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毎朝、本を読んで短いスピーチがあります。松下幸之助さんという方がおられたみたいで、うちの社長が尊敬しているのか?よく松下幸之助さんの本を読む本に決めますね・・・。うちの会社は働いている方がたくさんいて、総勢9人です。で、そのうち3名は、女性のパートさんであったり、なにかであったりして、朝礼に参加しないので、朝礼は総勢6名となります・・・。その6名のうち、女性のお一人はスピーチしないので、結局男性5人で順番にするのです・・・なので!毎週、スピーチの当番が
「法華経題目抄」日蓮大聖人御書1173ページ13行目~16行目人身は受けがたし爪の上の土・人身は持ちがたし草の上の露、百二十まで持ちて名を・くたして死せんよりは生きて一日なりとも名をあげん事こそ大切なれ、中務三郎左衛門尉は主の御ためにも仏法の御ためにも世間の心ねもよかりけり・よかりけりと鎌倉の人人の口にうたはれ給へ、穴賢・穴賢、蔵の財よりも身の財すぐれたり身の財より心の財第一なり、此の御文を御覧あらんよりは心の財をつませ給うべし~通解~人間として生を受けることはまれであり、爪
2024年4月の鑑定、満員御礼です。占い師のゆーこの鑑定をご希望の方は、まずはこちらのページをご確認ください。占い師のゆーこです。hjl/MidnightintheHallsofHigherLearningなんか、今回の内容は、ぬるっとしているかもしれません。算命学の思想の中に「位と徳」というものがあります。いろんな説明を端折ってものすごくざっくり書きますね。位は、
「私の子供の時代はカレーライスではなくライスカレーの時代だった」。昭和5年(1930年)生まれの田村真八郎氏がエッセー集『日本人と食べもの』(丸善ブックス)に書いている。カレーライスは高級品。カレーの方が別の金属製の容器に入れられ、うやうやしく運ばれてくる。一方のライスカレーは大衆品。皿の上のご飯にカレーがかけてあるものを指した。まさに“現代のカレーライスの形”だったのである。人それぞれに、追憶に結び付く食があろう。若き日の池田先生と広布に奔走した同志を取材すると、
【教学】兵衛志殿御返事(三障四魔事)研さんのために大きな苦難は大きく変わるチャンス――日蓮大聖人は、三障四魔を勝ち越える「賢者の信心」を教えられています。ここでは3月度座談会拝読御書である「兵衛志殿御返事(三障四魔事)」の研さんのために、池田先生の指導と解説を掲載します。(「大白蓮華」3月号も参考にしてください)拝読御文しをのひると・みつと月の出づると・いると・夏と秋と冬と春とのさかひには必ず相違する事あり凡夫の仏になる又かくのごとし、必ず三障四魔と申す障いできたれば賢者はよ
アートマカラカこれはVedicのバースチャート(出生図)においてラーフ・ケートゥを除く7惑星のうち一番度数が高い惑星のことを言います。*Vedicでは天王星・海王星・冥王星といった土星外惑星は使いません*ラーフ・ケートゥを入れるという説もありますアートマカラカアートマとは魂のことそしてカラカとは指標(目印)のことを言います。アートマカラカから魂の指標を見ることができるわけですね。魂それは今私たちは
うれしいことたのしいことそれにより幸せを感じたり喜びを感じたりそんなできごとはとっておきたくなるそんなできごとは忘れたくなくなるつらいことくるしいことそれにより不安を感じたり悲しみを感じたりそんなできごとは捨てたくなるしそんなできごとは忘れたくなる日々のふとした瞬間や人生を振ったりするといろんなものが浮かんでは消えていくそうなのね、そうなのよ、どんなものであれもれなくかならず消えていくものなの最後にはなーんにも持っていけないのよそれなら
〈名字の言〉〈名字の言〉2019年5月15日その婦人部員は、反抗期の息子と衝突してばかり。「うるせえな!」と息子が言えば、「なに!その口の利き方は!」とやり返す。ある日、学会の会合で一つのエピソードを聞いた。戸田先生が第2代会長就任式で学会歌の指揮に立った時のこと。その勢いで、卓上のガラスの水差しとコップがぶつかり、どちらも割れてしまった。すると、先生は当意即妙、「水差しは“コップがふれたから割れた”と言い、コップは“水差しがぶつかったのだから割れたのだ”
「ヴィーガン給食」導入した公立学校、絶賛するマスコミに疑問栄養学的な問題、個人の思想の押し付けは許されるのか?先日、朝日新聞GLOBE+に「ヴィーガン給食」の記事が出て話題になりました。「『ヴィーガン給食』取り入れた公立小学校みんなで食べられ、みんながおいしい」と題されたこの記事は、アレルギーに対応した給食の延長として、八王子の公立小学校でヴィーガン給食を定期的に提供することになったことを紹介しています。「他の人が食べるものを尊重し、食べるものを自ら選ぶ大切さを知る、豊かな学びの場
前回の記事の最後には、今回からコロナに罹った後の話について伝える、と書きました。今回の記事は確かにその後の行動に関する話ですが、正確には昨年から始まっている事です。表題の人物の名は、私の住んでいるマンションのすぐ近くを通る大通りの名前、「マスフェレール・ノルテ(MasferrerNorte)」で知りました。マスフェレール・ロータリー交差点(ロータリーの中は大型国旗掲揚塔のある公園になっています)の北にある通りなので、こう呼ばれています。その他、彼の名を冠した学校が、大学を含め、幾つもありま
