアップで。縦穴とその手前に金具付きの台座?があります。ちなみに穴はTVで塞がれていましたので、撮影後に戻しました。「揚弾井C」と「立坑C」の空間を引きで撮影。やっぱりココが砲座っぽいよなぁ。この空間の真下に「地下弾薬庫後部外壁B」があります。4つ目の揚弾井となる「揚弾井D」です。揚弾井の内部。下
漫画家デビューを経て、ヒーラー・チャネ絵師になり、メタ意識のスピ講座もやっている、催眠療法士のヤミコです本日は『サイキック能力』の種類なんぞをザックリ書いてみたいと思います☆押忍!\(^o^)/ご存じの方も多いと思いますが、さっそくいきやしょ~【能力別クレア】①クレアボヤンス=透視(霊視)「眼」はっきりと物事を見通すことができること。いわゆる「視える」ってやつですな。②クレアオーディエンス=霊的聴覚「耳」耳元もしくは脳内で
大東亜戦争末期、北九州市小倉南区曽根に陸軍の飛行場が建設されました。場所はこちら。大東亜戦争中、北九州・関門地区の防空は第19飛行団(のち第12飛行師団に改編)が担っていましたが、航空基地増強のため、水田79ha余、塩田64haを買収して、昭和18年(1943)4月より曽根飛行場の建設が開始されました。昭和20年(1945)2月から第70独立整備隊、4月には第80飛行場中隊が学生などの勤労奉仕を得て鋭意建設に務めたものの、終戦までに完成しませんでした。(昭和19年9月に建設したとの
宗像の大島には10回以上渡島していますが、砲台の記事は4年前に書いて以来更新していませんので、この度全面的に書き直します。***************************「大島」は福岡県宗像市神湊(こうのみなと)の北西約6.5kmの沖に浮かぶ島で、「筑前大島」、「宗像大島」とも呼ばれています。約500人が住む周囲約15㎞の島ですが、大東亜戦争中には陸軍の砲台や海軍の防備衛所が置かれていました。昭和15年の下関要塞砲台配置図で場所を確認します。大島全景。大島は響灘と
本日は、日本陸軍の電熱線航空頭巾をご紹介したいと思います。被服本廠、昭和17年製●表側・・・山羊革●裏面・・・兎毛右側の耳垂れは顎部分に当たるように長く裁断されており、丸見がつくようにタックが2本入っています。高高度用で飛行帽の中にコードが張り巡らされています。陸軍飛行帽のなかでも特に裁断が複雑でたくさんのパーツがあります。当時の資料によると、値段も当時の定額25円6銭(通常の飛行帽は10円40銭)と高価なものでした。顎部分を上手い具合に包み込むよう
兵舎跡から遊歩道を辿って5⃣の中部砲台跡に進んで行きます。来島中部堡塁の履歴です。◆起工:明治32年(1899年)5月20日◆竣工:明治34年(1901年)3月31日◆備砲:二十八糎榴弾砲6門(明治34年10月備砲完了)◆砲座設置標高:78m◆廃止:芸予要塞廃止に伴い、大正13年(1924年)12月に除籍◆特記:日露戦争時の明治37年8月、二十八糎榴弾砲2門を撤去して中国大陸に送付、旅順攻囲戦にて活躍※芸予要塞の概略はこちら→→→中部堡塁は島の最高峰(標高100m)
いつもフォロー・いいねして頂いてありがとうございます❤️テテ🐻が、2軍団訓練広報映像に出演したそうですhttps://twitter.com/v_kx2mama/status/1780460609357983798?t=gcSgTyiRfprFQNkoEQhbvA&s=19뉴스1【単独】BTSV、2軍団訓練広報映像を撮った…撃つたびに命中「凛々」陸軍第2軍団双龍部隊で現役軍服務中のBTSVが広報映像を通じて凛々しい軍人の姿を披露した。17日、ニュース1の取材結果、Vは最近、江原道
[陸軍燃料廠]横島貯蔵所広島県福山市内海町大浜2220(シーパーク大浜)昭和14年(1939年)12月20日、アメリカ政府は日本向けの航空機用ガソリン製造装置の輸出を禁止した。戦争を遂行するためには、戦闘機用燃料(高オクタン価揮発油)の製造は陸海軍にとって解決必須の課題になった。昭和15年7月に発足した陸軍燃料廠。航空揮発油製造のための第一製造所(製油所)を山口県麻里布町(現・岩国市和気町)、貯蔵所を広島県横島村(福山市内海町)に定め、用地買収を行う。貯蔵所の建設は昭和16
