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義両親は、いつも唐突な人だった。義父が元気だった頃は、連絡も無く家から一番近いサービスエリアから電話して来て、アポ無しでやって来た。私や娘たちのスケジュールなんてお構い無しで、子育て中の散らかった部屋も隠しようが無くやって来るので、この頃から朝イチに掃除をする習慣が付いた。今回は、義母が使っているプロバイダーが3月末でサービスを終了するので、末義弟が選んだプランの乗せ換えにすぐに来て欲しいと言って来たのだ。義母はパソコンを使うが、通信速度やWi-Fiなんて言われても理解が出来ないアナログ
先日、ネットで職歴15年以上の介護福祉士さんが認知症特有の顔つきや、表情があるとかお書きになられてた記事をお見掛けしましたが、そちらの介護職さんいわく、認知症の方はいつも無表情だったり、ニコニコしてたり、それぞれ特徴あるとお書きになられてましたがうちの母、脳血管性認知症で特養さんにてお世話になっておりますが今は淋しいことに母もうかなり弱っちゃいまして、母と意思疎通や会話が難しいのですが母、施設に入居した時は要介護度要介護4でしたが杖無くても、歩行器使わなくても歩ける程身体も元気でし
今の私、両親と義母と鬱の主人の世話に猛奔走中。「あんたは重病人なんだから。」が枕詞で、「今のうちに、これだけは頼むね。」に続くのだ。私が誰かに傾くと、他2人に嫉妬心が湧き上がる。そうすると何らかの用事を作り、頼み込んで来るわけで。義母の私への依存が特に強くて、「藤井棋士が勝った!」「地震は大丈夫!?」なんて理由を付けて、私に電話して来る。そうすると決まって「門のブザーが鳴らないの。」とか、「タブレットが打てなくなった。」と用事を切り出して来る。それを家に居た主人が聞いていて、「お袋を
今日はいつものようには行かず整理券1番ではなく整理券10番の午後の診察受付でしたホームドクターに母の現状を説明した上で鉄剤の服用は一旦止めてみることとなりました鉄剤以外のお薬を30日分処方していただき次回の予約の日程は決めずに骨折の治療の流れを観てから、ということに。13時半頃に行ってお薬を受け取ったのが16時半3時間とは、早い方やな。我が家のいつもの夕食の時間は17時〜17時半に食べ始めるので、今日はすき家さんの牛皿をお迎えして帰って来たんやけど
前アカウントの『まりも』の頃から、節々におかしな痛みが出ていて。スキーブーツを履いているみたいに足が固まって、足首が動かなくなってしまった。S病院で断られ、K病院でも断られ、やっとT病院で向き合ってくれる医師に出会えたのだけれど。リウマチ因子を持っていても、その時の血液検査に問題が無ければ、正常と判断されてしまう。でも、痛みや浮腫みの正体が分からないままなのは嫌で、血液検査以外からのアプローチをしてくれる医師を探していたのだ。浮腫みには肝臓や腎臓からの影響もあるが、痛みが出るのは別の要
やりたいようにやられているが、不思議と私は義母が嫌いでは無い。根っからあっけらかんとしていて悪意がまるで感じられない、嫌われない人なのだろう。逆に私も発散方法を知っていて、余程の事で無ければ消化してしまう。言わゆる嫁姑問題にはならない、不思議な関係なのだ。昨夜も困った事が起きたと言って電話をして来た。義父が遺した共同名義の煩わしい土地の事だ。共同名義の相手先がこちらの都合も聞かず、明後日に現地に落ち合いましょうと言って来て不動産屋とのアポを押し付けて来たのだ。「どうしたら良い?」と
だと私は思うのです😐たまに親を在宅で暮らさせるのは最高の親孝行だと仰る方もいらっしゃるようですがうちの母、お蔭様で特養さんにてお世話になれてますが、先日、私が母の面会に施設に足を運んだ際に、私が何度かお見掛けしたことある恐らく私より年上の穏やかそうな50代くらいの女性とエレベーターに乗り合わせまして、お訊きしましたら、そちらの女性も親御さんの面会に来られたそうで注、母の特養さんは面会は基本的に事前予約制ですエレベーターの行き先ボタンを押すのにそちらの女性に何階かお訊きしましたら母
