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(レオニード・ルブラン1842年12月ー1894年2月)この写真の女性は、レオニード・ルブランという名前の女優・高級娼婦です。レオニードの目的はただ一つ。それはお金。レオニードは、パリの紳士たちに「マキシマム嬢(最高に高くつく女の意」と呼ばれていました。レオニードは美人でも特別かわいくもありませんでしたが、彼女が〝最も高くつく女”と呼ばれた理由は、ただたんに贅沢なだけでなく才知に富み恋人に最高位の人たちがいたためでした。レオニードは美人ではなかったが、男性受けする顔立ちで野心家ですが
(ジュリア・ファルネーゼとされる肖像画。ラファエル画。)ドラマ、ボルジア家は歴史に割と忠実に描かれているのですが、ローマ法王アレクサンドル6世の愛人、またはキリストの花嫁と呼ばれた、美女ジュリア・ファルネーゼも実在の人物です。ジュリア・ファルネーゼはまさに古典的な美少女でした。その美しさがローマ教皇アレクサンドル6世の目に止まります。15世紀ルネサンス名門の家系に生まれたジュリア・ファルネーゼ。アレクサンドル6世の愛人になったハッキリした時期はわからないが、すでに15歳の時にはアレク
平安時代末、たいした身分ではなかったものの、その美貌と聡明さが後白河院の目に留まり、高倉天皇の母となり皇太后にまで上り詰めた女性、平滋子(建春門院)がいました。彼女の成功の秘密、それは滋子の絶世の美貌ではなく、滋子の比類なき心掛けにありました。滋子のモットー、それは「女は心がけしだいでどうにでもなるもの。親や周囲のせいではない。自分の心をしっかりもって我が身を粗末にしなければ、自然と身に余る幸運もある」12歳から滋子に仕えた、藤原定家の同母姉・健寿女は滋子の成功の秘訣を最晩年の回想録『た
ー美しき征服者コーラ・パールよ、永遠に。コーラ・パールは19世紀フランスでイギリス人ながら密かに一時代を築いた女性です。フランス宮廷の要人達の愛人となり、豪奢な生活を送った女性で、エミール・ゾラの小説『ナナ』のモデルの一人とされていますコーラ・パールはイギリスの良家の出身でした本名は、イライザ・エマ・クラウチ。1835年生まれでロンドンで祖母と一緒に住んでいました(コーラの父親、ウィリアム・クラウチ)コーラ派13歳の時に小児性愛者の中年男性に薬を盛られ、強姦されたと言われています。
明治・大正期はたくさんの有名な芸妓さんが登場しましたこの女性は江良加代祇園の芸妓さん。1862年生まれのお加代は、父親は道場主で母親は華頂宮に仕えていた女性だったらしく出自も良かったので、お座敷に出ると瞬く間に売れっ子になりました。彼女は当時めずらしいあさり目の西洋的な美人でなんと12歳?で西園寺公望にどうしても、と請われて西園寺家の妻になります(◎_◎;)しかし妻といっても西園寺家は代々正妻を娶らないらしく、数ヶ月で家族の反対を受け、江良加代は祇園井筒屋に高価な着物とともに返されます
(絶世の美女だったとされる江良加代)江良加代は、文久2年3月、華頂宮家に仕える江良千尋の娘として生まれた。江良加代の人生はとにかくモテモテの連続で、とにかく男性が寄ってくる、助けてくれる、なんだか一昔前の少女漫画の主人公のような人生です生家は京都・祇園社の近くで、花街に近いこともあり、加代は祇園・井筒屋から舞妓としてデビューすることになりました。幼少期より歌舞に優れ、〝牡丹や百合の花の姸を奪ってしまう″ほど美しく美少女でした加代の美貌の噂は日増しに京中に広まっていきます。噂
(フォンタンジュ嬢ことマリー・アンジェリク)太陽王ルイ14世が老齢にさしかかった頃、ヴェルサイユの宮廷にオーヴェルニュ地方からオルレアン公爵の2番目の妻ラ・パラティーヌの侍女として1人の女性が選ばれヴェルサイユにやってきました名前は、マリー・アンジェリク・ド・スコレイユ・ド・リシュ。花のような愛らしい地方の名門貴族の伯爵令嬢でした。この女性は、宮廷でフォンタンジュ嬢と呼ばれることになります。ブルーとグレーが混ざったような絶妙な色合いの瞳をもつフォンタンジュ嬢の美