昭和14年(1939年)9月、日ソがノモンハン事件、ドイツ軍のポーランド侵攻が勃発し、国際緊張は高まり日本軍の総力戦を経済面から研究するために、陸軍省軍務局軍事課長の岩畔豪雄大佐が中心となって陸軍省経理局内に研究班が設けられた。これが「陸軍省戦争経済研究班」であり、表向きには「陸軍省主計課別班」と呼称し、作成した資料のほとんどは陸軍省主計課別班として陸軍中枢部に提出された。陸軍中野学校の設立を行い、登戸研究所などにも強く関与した岩畔豪雄大佐の元で、秋丸次朗中佐が率いた事から秋丸機
『斟酌』って、阪急からお願いされることか?『斟酌』するしないは、客、取引先、世間がしてやることで、お願いされる筋合いのものではない。日本語の使い方としておかしい。https://news.yahoo.co.jp/articles/f2e44886aa884296ecb017214779a889de2e52a1/commentsリンクはスポーツ紙ではあるが、宙組公演再開について、手放しで歓迎ではなく、淡々と掲載している。まぁ、スポーツ紙ではあるが、歓迎ムードでないことは、まだ良識がらある
ここ最近下関要塞の記事書き直しが多いですが、今回は2年前にレポートした角島砲台の記事をあらためて書いていきます。まずは昭和期の下関要塞配置図で場所を確認します。角島砲台の履歴です。◆起工:昭和14年(1939年)7月1日◆竣工:昭和15年(1940年)9月26日◆備砲:ラ式十五糎加農4門(昭和16年6月備砲完了)◆設置標高:60m/63.5m◆任務:角島西北方海面における敵艦船の航行妨害、敵軽艦船(潜水艦)の攻撃に対し我が輸送船の海上交通を掩護する◆特記:砲台西南方の標
演習砲台はその名のごとく火砲の取り扱いや射撃の教練を行う砲台です。各地の要塞はその規模に応じて複数の演習砲台を設けていましたが、明治期の由良要塞においては以下の3ヶ所となります。深山演習砲台和歌山市加太明治32年(1899)建設由良演習砲台淡路島東南側の洲本市由良明治28年(1895)建設福良演習砲台淡路島西南側の南あわじ市福良明治32年(1899)建設遺構の有無ですが、福良はホテル建設で消滅、由良は砲座などが現存、深山は昭和期に作られたと思われる観測所が現存していま
合成かと思いましたがリアルなテテくんだそうです🐻これが黒服なんかな?陸軍2軍団双竜部隊で現役軍服務中のグループ防弾少年団のVが広報映像を通じて凛とした軍人姿を誇った。17日ニュース1取材の結果、Vは最近、江原道春川陸軍2軍団の自己広報映像に電撃出演した。関係者らによると、この映像は軍団自体で撮影が進行され、部隊員が運営するYouTubeチャンネルを通じてアップロードされた。今探し中……ヴィはこの映像で市街地戦闘射撃訓練中の姿。ヴィは「軍事警察」パッチがついた服装をしたまま凛とした姿と
佐田岬には砲台以外にもいくつかの施設の跡が残っています。遺構の場所を示した佐田岬の地図です。まずは、第二砲台のそばにある旧正野谷桟橋(軍用桟橋)です。この桟橋は第二砲台の建設資材陸揚げ用に作られました。上部の4つの方形の穴は、荒い波の圧迫を弱めるために設けられています。桟橋全景次は「弾磨き鍛造所」ですが、、、建物が取り壊されていました(;゚Д゚)ネットで見る写真では、確かに廃屋のようでしたが、、、。やはり遺構は見れる時に見ておかないといけませんね。遊歩
◆砲台名:佐田岬第二砲台◆起工:大正15年(1926年)11月1日◆竣工:昭和2年(1926年)10月31日◆備砲:七年式三十糎短榴弾砲4門→昭和9年(1934年)2月転用のため4門とも撤去◆廃止:昭和17年(1942年)2月10日◆設置標高:46m◆参考リンク:「豊予要塞の概略」はこちら→→→佐田岬第二砲台は、高島各砲台と協力して豊予海峡に侵入せんとする敵艦船を撃退することを任務として、昭和2年に築城されました。佐田岬の防御営造物の配置図です。第二砲台の見取