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天皇堂(福井県坂井市丸岡町女形谷)ヲホトノ王(後の継体天皇)が大和朝廷の使者である大伴金村らと接見した場所と伝えられています。日本書紀には、ヲホトノ王の年齢は既に50歳を過ぎていたと伝えられています。
『日本書紀』を読んでいると、不思議な数字に気が付くことがあります。『日本書紀』編纂時に現れるのは、天武天皇の崩御日と川嶋皇子の薨去日が同じ9月9日という不思議な一致です。川嶋皇子は、天武天皇が国史編纂の詔を出されたときに、筆頭に名前を記されている皇子です。その川嶋皇子が、天武天皇が崩御された5年後の同じ日に亡くなっています。神武東征に関連して、神武天皇が東征出発前に語られた言葉の中に、1792470年という数字が登場します。東征出発の年が、瓊瓊杵尊が天孫降臨してから17
ご訪問ありがとうございます。今回から、景行天皇に入りました。まずは本文を読んで行きましょう。大足彦忍代別オオタラシヒコオシロワケ天皇は垂仁天皇の第三子である。母は、丹波道主タンバノミチウシ王の娘の日葉洲媛ヒバスヒメ命である。垂仁天皇の37年に皇太子となられた。時に、年21であった。(垂仁天皇)99年春2月、垂仁天皇は崩御された。(景行天皇)元年秋7月11日、皇太子は皇位につかれた。よって世を改められた。この年、太歳は辛未カノトヒツジにあった。2年春3月3日、播磨稲日大郎
ご訪問ありがとうございます。それでは続きを読むことにしましょう。9月5日、天皇(ホホデミ)は菟田ウダの高倉山タカクラヤマの頂に登って、国中を眺められた。その時に国見丘クニミノオカの上に敵、すなわち八十梟帥ヤソタケルがいた。八十梟帥、八十は多いこと、梟帥は首領を表します。だいたい敵側に使われますが……だから八十梟帥はいろんな国や邑の連合軍でしょう。こうして考えるとヤマトタケルって大和の王ってことですね。「東国のタケル王」がタケルと呼ばれた可能性も高くなります(^^)(彼らは)女坂メサ
山上八幡神社では天児屋命(アマノコヤネ)がまつられていました。アマノコヤネは、春日(かすが)明神ともいわれ、春日大社で祀られています。春日大社にも近いこの地では、アマノコヤネがおおく祀られているようです。古事記・日本書紀によると、天照大神(あまてらす)が天岩戸(あまのいわと)に隠れたとき祝詞(のりと)を奏上したのがアメノコヤネだといいます。天岩戸といえば、ウズメさまの舞いが有名ですが、一書には、アマノコヤネの祝詞があまりに見事だったため岩
紀伊国一宮の伊太祁曾(いたきそ)神社です。紀伊国一宮は、ほかに日前宮(にちぜんぐう)丹生津比売(にうつひめ)神社もあるといいます。伊太祁曾神社はもともと日前宮のある秋月(あきづき)に祀られていたようです。第11代・垂仁(すいにん)天皇の世に日前宮が濱宮(はまのみや)から秋月に遷されたとき、伊太祁曾神社は和田川(わだがわ)上流の山東(さんとう)に遷されたといいます。ですから、山東宮(さんとうぐう)ともいうようです。はじめの遷座地は、500メートルほど
【ウマシマジ/ニギハヤヒの御子】@art.mochida.daisukeウマシマジ(宇摩志麻遅命)を描いていみました。ウマシマジは、『日本書紀』では可美真手命(うましまでのみこと)、『先代旧事本紀』では味間見命(うましまみのみこと)と表記されています。母であるトミヤビメは、神武天皇の宿敵ともいえる大和地方の豪族の長ナガスネヒコ(トミビコ)の妹にあたり、ナガスネヒコが奉じていたとされるニギハヤヒという神様が父にあたりますが、この神は『日本書紀
崇峻(すしゅん)天皇の暗殺については、さまざまな説がありますが、真相は闇の中です。あまりにも情報が少ないので検証しようがないのが主な原因と思われます。しかし、ここでは記述に表れる事象の確認もかねて、私も一つの説を考えてみたいと思います。まず、登場人物の系図はこのようになっています。暗殺にいたる数年間の事柄は『日本書紀』に次のように記されています。【用明元年586年】5月、穴穂部皇子(あなほべのみこ)は(自身の権威付けのために)炊屋姫(かしきやひめ)皇后(推古天皇)
