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小倉戦争前夜「緊迫した赤間関の様子」幕府総攻撃の報をつかんだ高杉晋作は慶応2年6月15日山縣狂介・片野十郎らと17日開戦の会議を行った。その緊迫した様子が奇兵隊日記に記されていた。赤間関在住の人々(非戦闘員)は避難を開始した。当時赤間関在住のほとんどが戦争開始の報を知り、住吉・後田方面の内陸部へと避難を開始した。また関門海峡に停泊の北前船等も出帆の準備を始めた。・・慶応2年(1866)6月16日奇兵隊日記馬関住居之者孰(いずれ)ヨリ聞付候今夜ヨリ明朝ニ掛戦争有之由ヲ知リ二三千人計リモ
こんばんは🤗久しく書いていませんでしたが続きの10話です(≧∇≦)ノ魂の約束10話ブラッシュアップ版#長州藩#清水親知#難波覃庵が#幕末活躍した#史実今回は、#大和行幸という#孝明天皇を取り巻き狂った#クーデターを覃庵のメモを含めた構成で作成しました。現在、メモを含めて#清水家#難波家資料を#山口大学#池田勇太先生に調査いただいております。真実は、ゆっくりと紐解かれるはずです...youtu.be毛利登人さんは萩の東光寺さんの毛利家墓所前に清水親知
選挙区は長州藩⇒山口県タブセ右から4人目9人中7人がチマチョゴリ。DNAは1カ国150年の時を経て、明治天皇暗殺の物証が出された。出したのは、現イギリス女王・エリザベス二世。
『①外圧で開国を迫られ、安政の大獄や将軍継嗣問題、攘夷運動等が高まる中で、幕府が威信低下し、そして、②最後の将軍”徳川慶喜”が大坂から江戸へ逃避していくその間に起こった出来事に纏わる「お城」を採り上げる』シリーズです。今回のブログでは、「芸州口の戦い」で中心的な役割を担ったのが長州方の「吉川家」で、そのお城「岩国城(前編)」(山口県岩国市)をお届けします。南蛮形式の「復興天守」幕末には「長州藩」との長年の確執も「毛利敬親」によって排除されました。そして、この戦いでは「吉川家」
山口県は長州藩で明治維新を主導した藩明治維新は嘘の美談で真実を塗り替えているが、DSにそそのかされた〇〇人が、日本古来の孝明天皇を殺害し、偽天皇を天皇に据えたというのが真実だ。山口県に田布施という町がある。人口10,000人程度の小さな町だが、そこから、総理大臣などが複数名出ている。確か安倍も山口県だ。この国の沼の掃除が始まったのか⁉️軍事作戦中なので真実は分からないが、軍用機が山口に集結しているのには、何かしらの理由があるのだろうメーカー直販で圧倒的にお得パソコ
前回からの続きですが、諸外国を相手に怯むことなく、堂々渡り合った…高杉晋作けれども、長州藩は大敗を喫し、列強の強さと攘夷の無謀さを知り藩内では、幕府に恭順する俗論派が実権を握りました。この状況下、討幕派の晋作は、恭順派に命を狙われながらも、たったひとりで立ち上がったのです。そんな無茶苦茶な挙兵にも関わらず、ちらほらと集まったその数、総勢80人ほど…!長府の功山寺に集結。絶望的な状況であることはなんら変わらないのですが、戦いを前に、晋作はこう言い放ったといいます。これよりは長州男児の
[隠蔽された土佐浪士の切腹]今日、拙著の新刊「長州・龍馬脱藩道」が高知新聞に続き、山口新聞紙面でも紹介されました。その拙著は山口市嘉川の明正寺や市内の郷土史家の方に進呈したのですが、寺の地元地域では、拙著がきっかけとなり、寺で切腹した土佐浪士の墓を整備・顕彰する動きが出てきているとの報告も受けました。その土佐脱藩浪士は元治元年の禁門の変時、忠勇隊隊士として長州軍として戦い、その後、明正寺に嘉川浪士隊として駐屯していた隊士・真田四郎(窪田真吉)です。この四郎、実は元治元年12月
萩城訪問レポートその2。今回は萩城下町をご紹介します。萩城下町は「明治日本の産業革命遺産」の構成要素の一つとして世界遺産にも登録されています。菊屋横丁旧萩城の外堀から外側に広がる城下町は、碁盤の目に区画され、家臣の屋敷が軒を連ねていました。現在でも町筋はそのままに残り、往時の面影をとどめています。特に白いなまこ壁の美しいこの菊屋横町は「日本の道100選」の一つに選ばれています。菊屋家住宅菊屋家は、毛利藩の御用商人として藩を支えてきた豪商です。屋敷は江戸初期の建築で、現存する大型町屋と
移転しました。お手数をおかけいたします。→四国艦隊下関砲撃事件とは。覚え方はこの絵でどう?-とりとめのない1864年のことです。外国船を攻撃した長州藩に対し、イギリス、フランス、オランダ、アメリカが連合を組み、長州藩を攻撃しました。日本史で登場する事件ですが、どの国が攻めてきたんだっけ?とならないように、絵をかきました。ジェントルマン、スーツ文化→イギリス仏=フランスなので大仏→フランス米=アメリカなので白米→アメリカ世界一のチューリップ生産国→オ…toritomen
京都長州藩邸跡京都市中京区河原町、現在ホテルオークラの建つ場所はかつて長州藩邸があった所。京都に滞在する藩士、江戸へ向かう途中の藩士らがここに滞在していた。高杉晋作もたびたびここに滞在している。1863(文久3)年3月、晋作はこの藩邸で頭を丸めて自らを「東行」と名乗り、「西へ行く人を慕いて東行く心の底ぞ神や知るらむ」と詩を詠んでいる。藩邸は1864(元治元)年7月の禁門の変の際火災で焼失し、その後は幕府に接収されてしまった。跡地には現在、桂小五郎(木戸孝允)の銅像が建ってい