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今回はこういうお題でいきます。日本史のカテゴリですね。あんまり怖い話にはならないと思います。さて、新田義貞は、『太平記』に登場する武将の中で、楠木正成、足利尊氏と並ぶ3本の柱の一人ですが、他の2人に比べるとマイナーというか、歴史的評価もあまり高くないですよね。『太平記』は戦前、天皇に忠義をつらぬく物語として皇国史観に利用され、その反動から、戦後はあまり読まれなくなりました。中学校の古典教材に『平家物語』は出てきても、『太平記』が出てこないのは、『平家物語』のほうが文章が優れてるため
本日、5月22日は新田義貞が稲村ヶ崎から鎌倉へ攻め込んだ日でございます。『猫絵の姫君』『銅の軍神』と2作続けて重要な要素である鎌倉の稲村ヶ崎。武子「井上家の別邸があったりとか」彰子「隼人くんと夕日見たりとか」……これだけだと重要度がイマイチ伝わらない気もしますが(汗看板の向こうに窓?のようなものが見えるのは、幕末にここの防備に当たっていた長州藩が、作ったものらしいです。なので明治になり長州藩→井上馨と所有権が移ったよう。現在は入口はないようですが、武子さんは入
文化財てんこ盛りの狭山不動尊。そのお隣には、山口観音があります。正式名称、吾庵山金乗院放光寺(通称・山口観音)ご本尊、千手観音(行基作)の真言宗豊山派の寺院です。弘仁年間(810~824)、僧・行基が観音堂を創建。のちに弘法大師・空海が金乗院として開基。1333年(元弘3年)には、新田義貞が鎌倉攻めの際に戦勝祈願をしたといわれています。のちに義貞が奉納した白馬を模した馬が霊馬堂から睨みをきかせていました。「目が怖い~」本堂
「湘南?湘南なんて誰も言わないのこの辺りじゃあここは稲村、稲村ヶ崎」このセリフをご存知のアナタは、きっと同世代ですねぼっちゃまが校外授業で鎌倉へ行くことになり、しおりをパラパラ見ていたら、「稲村ヶ崎」がコースに入ってまして。「おお、稲村ジェーン!」と叫んだら、めっちゃ怪訝な顔されましたわ「稲村ジェーンって、なに?なんで稲村ヶ崎が稲村ジェーンなんだよ稲村ヶ崎と言えば、新田義貞でしょうが!」世代間ギャップでしょうか稲村ヶ崎は、稲村ジェーン一択義貞の入る隙ナシ肝心の映画
え~みなさん、こんにちは。本ブログはいきなり移転→開始しましたので、ここで改めて自己紹介です。歴史作家の智本光隆(ちもとみつたか)と申します。2008年に新田義顕(新田義貞の息子)を主人公とした、『風花』(未発売)で「第14回歴史群像大賞優秀賞」を受賞し、2010年1月に大谷吉勝(大谷吉継の息子)を主人公にした、『関ヶ原群雄伝ー大谷吉勝の決意』でデビューしました。以後、『関ヶ原群雄伝シリーズ』(全3巻)大谷吉勝2010年『本能寺将星録シリーズ』(全2巻)細川
大きな木には必ず触っとく思考の学校校長の大石洋子です。ところでですね、このお寺、うちから100歩くらい歩いたところにあるお寺なんです。九品寺(くほんじ)って言います。このお寺、鎌倉幕府を滅亡させた新田義貞さんが、当時の鎌倉幕府の権力者だった北条一族のみなさんの菩提を弔うために建てたお寺なんだそうで(最期は北条一族さんみんな自害されたみたいですね、昔の政権交代はそんなかんじだったんですよねえ、そう考えるといまはずいぶん良い世の中になりましたね。)つい最近そのことを知りました。なんと