ーマダム・デヴィ・スカルノはパリに着いたその日から女王の一人となった。そして伝説が常に彼女についてまわった。デヴィ夫人は78歳にもかかわらず『デヴィ夫人』の芸名でレギュラー番組7本を抱えワイドショーやバラエティー番組と引っ張りですデヴィ夫人は真珠湾攻撃の一年前の1940年2月6日に東京都港区麻布にて誕生しました父親は優秀な大工、兵七郎と足が不自由だったが美人と評判の政子との間の長女として誕生しました。生まれた時につけられた名前は根本七保子さんです(デヴィ夫人のお母様、まささん。美人で
(モナコ公妃グレース・パトリシア・ケリー1929〜1982)グレース・ケリーは同時代の女優の明るさとセクシーさを前面に出したマリリン・モンローの美貌とは対照的な、気品に満ちた貴族的な容姿が「クール・ビューティー」と賛美されました人気絶頂の最中、26歳でヨーロッパの君主と結婚し女優業から引退し、モナコ公妃となった女性です。グレース・ケリーは1929年11月12日フィラデルフィアの裕福な家庭に生まれました。(グレースが育った家)ケリー家についてグレースの従兄弟チャールズ・ケリー
ー空蝉の唐織り衣なにかせん綾も錦も君ありてこそ厳しい身分制度と男尊女卑によって朝鮮王朝時代の女性は過酷な運命を強いられていましたしかし、その中で野望を実現させるためにあらゆる手段を用い、男尊女卑の社会を巧みに利用し、成り上がっていく女性もいました朝鮮王朝三大妖女の一人、とも言われていますが…『朝鮮王朝実録』には原則女性の容姿に関しては記載はないが、ただ一人張禧嬪だけはその容姿について記載があります張禧嬪が淑媛に任命されたとき、〝
明和5年(1768年)頃、江戸の出版界に突如として町娘ブームが起きた。それまでの美人画のモデルといえば、遊女や太夫など玄人の女性たちだったが、市井の美女を描き、その生涯、評判などが語られるようになりました江戸の中心部はとても狭く、人々はよく歩いたのでどこそこに美人がいる、となればその噂は一気に広まった。ブームの口火を切ったのは鈴木春信の筆による、水茶屋の看板娘だった笠森お仙の錦絵だった。水茶屋とは神社の境内などで茶を出す簡易なオープンカフェのよ
ただいま視聴折り返しにきてる『永遠の桃花〜三生三世〜』(原題:三生三世十里桃花)めちゃめちゃ面白いです〜✨私の苦手なワイヤーもCGも超満載だけど😂『陳情令』と同時並行視聴だからそこはもうスルーで楽しんじゃってマス♡その記事はまた別に書くとして、今日pickしたいのはディリラバ様‼️ウイグル自治区出身の女優『新疆4大美女』と呼ばれているうちの一人。ウイグル自治区出身の彼女はとにかく絶世の美女✨こんな美人、日本で見たことある⁉️いや、ハーフとかではゴロゴロいてるだろうけど…👱♀️
小説、椿姫の主人公マリー・デュプレシーの職業ははっきりいえば高級娼婦です。命短いマリーの最後の恋の相手は音楽の天才、フランツ・リストでした。(23歳の若さで死んだマリー・デュプレシー)この高級娼婦という職業は、通りに立って身を売るようなことはせず、豪華な邸宅をかまえ、時に貴婦人以上の生活を送り、上流階級の男性客から金銭を得ていました。その金銭のやりとりも1ダースのオレンジやチョコレートを高額紙幣で包む、という粋な計らいをしていました。(フランツ・リスト)リストは1845年パリで新しいス
おはようございます!yogaインストラクター&自分辞典プロアドバイザーのMieです。芸能関係の仕事をしている人がこんなことを言っていた。20代前半の頃に絶世の美女だった子よりも中の上くらいだった子のほうが美の寿命が長い。言われてみると、その通り。芸能界でもそう。一般社会でもそう。アラフォーになっても美しい女性たちは、かなりの確率で「元・中の上」だ。なぜ、早咲き美女の寿命は短くなるのか?理由は大きく2つあると思う。1.自分の美しさにあぐらをかき、努力を怠る。2.自分