封印された超古代史「古史古伝」の謎:その44神代文字で記された「竹内文書」を書いたのは、正確には誰かは分からない。武内・建内・竹内の3つの名でその正体を隠した武内宿禰(たけのうちのすくね)自身が書いたものとはどこにも書かれていないからだ。その宿禰の末裔たちが代々保管してきたその内容について、歴代の竹内家の宮司たちは「時いたれば秘史を皇室に奉還せよ」と子々孫々に伝え、それが『竹内文書』となって世に出たのだが、その内容に注目したのは、酒井勝軍や山根キクといった人たちだけでなく、後の首相の東
【タケミカヅチ/相撲の起源となった武神】@art.mochida.daisukeタケミカヅチは武と剣を司る神です。『古事記』によると、創造の夫婦神イザナキとイザナミは日本の国土と神々を次々と産み出していきました。しかし、イザナミでも難産だったのが火の神ヒノカグツチ。この神は生まれた時に母イザナミに大火傷を負わせ、その火傷が原因でイザナミは死んでしまいます(神避り)。愛する妻を失ったイザナキは怒り、ヒノカグツチを十拳剣で斬り付けました。その十拳剣
『旧約聖書』の出エジプト記3章14節で、モーセに「イスラエルの民を救い出しなさい」と命じた神に、モーセは「私は民に誰が私にそれを命じたと伝えればよいでしょうか?」と質問しました。神は自分自身を表す言葉として次のように答えました。אֶהְיֶהאֲשֶׁראֶהְיֶה(エヘイェ・アシェル・エヘイェ)〝IAmthatIAm〟「我は有りて在るものなり」と…古事記、日本書紀によれば、古代の日本には高天原という別世界に住む天照大神のような天津神系の神々と、出雲大社の大国主大神のように高天
バチカンのホールについて書きましたがレプティリアンなんて信じてるの?そう、コメを頂きましたので、少し書きます信じるも信じないも、まんまだと私は、思うのですが...そう見えるだけの設計でしょ?そう思うのも、思わないのも各人のご自由ですただ時間が無いので存在より、どう影響してるかを書いてます私は自分が知り得た情報を提示しているだけです事実だと思うから何を思われ言われても平気デスだから疑問にもお答えしておりますでも、海外では悪魔崇拝など公にしていたり反対の芸能人も居る
小野龍海’s歴史塾五代目の小野小町(小野吉子)の末裔が先祖である小野小町の実在性を証明する為に始めた歴史研究の成果を公表する為のホームページになります。ono-no-tatsumi.amebaownd.com高一族を調べていたら二代目のシャガラ龍王へと繋がってきましたが、それを日本書紀や古事記の情報と結びつけると下図のようになりました。火産霊神(火之迦具土神)も同じように出てきました、そして火之迦具土神の子として闇山津見神(くらやまつみ)が出てきます、これが出雲の「くらみの国」
【闇思想諸々】★卑弥呼から大化の改新時代の侵略?No.100670年『新唐書』に『倭国と日本が合併した』と書かれたその3年後の673年に、天武天皇は即位したのである。天武天皇が過去をうまく隠蔽して、自分の倭国乗っ取りが正義であることを示すために『日本書紀』を企画したのである。五彩圏諸国は、垂仁天皇が種子島から隼人町の卑弥呼政権を責めて、邪馬壹国が実権を握った。その後、東を担当していた四道将軍の青龍の国『倭』が先頭に立って東へ拡大した。北へも『高麗』進んで朝鮮半
『續日本紀』卷第三十寳龜元年夏四月癸巳朔。陸奥國黒川。賀美等一十郡俘囚三千九百廿人言曰。己等父祖。本是王民。而爲夷所略。遂成賎隷。今既殺敵歸降。子孫蕃息。伏願。除俘囚之名。輸調庸之貢。許之。770年、高野天皇(寶字稱德孝謙皇帝重祚)の治世に、黒川郡(現在の富谷市など仙台市北側郊外)、賀美郡(現・宮城県加美郡)など10郡の俘囚3920人が、父祖が王民であったとして、公民身分への編入を許された。また、この前年(669)に神護景雲三年七月己丑。陸奥國牡鹿郡俘囚外少初位上勲七等大伴部押人
