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◆堡塁名:赤松山堡塁◆起工:明治26年(1893年)1月24日◆竣工:明治27年(1894年)3月23日◆備砲:9㎝加農砲6門、機関砲4門◆備砲完了:明治33年4月◆設置標高:329.6m◆廃止:大正3年(1914年)/要塞整理で廃止決定、備砲撤去→昭和7年(1932年)3月/全部除籍◆参考リンク:「由良要塞の概略」はこちら→→→由良地区の防御営造物配置図です。由良地区には沿岸部に砲台と後方の山間に堡塁が置かれましたが、敵に上陸された際に背面防御を行うのが、北部の赤松
今日は舞鶴湾口西側の半島付け根に築城された建部山(たけべさん)堡塁をレポートします。なお“建部山”は「たけべさん」或いは「たてべやま」と呼ばれているようですが、本ブログの記事では前者の呼び名で書いていきます。地図で場所を確認します。堡塁の履歴です。◆起工:明治32年(1899年)9月1日◆竣工:明治34年(1901年)8月31日◆備砲:十二糎加農砲4門【明治34年12月備砲完了】◆設置標高:313.10m◆廃止:大正8年(1912年)要塞整理にて兵備表より除去→大正15年
竹崎砲台の記事は2021年1月に書きましたが、先日4年ぶりに訪問してきましたので記事の書き直しを行います。砲台は藪と破壊で見どころが少ないのですが、今回は砲台前方に置かれた電燈所の遺構の有無を調べるため再訪しました。*********************竹崎砲台は昭和期に永久築城された対馬要塞10砲台の一つで、対馬中部東岸の沖ノ島に昭和13年(1938)9月に構築されました。砲台地図で場所を確認します。簡単な履歴は以下の通りです。◆起工:昭和12年(1937)5月
下松市の笠戸島には船艇壕と思しき穴がたくさん残っています。戦時中、笠戸島にいたと思われる部隊は、海軍の笠戸嵐部隊と陸軍の暁部隊です。海軍の嵐部隊は回天、震洋、海龍などの水上特攻兵器を用いて攻撃する部隊の通称で突撃隊とも呼ばれています。アジ歴を検索すると「笠戸嵐部隊」の保管品目録が残っており、兵器として海龍7隻を保有していたようですが、部隊の所属地は笠戸島ではなく海を挟んだ西側の徳山市大島(大島半島のことか?)と書かれています。大和ミュージアムに展示されている海龍です。
今日は舞鶴軍港東側に設けられた吉坂(きっさか)堡塁をレポートします。右端に離れて位置しているのが吉坂堡塁となります。堡塁の履歴です。◆起工:明治33年(1900年)7月20日◆竣工:明治35年(1902年)11月20日◆備砲(本堡塁):克式十二糎加農砲2門、十二糎加農砲4門、九糎臼砲6門◆備砲(付属堡塁):十二糎加農砲2門◆備砲完了時期:明治35年(1902年)7月◆設置標高:(本堡塁)240m、(付属堡塁)184m◆廃止:大正8年(1919年)要塞整理にて兵備
珠数山演習砲台は4年前にレポートしましたが、今年3月にXフォロワーのはるさん(@Harukovsky)と一緒にああだこうだと考察しながら再訪しましたので、探訪記事を書き直します。下関要塞の演習砲台概略は以下の記事にて。『下関要塞の演習砲台』※2024年5月14日書き直し明治4年(1871)に健軍された大日本帝国陸軍は、敵国艦隊の襲来に備えて国土防衛上の沿岸要衝に海岸砲台の建設を進めましたが、そ…ameblo.jp*******************************珠数
信じられない陰謀論・・・色々、意見はあるでしょうでも、少し調べると納得できることも沢山あります例えば、こちらも👇原爆爆破の指示を与えたのは裕◯天◯でした。そして、東京裁判で問われることになる戦争犯罪の責任を陸軍に押しつけました。…pic.twitter.com/cKLXtC5zOE—TOYO(@toyo1126Q17)May20,2024hirokoでしたメインブログはこちらからEternalEart
