ブログ記事2,383件
3/2、父が倒れて42日目。意識不明が続いている。今後の転院先についてのお話をすることに。ソーシャルワーカーが転院先のリハビリ病院を事前に調べ、提案してきたリスト…ひとつ。選択肢はない。ここは救命病院なので、入院できるのは2ヶ月。3ヶ月いることも聞いたが、早くリハビリをしたほうがいいのと、他の患者様もそうしているからこそ、父が倒れたときに緊急で受け入れができたと言ってきた。確かにそうだ。先生がここまで助けてくださって…と続いたソーシャルワーカーの言葉が入ってこなかった。複雑。
◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇『あなたにあげるお金はない!』と言って警察署を出てきた。情けなくて…悲しかった。帰ろう…私は歩き始めた。でも今日は帰りたくなかった。警察からの電話を受けたのは母。気を揉んで待っていることだろう。私を呼んだ理由が“お金が欲しかったから”と母が知ったら…。どうなるかは想像がついた。夫の事に加え母の事でさらに気が重くなった。帰りたくない…でも、子供たちが・・・・・帰らなくては。何を言われても言い。帰れる家がある何より子供た
ご訪問ありがとうございます院長先生直属(?)の方から電話があり、院長先生との話の日が決まり、そして長く予約がとれなかったリモート面会も翌日に決まりました。久々に母の顔が見られる嬉しさと、長く会えなくて変わり果ててしまったかもしれない母を想像すると不安にもなる私でした。続きです。前回の話はこちら⬇️『久々、病院からのまともな電話』ご訪問ありがとうございます訪問歯科医の方からの連絡で、母が病院で入れ歯をずっと外されていることを知って愕然とした私でした。病院への不信感が増していきます。前回…
悲しそうな姉の顔、母の顔が私の胸に突き刺さったこれからの事を考えるも離婚した方がいいことは分かってる分かってるけど仕事をしながら全て私ひとりでこなすということに自信がなかった。結局自分で選んだことで苦労するのは私我慢するのも怖い思いするのも不安と戦うのも。どの結果がベストなのかどうなったら自分自身満足なのかそれは離婚した今でも分からない
昨日ピアノの講師をしている娘の生徒さんのピアノ『発表会』があった。33回目だ。よく続いたものだ。私ら爺婆含め家族六人総出で手伝った。三十人ほどの生徒が53のプログラムを見事に演奏し終わった。落ち着いていた。会場も応援の家族で満席だった。雨の日も風の日も雪の日も真夏の炎天下でもレッスンはある。『幼子』は『母親』の付き添いなしには無理。『母の力』が欠かせない。駐車スペースがないので車は路上で待機、自転車送迎もある。応援の会場には母父、祖父母の顔も見られたがやはり
私が2〜3才頃、両親が離婚し、父に引き取られ母と生き別れました。小学生の頃、母は死んだと聞かされていたのですが、ある時「母は生きているのでは?」と気づいてしまいました。父に問うと「生きている」と。幼すぎたので、母の記憶は全くなく、今まで一度も会ったことがありません。写真も見たことがなかったのですが、最近叔母がこっそり自分の結婚式の時の親戚写真に写っている母を見せてくれました。白黒写真で画像が鮮明ではありませんが、そこにはしっかり母の顔が写っ