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宮原誠一の神社見聞牒(126)令和元年(2019年)10月28日No.126金印の委奴國王と面土國王帥升と球磨郡あさぎり町前記事「No.124金印「漢委奴國王」は志賀島から出土したのですか?」にて、金印の委奴國王と面土國王帥升がおられた地域を熊本県球磨郡あさぎり町と想定しました。『後漢書』倭伝に「建武中元二年倭奴国奉貢朝賀使人自称大夫倭国之極南界也光武賜以印綬」(建武中元二年(57年)、倭奴国が奉貢朝賀す。使人は自ら大夫を称す。倭国の極南界なり。光武賜うに印綬を以てす。)と
日本を知る:定年夫婦の日本一周日記[シーズン3]2024年5月2日(木)晴今日は福岡観光まず福岡城、そして大濠公園を散策次に福岡市立博物館ここでは教科書にも載っていた国宝の金印を見ることが出来た昼食はかろのうろんキャナルシティをぶらぶらしてから博多駅へ出来たての千鳥屋饅頭や三日月のクロワッサンを食べた15時過ぎにホテルにチェックインしてからすぐに博多祇園鉄なべへ向かうも、はや待ち行列30分くらい待ったがギリギリ1巡目で入店でき、餃子4人前と手羽先煮、ポテサラを食べた市役
藤城清治さんの展覧会を観た後は福岡市博物館の常設展を観に行きました。ここではかの有名な、歴史の教科書で学んだ漢委奴国王と刻まれた金印を見ることができます✨また、福岡の歴史を展示品を通して学ぶことができます。順番に見ていって、ちょうど私の大好きな大正から昭和初期あたりのレトロ喫茶の展示のところで博物館の方が説明を、熱心にされている4〜5名のグループがいらっしゃるなぁ〜と思ったらなんと、その中心にいらっしゃるのは藤城清治先生ではないですか!レトロな可愛い車の展示の前で、
宮原誠一の神社見聞牒(125)令和元年(2019年)10月22日No.125細石神社と八雲神社の金印「漢委奴國王」の保存説前回の記事にて、金印が糸島の細石(さざれいし)神社に収蔵されていた、という伝承を紹介しました。《古田武彦氏の『失われた九州王朝』(ミネルヴァ書房)「志賀島の金印」は,本当に志賀島で発見されたのか?》その金印が侍によって持ち去られ、博多の米屋才蔵がこれを買い取り、交流のあった津田源次郎に見せた。二人の相談を受けた亀井南冥(かめいなんめい)は、津田源次郎の私領地の志
福岡市美術館は、福岡タワーの近くにあるので歩いて行きました。エントランス正面とても立派な建物でびっくり手入れの行き届いた公園の中にあります。中に入ると、すぐに博多祇園山笠が目に飛び込んできます。福岡といったら博多どんたくですよね。前回の福岡旅行の時に櫛田神社で大きな山傘を拝見したことを思い出しました。そして、今日のメインは…おおっ!これがあの!教科書で習った国宝の金印「漢委奴国王」(かんのわのなのこくおう)中国の後漢の光武帝が、今の博多湾付近に存
本日、予定通り、天神郵便局前11時25分発、都市高速経由25Aの志賀島小学校前行きのバスに乗った。海の中道海浜公園の駐車場待ちの車による渋滞で1時間半もかかり、志賀島小学校前に降り立った。乗客は、ハイジャン男一人になっていた。これからはバスもあるが、徒歩で先ず金印公園を目指した。13時に金印公園に到着した。昔、訪れた時よりも整備されている。福岡市と姉妹都市となった広州市長の碑文郭沫若の碑文。郭沫若は、九州大学医学部に留学していた。そして、金印の拡大したモニュメントである。この
例年なら毎日アップしてましたが、だいたい疲れてダレてしまうので最後がグダグダになってしまう旅レポ(笑)。てことで4/30〜5/2の旅レポを一気に。まず4/30(火)、暦通りなら平日ですが我が社はお休みです。てことで、7:30出発の佐賀行きに搭乗。今やチェックインもスマホでやる時代。荷物預けが無かったので、事前にチェックイン済ませてそのまま保安検査場を通過し、搭乗口へ。501番って、バスでのアクセスなんですよね。佐賀便は6〜7割くらい乗っていたかな?ちなみに飛行機乗るのはたぶん昨年
<金印を墳墓に納めたことが古文書に>全国には卑弥呼の墓とされるものがいくつもあるが、比定するにあたり、重要な三つの条件がある。一つ目に墳墓の径が百歩余り、ということ、二つ目に墳墓周辺から中国(魏)製の三角縁神獣鏡が出土していること、三つ目は当該墳墓周辺や卑弥呼の居住地域に金印がかつてあったこと。全国に卑弥呼の墓と呼ばれるものは多いが、これらの条件を全て満たす地はなかなかない。一つ目の条件はあまりにも有名だから補足する必要もないと思うが、魏志倭人伝には「卑弥呼以て死す、大いに冢(塚)を作る
志賀島といえば金印発見の地。現物は福岡市立博物館に展示されている国宝やね。ビジターセンターでレプリカが見れますよ。金印公園にも・・・アクリルに閉じ込められて浮いてるよ~~もっと大きいものだと思ってたけど、意外と小さかったな。車中泊は「道の駅むなかた」にお世話になりました。翌日、宗像大社へ。「高宮斎場」は古代祭祀場。ホンモノのパワスポであります。次回は宮崎県の旅を予定してるよ!
こんにちは、スタルペスです。今回訪問した「新原・奴山古墳群」の被葬者の宗像氏(族)は、"海の民"です。※「新原・奴山古墳群」玄界灘や響灘を庭のように行き来し、さらには沖ノ島を経由し対馬、朝鮮半島までの航海を自在に行なってきた海人族です。宗像氏と同じように海人族として活躍していたのが安曇氏(あづみし)です。安曇氏は、現在の福岡市東部から新宮町あたりを拠点とした海人族だったと考えられています。志賀島で発見された金印「漢委奴国王印(かんのわのなのこくおういん)」の持ち主は「
古事記や日本書紀を読んだ時に誰もが疑問に思うことがいくつかあれる。例えば大国主の国譲りの後に天孫瓊瓊杵尊は筑紫の日向のクシフルダケに降臨するのだが、なぜ出雲ではなく南九州なのか、またはニニギやその子孫三代にわたって南九州に居住したのちに神武天皇の時代に奈良県橿原の地に入るのだが、その後もたびたびヤマト王権は九州征討を行っている。大陸への玄関口である九州を平定したのちに神武東征を行わなかったのはなぜか?など、多数ある。この本の中で著者は古事記などの神代の話は日本全国にまたがる話ではなく、淡