先月の大久野島に続き今月は2年ぶりに小島(おしま)を訪問しましたので、あらためて記事を書き直していきます。(※芸予要塞の概略と小島の紹介はこちら→→→)小島の施設案内図です。案内図にある番号順にレポートしていきます。まずは来島南部電燈から。夜間に海上を照らすドイツのジーメンス・シュッケルト社製90㎝射光機(探照灯)を有する電燈所は島の北部と南部の2か所に設けられました。南部電燈は明治34年(1901年)7月31日に竣工、その2か月後の9月30日に北部電燈が完成しました。
前回に引き続き今回も2年前の記事を書き直していきます。矢筈山堡塁は北九州門司区大里に聳える矢筈山(標高266m)の山頂部に築城されました。現在は北九州市のキャンプ場になっていますが、当時の遺構を取り入れた造りとなっていますので、破壊の多い下関要塞砲台群の中では非常に良好な状態であり見応えがあります。堡塁の簡単な履歴です。◆起工:明治28年(1895年)8月21日◆竣工:明治31年(1898年)3月31日◆備砲:9㎝加農砲4門、15cm臼砲4門、機関砲2門◆設置標高:25
蓋井島(ふたおいじま)は下関市吉母(よしも)の沖合約6kmの響灘に浮かぶ島です。周囲約10kmで、35世帯81人が暮らしています。(令和5年4月1日現在)島中部の金比羅山(標高148m)から南東部の乞月山(こいづきやま)を眺めています。島に渡るには市営渡船を利用します。本土側の吉見港から1日2~3便が往復しており、乗船時間は約40分です。季節や曜日によってダイヤは異なりますが、4~9月の土日祝日なら最大6時間半ほど島に滞在できます。なお吉見港には船着き場の前に有料駐車場(1日400
つい最近、日本のいちばん長い日(2015)を観ました。観よう観ようと思ってつい先延ばしにしていた映画。ポツダム宣言受諾までを描いているんですが、戦争終結したい政府と、降伏せずに本土決戦で一億玉砕したい軍部とであんなに揉めたなんて知りませんでした。軍部でクーデターあったって知ってた…?教科書で習いませんでしたよ…。まあ、だいたい二・二六事件と同じですね海軍のクーデター(厚木事件)は知ってたけど、陸軍のはしらなかったな私海軍専門だから…(言い訳)戦争を後から見ている私達にとっては、ポツダ
https://twitter.com/tata123mimi/status/1793004430112993414?t=1D-6UflQwkn8IF0NfQyJww&s=19x.comtwitter.comhttps://news.yahoo.co.jp/articles/ea7bf49941b32a8ffff36ee9523221134b3cd0fd韓国陸軍部隊で手りゅう弾訓練中に事故1人死亡・1人重傷(聯合ニュース)-Yahoo!ニュース【世宗聯合ニュース】韓国中部の世宗市
こんにちは☺️私は、BTSの大ファン❤️今日は、その中でも大好きなグクと、ジミンについて投稿しますね🤗2人とも、陸軍に入隊したみたいです‼️入隊中なのに、ジミンは、寄付をしたり善行をつんでるみたいです✨さすがは、ジミンですね🌸私は、ジミンのダンスが、大好き❤️早く2025年の、完全体のBTSのジミンのダンス、見たいです💓↑上のジミンのダンスを、ぜひ見てねカッコいいです💓そして、グクは、調理兵になったそうです😋こんなイケメンさんが、作る料理はおいしいに、違いない🤗
今日は福岡県遠賀郡芦屋町に設置された芦屋陸軍飛行場を取り上げます。場所を確認します。芦屋町三里松原(さんりまつばら)に飛行場の建設が始まったのは昭和14年(1939)11月でした。2年半後の昭和17年(1942)春には完成し、建設主体である福岡県から陸軍に献納されました。昭和17年8月には、下関市の小月飛行場で編成された飛行第248戦隊が芦屋に移駐して北九州の要地防衛に就くことになりました。当初同戦隊の保有機体は九七式戦闘機でしたが、その後一式戦闘機「隼」に機種転換されました。
※2024年4月2日加筆修正8㎝高射砲群(石峯東高射砲陣地)のあった石峯山山頂から南西に下ると烽火台山と名付けられたピークがありますが、ここに7㎝高射砲群(石峯西高射砲陣地)が築かれていました。遊就館に展示されている八八式七糎野戦高射砲。周辺図を掲載します。1948年の空撮です。前回の記事でも書いた通り、昭和19年(1944年)9月の西部高射砲集団の編成表では、石峯山には高射砲第131連隊第1大隊第4中隊(7㎝高射砲6門)と第6中隊(8㎝高射砲6門)が駐屯してい