國民はもっと厳しい環境で頑張っているのですみなさん、おはようございます世の中スッキリしなくてストレスが溜まります国会の審議のお粗末さイラン大統領の事件、事故台中関係などなどせめて自分の身の周りくらいはスッキリしたいという人はラベンダーの服を着て少しの心の余裕を持ちたいましょうアリガトウ「5月22日」の國史です「鎌倉幕府、滅亡」元弘3年(正慶2年、1333年)後醍醐天皇(96代)は天皇の権威回復を目指します足利高氏は六波羅探題を全滅させまた
12月27日、高崎市八幡八幡宮旧本地堂前に阿弥陀如来像還座についての説明と、裏面に協賛していただいた方のご芳名を記した看板を設置致しました。皆さまご協力ありがとうございました。
1333年(元弘3年)5月7日、足利尊氏が鎌倉幕府を裏切って京都で六波羅探題を攻め滅ぼすと、翌5月8日には新田義貞が上野国の生品神社で挙兵。5月18日、義貞による鎌倉攻めが始まりました。義貞は、巨福呂坂、仮粧坂、極楽寺切通の三方から鎌倉を攻めます。各地で激戦が繰り広げられますが、5月21日、新田軍は稲村ヶ崎を突破し、鎌倉へ攻め入りました。稲村ヶ崎を突破した新田軍は市中に火を放ちます。その火が執権館近くまで到達すると、北条高時をはじめとする北条一族は、東勝寺に退きます。そして、5月22
「白旗塚」古戦場である小手指ヶ原では、鎌倉時代の末から南北朝時代にかけて何度か合戦がありました。一番有名なのは鎌倉幕府を倒すために、鎌倉へ向かう新田義貞と幕府軍の戦いです。新田義貞は、現在の群馬県太田市を本拠地とする源氏の一族です。小手指ヶ原古戦場の石碑の脇の畑の中の細い道を進むと「白旗塚」があります。新田義貞が、ここに陣をはり源氏のシンボルである白い旗をかかげたという伝承が残る場所です。(所沢市HPより)草壁
白佐波神社(しらさわじんじゃ)☆☆☆主祭神日本武尊配祀神大山祇命外四十座(村誌より)境内社水神社鎮座地群馬県沼田市白沢町高平154由緒白佐波神社の創建は、慶安二年(1649)で、当時は武尊神社と称していました。白佐波神社は白沢地域の産土神で、鎮守の杜は「うつぶしの森」といいます。うつぶしの森は、新田義貞の三男新田義宗が最後をむかえた地と伝えられ、沼田市の史跡に指定されています。白佐波神社の御神体は、市指定重要文化財の新田義宗公木像で、製作年代は不明ながら徳川
稲村ヶ崎は、新田義貞の鎌倉攻めの際の古戦場。義貞が海に黄金の太刀を投げ入れて龍神に祈願すると、潮が引き、海上の北条軍がはるか遠くに流されたため、稲村ヶ崎を突破できたという伝説が残されています。稲村ヶ崎1333年(元弘3年)5月8日、後醍醐天皇の綸旨を受けて、上野国新田荘の生品神社で討幕の挙兵をした義貞は、5月21日、大潮に乗じて稲村ヶ崎を突破。北条高時ら一族を東勝寺においての自刃に追い込み、鎌倉幕府を滅ぼしました。☆☆☆☆☆
🔼源頼朝公鶴岡八幡宮放生会淡路島生穂出身の開正藤作非常に美しさがあり細かくもダイナミックな作風です!🔼題材は忘れましたが、開正藤氏の作かな?少しちがう作者さんにも見える。馬の顔人物の顔など素晴らしい表情をしています。毛並みなども細かく彫られています!🔼楠木正成公桜井駅の子別れこちらも開正藤氏の作です。僕が切なくも好きな題材です!菊水の家紋が入った幕の立体感が素晴らしいですね〜^_^体も大きくいかつい割りには凛としたこの表情もたまらなく好きです!🔼生穂正藤作と墨書きが!🔼