【加茂神社(かもじんじゃ)】(福岡県糸島市二丈)@art.mochida.daisuke福岡県西部の糸島市の二丈岳(標高711m)の登山口の手前に鎮座する加茂神社。二丈岳は女岳、浮嶽、十坊山と並んだ山の1つで、天候が良ければ、玄界灘とその向こうにある壱岐、唐津方面、芥屋方向や脊振山系が一望出来きます。元禄11年(1698年)、幕府領時代に徳川氏より神田を寄進されたむねの文書が残っています。徳川幕府からの寄進を受けた郡内唯一の神社であったそうで、上賀茂神社
【朽網貴船神社(くさみきふねじんじゃ)】(福岡県北九州市小倉南区)@art.mochida.daisuke太古、貴船大神は船で来田見浦(くたみうら)に着き、この丸山の東麓に船をつなぎ、この山の嶺に住むと言われ、その後八尋殿を造り、来田見村の産土神となりました。神玉を入れた箱や船はそのまま石となって残ったといわれています。また、この神社には、古来より神田植えの行事があって、鐘、太鼓、笛にて唄囃し数十頭の牛を使って田植えが行われていましたが、明治5年(1872年)の地租改正によ
現実改造占い師、もっちーです心理&星よみで、あなたの「自分軸」を探ります。★自己紹介はこちら★★ご依頼はこちら★満員御礼・次回募集3月中旬崇敬する寒川神社レポート。まずは、いきなり末社の宮山神社から。こちらの神社はいつ行っても優しい気が満ちていて癒されます。龍神様がいらっしゃると思うんだけどなんか優しいんですよね。こちらの記事で書いた、『【寒川神社】初詣④末社の宮山神社の龍にテンションMAX。家族でご縁を始めたかった理由。』現実改
令和6年4月3日水曜日、雨。今日は清水寺の日。最近も八坂神社と清水寺を舞台に散々書いて来たが_清水寺は元々興福寺の坊主が建てた寺であり、平安京が出来る京都に都が造られる前からある古拙である。長谷寺もよく登場させるが、清水寺、長谷寺に石山寺を加えた3院こそ三大観音霊場である。東国の蝦夷平定を命じられた田村麻呂征夷大将軍は妻の病気平癒のため薬として鹿の生き血を求めて清水寺まで来たのだが、殺生の罪を説かれる…蝦夷は殺してもいいと清水寺の坊主は説いたのか?ここで田村麻呂は観音に帰依し自邸を本
令和6年3月24日日曜日、雨。清水寺。祇園、八坂神社こそ京都に巣食ったユダヤの象徴でもあるが、いつも書いてるように明治維新まで日本は仏教中心だった。神道_神社は寺の配下で細々営むカルトだったに過ぎない。天皇の悪口を書く気は無いが、冷静に考えれば誰でも分かること。逆に言えば…明治維新とはカルトを担いだイルミナティによる政権を奪取した武力大革命とも言える。なのでヤクザたちは明治維新以降、神道に乗り換えた。真実を書くとBANされかねないのでこれ以上は割愛。というわけで最近も八坂神社を舞台に
以前に書いた手記をここにアップしたいと思います。古神道の視点から、祓祝詞を考察します。******************「大祓祝詞の心」の著者・岡田米夫氏は、昭和43年10月19日、武蔵の国一之宮(元官幣大社、勅祭社)氷川神社での公式幽斎に、神社本庁事務総長(林栄治氏)の代理として参列されている。「大祓詞の心」は昭和37年7月1日の発行なので、この公式幽斎の経験が著書に影響を与えることはなかった。又、その時の公式幽斎には、他に宮内庁掌典の川出清彦氏らも参列されていた。大神神社の中山
法興元丗一年歳次辛巳十二月鬼前太后崩明年正月廿二日上宮法皇枕病弗悆干食王后仍以労疾並著於床時王后王子等及與諸臣深懐愁毒共相發願仰依三寳當造釋像尺寸王身蒙此願力轉病延壽安住世間若是定業以背世者往登浄土早昇妙果二月廿一日癸酉王后即世翌日法皇登遐癸未年三月中如願敬造釋迦尊像并侠侍及荘嚴具竟乗斯微福信道知識現在安隠出生入死随奉三主紹隆三寳遂共彼岸普遍六道法界含識得脱苦縁同趣菩提使司馬鞍首止利佛師造上の196
新海監督最新作品、すずめの戸締りを観ました。古事記、日本書紀から着想されているようですが、完全オリジナル作品。地震という災害を通し、生死観を考えさせられるストーリーでした。とはいえ、アニメということで描写もきれいで、またコメディ要素もあり、あっという間に見終わりました。すずめの戸締まりAmazon(アマゾン)『すずめの戸締まり』DVDスタンダード・エディション[DVD]Amazon(アマゾン)