今回は3⃣の南部砲台跡を見に行きます。来島南部砲台の履歴です。◆起工:明治32年(1899年)3月10日◆竣工:明治33年(1900年)6月28日◆備砲:加式十二糎速射加農2門(明治33年7月備砲完了)◆砲座設置標高:23m◆廃止:芸予要塞廃止に伴い、大正13年(1924年)12月に除籍※芸予要塞の概略はこちら→→→南部砲台は小島の3砲台の中で一番最初に竣工しました。小島北西の低地に設けられ、本土~小島間の水路を防御することが任務でした。見取図を描きましたので掲載
元陸軍大佐「NSAは銀河連邦と連絡を取り合っている」ー自動翻訳ー「人間以外の知性は人類と交流してきた。この相互作用は新しいものではなく、進行中です。米国政府には、それを認識している選出されていない人々がいます。」引退した米陸軍大佐カールE.ネル複数の情報源は現在、プレアデス人が何年も私たちに言ってきたことを確認しています。銀河連邦は、NSAを通じて選ばれた軍人と連絡を取り合っているグループです。彼らは聖書の「光の天使」であり、完全な開示を可能にする地球のアセンションを準備していま
後編では2つの観測所を見て行きます。第4砲座の左側に二十四糎加農砲台の左翼観測所が置かれています。2つの部屋(右を通信室、左を計算室と仮置)と円形の測遠機室、上部に砲台長位置が設けられていますが、東京湾要塞小原台演習砲台や由良要塞深山第一演習砲台などに類似の観測所が残っていますので、この形が大正~昭和期にかけての二十四糎加農演習砲台観測所の基本だったのかもしれません。右側の通信室です。内部。。。壁の手形が怖いんだが(゚Д゚;)天井には砲台長位置と繋がる孔がありま
今回からしばらく、八幡製鉄所周辺に配備された高射砲陣地を見ていきます。響灘と洞海湾に挟まれた若松半島は八幡製鉄所の北部にあることから、多くの高射砲陣地と照空陣地が設置されていました。現在の行政区画では北九州市若松区ですが、この場所は若松半島を縦断する玄海遊歩道沿いに位置していますので、非常に登山者が多い場所となっています。そんな登山道沿いではありますが、遺構はそこそこ残っていますので戦績好きは楽しみながら歩くことができます。場所はこちらのリンクをご覧ください。『北九州の防空①~
後編では赤丸のところから北に進んでいきます。激ヤブをくぐり抜けると、左手に石壁が見えてきました。石壁は砲側庫③の壁でした。入口を覗き込むと前室そして奥に弾室があります。弾室入口は右手にずらして設けられていますが、軽砲加農の砲側庫でよく見かける構造ですね。この窓も前半で見た弾薬庫の窓とそっくりなので灯り置きなのでしょうね。内部は丸っこいです。奥から入口を見ています。砲側庫③の右壁の即用弾丸置場の凹みを見ながら回り込むと、、、2番砲座があります。スロープ
遺構探索は陸海軍の砲台・見張所に絞って行っています。◎陸軍…要塞の砲台・堡塁・関連施設、北九州の防空陣地◎海軍…警備隊/防備隊所属の防空砲台・見張所・防備衛所・関連施設◆目次◆~クリックで各ページが別ウインドウで表示されます下関要塞(明治/大正期)[概略]砲台:[田ノ首*][筋山*][老ノ山*][田向山*][笹尾山*][古城山*][門司×]火ノ山砲台*:[概略][第一][第二][第三][第四][補助施設][低観測所]堡塁:[戦場ヶ野×][一里山×][金比羅山×][龍司山*]
明治維新後、敵国艦隊の襲来に備えて陸軍による海岸防御事業が進められました。欧州から陸軍士官を招へいして指導を仰ぎつつ、重要とされる全国各地の港湾、海峡に堡塁/砲台を設置する計画が立てられましたが、長崎港ならびに港湾内の造船所など重要施設の防御を担うべく立案されたのが「長崎要塞」でした。長崎港は安土桃山時代から内外貿易の要港です。江戸末期には長崎製鉄所が建設されましたが、これがのちに三菱重工業長崎造船所として発展し、大東亜戦争までに軍艦を始めとして数多くの艦船が建造されました。軍港を防御す