なんかネットを眺めておりますと、主に介護と育児にダブルケアラーさんや介護の会や、お看取り、グリーフ・ケアに関するサークルが数年前に増えてるような気がしますが、うちの末っ子が小学校に上がった時から私が参加している私が居住する市内の介護系サークルは介護に興味さえあれば経験、未経験問わず誰でも参加費100円(資料代と、お茶菓子代)支払えば参加出来まして、そちらの会はいつもだいた10人前後の参加者さんですがご家族を看取られた方もチラホラ参加されてるんですが、私が知る限りそういった介護系のサ
早咲きの桜を見に行くのが、夫婦の恒例行事になった。二月の河津桜から五月の信州桜まで、花に託けて週末旅に出るのだ。主人が鬱になってから朝から晩まで低俗なアニメ漬けで、私が耐えられなくなって企画するようになった。三人の親と私の闘病と、経営難が続いている主人の勤務先。俯いたら負けてしまいそうな今の私と主人の状況を、現実から離れる為の旅だ。少しも豪勢では無い地味な旅だけれど、温泉に浸かり地元の料理を頂き景観を楽しんで来る。ただそれだけ。土日くらいはそっとしておいて欲しいのに、義母が【心配】
「母の棺(ひつぎ)に入れてあげよう」少し前からそう思っていたものがありました。それは、母がとても大切にしていた人形でひな祭りには箱から出して毎年飾っていた人形です。母が母のお母さんからもらったものらしく手作りの着物を着せていました。実家を片付けた後も、施設の部屋で大切に葬儀社との朝の打ち合わせでそのことを伝えると(葬儀屋さん)「火葬場に中に入れたものをすべて申請しなくてはいけないので、お人形はちょっと難しいです。全体
昨日…こんな記事を書きました。↓↓↓⇒【高齢者】不倫相手が2人になった!で…今回も…近所の人の話ですけど…昨日の人とは…全く別の人です…(^^で…今回の人は…88歳のおじいちゃんで…数ヶ月前まで…奥さんを介護されてました。でも…その奥さん…亡くなられたんです。なので…現在…おじいちゃんは…一人暮らしをされてます。ちなみに…娘(60歳前後)さんが…近所に…住んでるんですけどね。で…先日…その娘さんが…おじいちゃんの家に…立ち寄ったらしい
今日は先生がいらっしゃる前から「行かないわよ!」と軽くしかめっ面な、母さま。(๐•̆·̭•̆๐)ムスッ⿻*⌖.:˚◌˳˚⌖⿻*⌖.:˚◌˳˚⌖⿻*⌖.:˚◌˳˚⌖⿻*⌖.:˚◌˳˚⌖この日先生がいらっしゃる前に実は、うちも、やらかしてしもうてね。以前夜中に起きた時に時計が見えないと、うったえた母に夜中でもはっきりと見えるデジタルの電波時計をお迎えしたんやけどリハビリの前にベッドからお布団をあげていてその時にふと氣づいたの母の
小6のうちの息子、昨日、学校から帰ってきたらはは〜、明日校外学習だって、はい、これと、栞を私に渡して来ましたー。で、内容読むと、まさしく今日息子の学年は校外学習でマイクロバスで、国会議事堂見学行くそうで、そちらの栞には、色々持ち物書かれてましたがその中にはお弁当も含まれてまして、昨日の夕方子どものお弁当作成係❓の旦那に慌てて、メールしました😭校外学習の栞を前日に配るのは有り得なさそうなんで、どうやら息子、校外学習の栞をずっとランドセルに入れっぱなしにしてたようですが色々親にも
母が永遠の眠りについた横で私は、父や義父の葬儀のことを思い返しながら少しづつ部屋を整理し始めました。父の葬儀のときの様子はこちらで↓『父の葬儀のかたち~実家近くの大きな斎場~』私が初めて親を看取り「葬儀を行う側」の立場になったのは13年前に実父が亡くなったときでした。そのときの喪主は、母でしたが父が亡くなった直後はその衝撃と…ameblo.jp義父の葬儀のときの様子はこちらで↓『義父の葬儀のかたち~自宅での小さなお葬式~』実父の次に見送ったのは二世帯