こんにちは。大野梨咲(りさ)です。美女のたたずまいブログへようこそ。数千人の美女ウォッチで得られたエイジングに負けないで右肩上がりに幸せを増やし、<マイビューティフルライフ>を生きる方法を縦横無尽にお伝えしています。~~~~~無料で聞いていただける私の音声アルバム「綺麗にしていて幸せな人生が似合うひと」で私のプチセミナーをお送りしています。最新音声(20番目)をアップしたので、3倍綺麗になれる<美人記号>こちらから聞いてみてくださいね。~~~~~あっ
〝美しきアンダルシア女″、〝世界で最もスキャンダラスな女″とも呼ばれたベルエポックの危険な仇花、カロリーナ・オテロ。この女を愛したら最後地獄行き確定です。近くにいたら絶対に嫌な人間No.1オテロは1869年スペイン南部の小さな村に生まれました。本名はアイグスティナ・カロリナ・オテロ。しかし両親の仲は悪く、極めて貧しい暮らしをしていましたオテロの母親はジプシーの踊り子、父親はギリシャのゆきずりの船乗りだったのではと言われていますとにかくオテロの母親は男出入りが激しく、父親は母親
(ニコール・キッドマン主演のムーランルージュのヒロイン、サーティーンもクルティザンヌの一人)毎晩高価なダイヤモンドを身につけて、高価な手袋は使い捨て。毎夜、宴会を開いては高級ワインを100本空け、部屋が気に入らなくなれば、高価な家具を一掃して買い直す、という生活を送ったクルティザンヌたち。ちなみに本当の意味でのクルティザンヌはフランスにしか存在しません。時代の歪みと矛盾から生まれたクルティザンヌとはどのような存在だったのでしょうか?彼女たちは貧しい女性たたの希望であり、ルイ・フィリッ
ー彼女にとって〝美貌〟のみが〝お守り〟であり〝万能のアイテム〟だったのだ。カスティリョーネ伯爵夫人ヴィルジニア・オルドーニはフランス皇帝ナポレオン3世の愛妾としてとても有名な女性。サルデーニャ王国の宰相カヴールが送り込んだスパイであり、歴史的な1861年のイタリア統一に〝影の影響力〟があったとされています。1837年3月22日、イタリアにオルドイーニ侯爵の娘として生まれましたヴィルジニアの美貌は9歳の時からすでに評判で女として男性を惹きつけたと言われていますヴィルジニアは16歳の時カス
(クレオ・ド・メロード1875年9月27日-1966年10月17日)クレオ・ド・メロードは世紀末を代表する絶世の美女でバレエダンサーです。本名をクレオパトラ=ディアーヌ・ド・メロードといいます(本当に美人)クレオについては、その美貌が幼いころから注目を集めていました。大変な美少女がオペラ座にいるという噂が広まりました。クレオはさらに美しく成長し、バレエダンサーとしての技量よりも彼女自身の持つ魅力で広く知られるようになりました1896年、ルドヴィック・バシェという人物が「
ご訪問ありがとうございます!ニューヨークよりお届けしているタコです。お初の方は私と家族紹介上の今回の投稿ネタですが「やってみた」と言うよりは「買ってみた」ものがこれまで完全に女を捨てていたタコオバちゃんには非常にめずらしい事に美容の本❗️この冬の一時帰国中に特に美容に興味もなかったけれど漫画を買いに寄った書店でたまたま「おすすめコーナー」の棚にあった一冊の表紙に惹かれて衝動買い❗️その表紙とはコレ❗️思わず2度見してしまいませんか
ーすべては性格による悲劇です。(ゾフィア・ドロテア)今日まで語り継がれる薄幸のプリンセス、ゾフィア・ドロテア。ゾフィアの不幸と不運が一層際立つのも彼女が並みの女性ではなく、絶世の美女にしてイギリス王妃だったから。哀れな王妃は、アールデンの古城に28歳から60歳で死ぬまで32年間も幽閉されました。ゾフィア・ドロテアは、16歳で22歳の従兄弟ゲオルグ・ルートヴィッヒと結婚しました。ゾフィア・ドロテアは母の美貌を受け継ぎ絶世の美女だったと言われています
今から約2千年中国荊州南郡(現在の湖北省沙市)に、一人の絶世の美女が、その可憐な美しさから17歳で選ばれて漢の元帝の後宮に入った。彼女の名は王昭君。彼女は数々の小説、ドラマなどで外交上の犠牲として野蛮な国の王に嫁がされた、悲劇のヒロイン、不運な美女として描かれている。(王昭君は楊貴妃・西施・貂蝉と並ぶ古代中国四大美人の一人に数えられるほどの美人。)後宮には何千人という女性が仕えており、皇帝の目に留まり、寵愛を受けることは大変なことだった。その中には、一度も皇帝に会うこともなく、寂