その3では第5砲座について考察します。見取図から抜粋します。笹尾山砲台の砲列は戦後の開墾・道路建設により山が削られたため当時の地形の把握が困難ですが、第四号・第五号砲側庫ならび第5砲座の周辺はかろうじて地形が残っています。昭和50年(1975)の空中写真に色々書き込んでみました。その3で説明しましたが、第四号と第五号砲側庫の間に2本の道路が建設されて左翼墻が削られたことで第五号砲側庫の外壁が露出しました。砲座については、二十八糎榴弾砲の砲座は横墻・胸墻を配して深く窪んで
タイにLazadaという通販サイトがあります。中国のアリババ系列の会社で、タイでは通販最大手といっていいでしょう。この会社が、タイ人インフルエンサーを起用して広告を作成。さまざまなサイトにこの広告を流したところ…。タイ王室を揶揄しているのではないか。この声があちらこちらからあがってきて、王室護持派の一部が「Lazada不買運動」の呼びかけ。さすがのLazadaも「これはマズい」と思ったのか、広告は即削除。今は謝罪を繰り返しています。この広告。もはやタイでは見ら
小島の防御営造物最後の紹介は北部電燈です。現地の案内図では、島の北側の「探照灯跡」とその南の「発電所跡」が北部電燈の施設となります。ドイツのジーメンス・シュッケルト社製90㎝射光機(探照灯)を装備する電燈所は、夜間の海上照射を目的として島の北部と南部の2か所に設けられ、南部電燈は明治34年(1901年)7月31日、その2か月後の9月30日に北部電燈が竣工しました。南部電燈は紹介済みですのでこちらの記事をどうぞ。『芸予要塞探訪㉒~来島南部電燈/電燈機関舎-再訪-』先月の大久野島に
北九州市門司区に聳える風師山(標高362m、かざしやま)は、風師岩頭(かざしがしら、風頭とも呼ばれる)、風師山、風師南峰の3つの峰からなり、中でも風師岩頭は関門海峡を見渡せる絶景スポットとなっていますが、昭和期の陸軍はこの山に高射砲陣地を置いていました。昭和19年半ばの北九州の防空地図で場所を確認します。風師山高射砲陣地は矢印の所にありました。(下関の火ノ山から撮影)大東亜戦争開戦時、風師山には七糎高射砲を有する防空第23連隊第1大隊第1中隊の高射砲中隊と照空灯や空中聴音機を有
今日は4⃣の弾薬庫跡を見て藪に埋もれる兵舎跡を進んで行きます。小島には弾火薬を保管する火薬本庫(火具庫併設)と弾薬本庫が1棟ずつ設けられていたようです。現地案内図の「4⃣弾薬庫跡」にはレンガ積みの建物が2棟残っていますが、これが火薬庫なのか弾薬庫なのか、史料や書籍によっても記述がまちまちです。ただレンガ積み建物の構造やサイズ、土塁を築いて大小2つの建物が並んでいることを踏まえると、「4⃣弾薬庫跡」は火薬本庫だったと推測します。それでは火薬本庫を見に行きます。遊歩道を進むと
こんばんは。本日は、新作の日本陸軍の昭和11年製と13年製の飛行帽をご紹介したいと思います。この2タイプの飛行帽は鷲の目眼鏡が開発される前の飛行帽です。(昭和10年に試作を開始してから4年の歳月を費やして昭和14年1月に鷲の目航空眼鏡が完成。)その後、このタイプの飛行帽にも鷲の目眼鏡が装着されるようになりました。~昭和11年製航空頭巾~ちなみに一種は毛があるタイプ(右)で二種は毛が無いタイプ(左)です。この昭和11年製の特徴は、円形(直径約5cm)の耳カップです
兵舎跡から遊歩道を辿って5⃣の中部砲台跡に進んで行きます。来島中部堡塁の履歴です。◆起工:明治32年(1899年)5月20日◆竣工:明治34年(1901年)3月31日◆備砲:二十八糎榴弾砲6門(明治34年10月備砲完了)◆砲座設置標高:78m◆廃止:芸予要塞廃止に伴い、大正13年(1924年)12月に除籍◆特記:日露戦争時の明治37年8月、二十八糎榴弾砲2門を撤去して中国大陸に送付、旅順攻囲戦にて活躍※芸予要塞の概略はこちら→→→中部堡塁は島の最高峰(標高100m)
砲台見取図です。最初に砲座AおよびBに付属する「砲側庫A」を見て行きます。左側から入ります。各砲座に1つの砲側庫の付いており、いずれも2つの部屋で構成されていました。他の砲台でも見られる構成で、用途は弾丸庫置場と砲具庫でしょう。2つの部屋があります。内部を覗いてみました。右側から出てきました。ココを出て先に進むと「砲座B」があります。次は「砲側庫B」ですが、こちらは消滅した「砲座C」に附属するものと思われます。「砲側庫A」とは作りが違います。内