住宅改修の打ち合わせも、プロバイダーの契約も、私だけなら時間は掛からない。義母が同席すると話を脱線させてしまい、話題の立て直しに苦心する。今の義母は授業に集中出来ず、歩き回ってしまう子供みたいだ。ケアマネさんは手慣れていて、頃合いを見計らって説明に戻って来れたが、プロバイダーの営業さんは若かった為に脱線させられまくった。毎月掛かるネットや電話代を如何に安くさせるか、交渉している最中に「みかん狩りして行かない?」と真面目に切り出す。まだ転職して来たばかりの不慣れな若い営業さんが、手順を乱
母の呼吸が止まった後も私は母の手を握り、顔を見つめていました。「母は、私を待っていてくれた」「私の手の中で旅立っていった」そう思うと涙だけがただあふれてきて声を出すこともできず時計の時刻を確認することもできませんでした。しばらくしてふと顔をあげると少し離れた場所で静かに泣いてくれているサ責さんと目が合いました。私がうなずくと、隣にいた看護師さんが近くまできて母の「脈」を確認します。「医師に連絡してきます」そう
秋から義実家に頻繁に通う用事が増えた。介護と呼んで良いのか分からないけれど、ネットや土地売却の事から整理されていない書類の整理まで。義実家に行くと事務処理をしながら、義母の昔話を聞かされている。何度も聞いた話でも、情報が更新されない義母には、息子たちの昔話をするしか無いのだろう。私も音信途絶えた次女の事は、家を出るまでしか知らない。今、どんな生活をして、何を思っているのかも分からない。今、次女がふらりと帰って来たとしても、私は義母と同じように昔話を聞かせてしまうのだろう。家から独立
2月上旬、関東平野に雪が積もった。雪に不慣れな関東は、5センチの雪でも交通機関が打撃を受ける。うちの付近は3センチにも満たず、みぞれ混じりのベチャベチャ雪で、雪掻きも必要が無い程度だった。発熱は明朝になっても下がらず、仲良し先生のクリニックに連絡をした。「11時に来なさい。着いたら外から電話して。人払いするから。」一般の患者とコロナの疑いがある患者を一緒には出来ないので、発熱がある時は事前予約が必要だ。外で鼻に綿棒を刺され、検査を受け外で待たされた。暫くすると「残念ながら陽性だった
昨日午前中、母の面会に母の特養さん伺いまして、母との面会が終わり、帰る際に、歩行器をお使いになられた高齢者さんとそちらの方の娘さんか、お嫁さんだと思われる50代くらいの女性が特養さんの事務所前の入口付近のイスにおかけになられてまして私、施設内外問わず職員、利用者、面会者さん問わず目が合った方には挨拶だけはする人なんでお二人にこんにちはとご挨拶しましたら、高齢者さんは笑顔で挨拶返して下さいまして、娘さんだかお嫁さんはお疲れなのか、やや仏頂面で挨拶を返して下さいまして、大人なら
午前中、母がお世話になってる特養さんに残念ながら看取り状態になってしまった母の面会に伺いましたー。私てっきり母、寝てるかと思いましたが、母起きてまして、でも母、私とは視線が合わず母ちゃん!!と、耳元で少し大きめな声で母に呼びかけましたら母、一瞬こちらを見てくれまして、どうやらうちの母の場合目と耳には問題は無いようです😶で、二日前に母の面会に訪れた際に母の居室には無かったのですが、今日の居室には施設の職員さんにお作り頂いた今年の母のバースデーカードが飾られてましたー。↓こち
母の看取り期~亡くなるまでのことを一気に書いてきたら少ししんみりしちゃいました。今日は、ちょっと一息ついて母が最後にきた服のこぼれ話を^^母が亡くなる前日に用意した・ピンクのカーディガン・赤い花柄のブラウス・母の日にあげたベージュのズボンのセットこの他に、密かに用意していたものがありました。それは何を隠そう母の肌着です。入院後は寝たきりの生活になったので母の下着は、上に着る「前開きのシャツ」だけで「パン
『ごはんを食べるということ』それは「生きる源」であり、暮らしの上での「楽しみ」のひとつでもあります。母は元々「食べること」も「作ること」も大好き家ではテーブルいっぱいの手作り料理を並べていつも家族の帰りを待っていてくれたし、お寿司お餅おまんじゅう、、もつい最近までパクパク食べていました。(今考えるとちょっと恐ろしい、、笑)去年の11月に一緒に食べに行ったおすしもペロリ施設に入ってからも、「私、テーブルの中で一番最初に食べ終わるからヒマ