スコットランドにあるダンスタフニッツ城。この城には500年前から続く「呪い」があるという。今から500年以上前、ダグラス伯爵一族は幸せの絶頂にいました。ウィリアム・ダグラス伯爵のひとり娘、18歳の伯爵令嬢エミリーは大変美しい女性でした。美しいエミリーは若きスコットランド王ジェームズ2世から見初められ王妃になることが決まったからであったすでにエミリーは王との間に3人の女の子を産んでいたジェームズ2世は6歳で父王
ナポレオンのイギリス本土侵攻からイギリスを守った偉大なる英雄、ネルソン提督の心を虜にしてしまった世紀の美女、エマ・ハミルトン。ネルソンは彼女に、『英国海軍提督の名にかけてあなたをお守りする』と誓いました。一度は言われてみたいです。。(レディ・エマ・ハミルトン)ネルソン提督は、1758年に生まれ、アメリカ独立戦争、ナポレオン戦争などを勝利に導いた人物で、ネルソンは接近戦を得意とし数々の戦いを勝利に導いた偉大なる英雄でした。ネルソン提督は激戦に激戦の末、片腕と片眼を失ってしまいますが、
セックスを楽しむの何がいけないんだろう。戦国の世がやっと終わった江戸初期のこと。公家の力は弱体化していき、完全に武家の時代がやってきました慶長14年後陽成天皇の寵愛の寵愛を受けていた新大介と呼ばれる女官がおりました。この新大介、広橋大納言の娘で並外れて大変美しく、後陽成天皇の「後秘蔵、ご寵愛の方」と当時の文献に残るほど後陽成天皇のお気に入りでした。ところがこの新大介が人目を忍んで少将猪熊教利と密会するようになる。2人の仲を仲介したのは同じく御所に勤めていた讃岐という女房。猪熊
(香妃の肖像画確かに美人)18世紀半ば中国・清王朝が最も栄え華やかだった、乾隆帝の御代。この時代清朝は全盛期で最大の領域を誇っていました。。その頃シルクロードのウイグル族に体からもかぐわしい芳香を放つという絶世の美女がいました。(香妃の肖像画。イタリアの画家カスティリオーネに描かせたもの)香妃は中国西部のウイグル族・ホージャ氏の娘で1734年頃誕生し、成長したのちウイグル族の長ホージ・ハーンのもとに嫁いだとされていますがその美しさは遠く離れた清王朝にも鳴り響くほどでした香妃はその名の
ロココ、あまりのみだらさのため美術史に名を残せなかった華麗で官能的な時代。1720年代~1760年代の終わりまでが40年間が、真のロココと呼ばれる「贅沢、優雅、快楽」を最高とする時代の最盛期。〝1789年以前に生きたものにしか、人生の甘美さはわかるまい″〝あの頃は老人なんていませんでした。老いも若きも皆人生を楽しんでいた″とジョルジュ・サンドの祖母は語ったといいます。(ジョルジュのサンドの祖母で若い頃らヴェルサイユで暮らしていた)フランス王はルイ15世。王妃はポーランド王女マリー
(ハリエット・ハワード1823–1865)ハリエット・ハワードは1823年にイギリスのブラインドンでエリザベス・アン・ハワードとして生まれました父親は婦人靴商であり、母親は敬虔な新教徒でしたしかしハリエットは女優になるために15歳で馬商人の息子と駆け落ちそしてハリエットはオックスフォード・ストリートで暮らしました。この時名前をエリザベスからハリエットと名前を変えました17歳になったハリエットはロンドン社交界で評判の女性となります。そして近衛騎兵連隊の幕僚と恋に落ち、男の子を産み
大正期の絵はがきのモデルとなった芸妓さん。この女性はさかえという下谷の三州家の売れっ子芸者。大評判になったのもうなずける美貌(髪型は銀杏返し。えり白粉をつけるさかえ。手まで綺麗)当時18歳で絵葉書を売り出しました。18歳にはとても見えない大人の雰囲気ですさかえは仕草、歩き方が特別優雅で、ある女形俳優はさかえの歩き方を真似していたとか!一度は結婚し芸妓をやめたさかえでしたが、出産後再び芸妓にもどりました。髪を束髪にしております(^^)/大正の方なのに目が大きい&二重まぶた∑(