古墳時代の風習に、太占(ふとまに)や、盟神探湯(くかたち)があります。太占(ふとまに)は、鹿の骨を焼いて、骨にひびを入れて、そのひびの形で物事の吉凶を占うものですが、実は、この太占(ふとまに)は、現代でも、大嘗祭の際に行われているんですよ。春に沢山米が実りますようにと祈るのが、祈年祭で、秋に稲穂が実って収穫し、収穫したものを神にささげて感謝するのが、新嘗祭ですが(勤労感謝の日・・・)、天皇即位の年の新嘗祭は、大嘗祭と呼ばれていますね。その大嘗祭の時、どこのお
先日、YouTube「古代史新説チャンネル」で【3分古代史サーガ】という新シリーズを始めました。古代史にまつわる1テーマを3分でまとめるというのがメインコンセプトとなっています。もちろん、本ブログ「邪馬台国と日本書紀の界隈」および「古代史新説チャンネル」で考察した仮説をもとにまとめています。3分という内容ですから、仮説にいたる詳しい説明はほぼ省略せざるをえませんが、逆にストーリーとしてはわかりやすくまとまったように思います。そこで、内容をテキストとして本ブログに残してお
大宮にある氷川神社に行ってきましたいつか行きたいと思いつつ機会に恵まれず先延ばしにしてたので、ご参拝できたのはきっと時がキタ~からと信じてます御祭神は須佐之男命稲田姫命(嫡妻)大己貴命稲田姫命は須佐之男命の妻で大己貴命は先述のお孫さん大己貴命は『日本書紀』と『古事記』で人物像がだいぶ違うそして『出雲風土記』は古事記、日本書紀とは神話自体がだいぶ違うので、神様の解釈は古代の日本人の主観、リサーチ力、記述された方の器の深さで変わるのかも?また神霊は荒魂、和魂があると考えられてい
今回は、意富斗能地神~労働を司る男神~についてお話をしていきます。古事記・日本書紀では知られていますが、神社等では余り馴染みのない神です。単独で祀られている神社もほぼ有りません。神世七代の神の一柱です。(シリーズ12/85)【性別・別称】男性の神様で対偶神(男女一対で出現された神の事)です。大斗乃弁神と一対で出現されています。神世七代(神代七代、天神七代)とも呼ばれます。【神名】意富斗能地神(おほとのぢのかみ)(古事記)大戸之道尊(おおとのじのみこと)(日本書紀)大戸之
先日、急に思い立って千葉県芝山町の埴輪博物館に行ってきました。こちらの博物館には、3~6世紀に造成された多数の古墳から発掘された埴輪が展示してあります。その中に、どう見てもユダヤ人としか思えない埴輪がいくつかあります。以下、ユダヤ人と思われる埴輪の写真です。↑こちらは、ユダヤ教徒の方の写真以前から実物を見たいと思っていました。ここの博物館は、埴輪の展示物が豊富にあるだけで無く、緻密になされた遺跡や古墳発掘調査結果の資料、考古学的な考察を
六所神社のフジは樹齢300年と推定されており、西脇市指定文化財(天然記念物)に指定されています。六所神社兵庫県西脇市明楽寺町1014拝観・駐車場は無料古刹明楽寺の寺名をのこす明楽寺町には、日本書紀に名をとどめる6柱の神をまつる六所神社があります。創立年月は不詳ですが元應元年前後の創立と推測され、現在の社は寛政元年に本殿が再建され、明治7年2月に村社となりました。6柱の神さまを祀る古社は、創建は鎌倉時代の1319年前後と考えられており、現在の本殿は、文政四年(1821年
『大宝律令と万葉集に残る古代近江国の内緒話』『万葉集に正しく記された天香久山と踊る13の女神の内緒話』『『阿波院』と呼ばれた天皇と五角形の内緒話』『禁書にされた阿波風土記と徳川幕府と『十三』の秘密…ameblo.jp『『古代の大地震と遷都の謎』の内緒話』『大宝律令と万葉集に残る古代近江国の内緒話』『万葉集に正しく記された天香久山と踊る13の女神の内緒話』『『阿波院』と呼ばれた天皇と五角形の内緒話』『禁…ameblo.jp↑のつづき。さて、遷都の歴史シリーズです。平城京以