「恐怖症とMRI検査の難しさについて」私がMRI検査を終えて待合室に行ったら、小学校4~5年生くらいの女の子とそのお母さんがいて、その母娘に医師が丁寧に説明していました。「どうしますか?お母さんが付き添いますか?全然痛くはありません。ただ、カプセルみたいな中に入って、うるさいのでヘッドフォンして、また安心出来るように見えないようにはなります。」お母さんは結局付き添っても、話し掛けられるものでもないため、「大丈夫だよね!!」と言ってましたが、初めてのMRI検
一昨日夕方しばらく振りに音信不通だった長姉から、なぜか特養さんにてお世話になってる母に面会しても良いか私に打診するメールが入りまして、その1分後に長姉に母に面会するなら施設のご都合上事前予約が必要と返信しましたら、長姉から返信が無くて、今日の午前中に長姉からもし長姉が母と面会しても良いなら今週土曜日に母と面会したいとメールが入りましたがすみません、私ホントに長姉や他のきょうだいに対して母と面会しないで欲しいなんて今まで一度も言ったこと無いので長姉にでは特養さんの方に母の面会予約入
葬儀が終わると書類の手続き以外にもまだ施設の部屋の片づけが残っていました。母が亡くなった日、施設長から「今はそのままでいいのでお母様をお送りすることだけをお考えください」そうは言われたもののこちらにも期限はあって、亡くなった日から二週間以内の退去大きな家具の運び出しなどは、次の日曜日に旦那に手伝ってもらおうと相談すると、(旦那)「えっ?持って帰っても使わないんだったら施設で全部処分してもらったらいいんじゃない?」
母の法名も決まり急いでお泊りの準備と棺(ひつぎ)に入れるものを用意して母の元へ戻らなくてはなりません。※棺に何を入れたか、、の話はまた後日に母の葬儀のスケジュールは次のように決まりました。<葬儀前日>8:00葬儀打ち合わせ17:00付き添い宿泊の説明を聞く○葬儀会館泊まり<葬儀当日>11:00喪主(私)打合せ12:00親族集合(兄、旦那、息子)12:15告別式13:15出棺14:
母が亡くなってから、あっという間に二か月半が経過しました。やっと、一通りの届け出や手続きが終わった感じです。(まだ手続き中のものもあります)これからは、親が亡くなった後に次々訪れる葬儀・法要・届け出・相続などの手続きについて書いていきたいと思います。あくまでも私が行った順番ですが、・こうしたらスムーズに進んだ・もっとこうすればよかった・その時私がどう思ったか、、も含めて引き続き綴っていきたいと思います。親の死後
母の部屋の片づけた翌朝ベットから起き上がろうとするとお尻から右足にかけて強烈な痛みが走りました。(えっ?筋肉痛?イヤ、、そんなんじゃないな、、)やっとの思いでベットから起き上がると、次は階段です。左足に体重をかけてなんとかそろりそろり歩くも立ったまま階段を下りるのは無理でお尻と手を床についたままリビングまでやっと辿りつきました。アラ50の私ですが、ここ数年は食事や運動にも気をつけ年に一度の健康診断はオールAの優等生(う
医師の最後の診察が終わった後、母の部屋に残った私たち三人(私、旦那、息子)葬儀社への連絡は旦那に任せて私は親族への連絡をすることにしました。父が亡くなってから10年間富山の実家で一人暮らしをしていた母2019年3月に「もう1人暮らしを続けるのは難しいです」とケアマネから連絡があり私の住む関西に呼び寄せました。その時の様子はこちら↓『ケアマネさんからの長い電話』昨日の母に人生最悪と言われた日からのつづきです。ケアマネさんはゆっくり私を気
結局朝まで電話はかかってきませんでした。翌日母の部屋を息子と訪れ(私)「(孫くん)来たよ、わかる?」と顔をのぞき込むと母は静かに目を開けコクコクと首をたてに振りました。よかった、、意識ある、、少しすると、看護師さんが入ってきました。(看護師さん)「少し落ち着かれてますが、時おり痙攣は続いています。昨晩からお食事と水分はお止めしてます。」そう言ってすでに包帯だらけの母の足の甲に点