『雪柳光の王冠』より池田大作「光」が噴き上がっていた。「命」が噴き上がっていた。「咲きほとばしる」と言うべきか、抑えても抑えても、抑えきれない春のエネルギーが、真っ白な「光の噴水」となって、勢いよく湧き出していた。雪柳は「雪」であり「花」だった。「冬」であり「春」だった。光の中に、春と冬が溶け込んでいた。まるで、希望と苦悩が渾然一体になっている青春時代のように。青春は、苦しい。悩みばかりだ。しかし、悩みがあるから、心は育つ。うんと悩んだ日々こそ、一番不幸
あんな人生がいいこんな人生がいいどこかの誰かをうらやましがりどこかの誰かのマネをしてどこかの誰かの背中を追いかけてどこかの誰かの影響を受けまくってた。わたしの人生の素晴らしさにはどこまで目を向けていたの??無条件でそのままでありのままで目を向けてきたことどれだけあったの??都合のいい時だけはわたしがわたしを褒めたたえ都合が悪くなるとわたしがわたしを非難する。わたしという人でわたしの人生を生きることは今世しかないのよね。二度、この、わたし
元々ブログを書かれているのですが、最近アメブロでも書きはじめられました。私が敬愛する備前長船助光(森光秀)刀匠。まあ、この記事とか他の記事を読んで頂ければわかると思いますが、かなり危ない思想の人です。まさに令和の危険人物。狂気の刀匠です。そして、そんな刀匠が作る刀も相当ヤバいわけです。こんな時代に、美しい刀より頑丈な刀、斬れる刀、人間を殺すための刀を作るために心血を注ぐ刀匠です。かつて玉砂利を切って石斬丸と呼ばれた刀がありますが、刀匠の刀は玉砂利どころ
星野富弘氏の詩「むぎのほ」にこうある。「ゼロはいくつ足しても/ゼロだけれど/〇・一でも残っていれば/いつか一になり/百にだってなれる」(『四季抄風の旅』所収、学研プラス)。小さな挑戦でいい。続けさえすれば大きな幸福をつかめる。作者の温かい詩心が伝わってくる。「ぼくの青春は事故で壊され、学会で蘇った」と語る青年がいる。18歳の時、交通事故で手足の自由を失った。食事から排せつまで、人の手を借りなければ生きていけない。絶望して何度、生きることを諦めかけたか。そんな彼を地
これは面白かった。幼稚園の成り立ち。創立者の思い。時代背景(戦前、戦後の混乱期)に、子供の教育についてきちんとした基盤を提唱できる過去の偉人達。我が息子の幼稚園はフレーベル教育をいまだに取り入れている部分があり、フレーベル反対派の私にはなんとももどかしい話で聞き入ってしまった。今の自体は、フレーベルの恩賜教育を主体とする現場はほぼないのに、教材の全てがフレーベル館が幼稚園と取引している…まあ、最近は、フレーベル館とは名ばかりで、フレーベルの思想は
こんにちはゴールデンウィークに入りましたが、いかがお過ごしですか今日のカワスケのひとりごとは、『オードリー・タンさんの話その1』ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー先日、「気になったことを放置しない」をテーマに、調べることの習慣化、その積み重ねによる知識の量の差について触れました。ところが、知識として読んだり見聞きしたりした内容を、きちんと自分のものとして蓄積できるかどうか、また記憶できるかどうかは、インプットの質や量ではなく、いかにしてアウトプットを
ある未来部員が中学校生活を終える際に語った言葉が、今も心に残る。「野球部員でした。一度もレギュラーになれませんでした。でも3年間、辞めませんでした。」攻守に優れた後輩がレギュラーを獲得し、悔しく思ったこともある。それでも走り込みや素振りなど、地道な練習に明け暮れた。“起用する選手を決めるのは監督ですが、野球を頑張り続けるか、諦めるかを決めるのは自分です”と努力を重ねた。現在、彼は地域の青年部リーダーとして、後継の友を育む。ある女子部員は体調不良による不安感に苦しめられ
第95回箱根駅伝で東海大学が、初の総合優勝を遂げた。5連覇を狙った青山学院大学や往路優勝の東洋大学を抑え、大会新記録を打ち立てた。選手たちは「やっと努力が報われた」と口々に。大会屈指のスピードを誇るチームはここ数年、優勝候補と目されながらも結果を出せずにいた。反省を重ねた末、次々と新しいトレーニングを試みた。スピード練習から、泥くさく走り込む練習に方向転換したことも。周囲からさまざまな意見もあったが、「箱根制覇」を実現するためにチーム一丸で徹底して取り組んだ。
■人生の選択は検証できないレストランに行った時、すぐに注文が決まる人と、迷いに迷って時間をかける人がいる。もちろん「どちらが良い」ということはないのだが、これを人生に置き換えて考えてみると、なかなか重要なテーマが見えてくるような気がする。「すぐ注文が決まる」という人は、「自分はこういうのが好き」というのがだいたい決まっているケースが多いのではないだろうか。あるいは直感のままに動くことができる人なのかもしれない。「一番安いやつ!」という明確な基準で決めている場合もあるだろう。ちなみに僕はど
不安や恐れといった“マイナスの感情”は、生活のあらゆる場面で生まれるもの。では、どう対応すればいいか。映画「ツレがうつになりまして。」の原作者・細川貂々さんは、「水たまり」に例えて説明する。心にマイナスの感情という「水たまり」ができた時は、感情を外に流す「川」をつくる必要がある。その「川」に当たるのが“身近な誰かに話を聞いてもらうこと”という。(『わたしの主人公はわたし』平凡社)コロナ禍で、誰かと話をするのも控えがちになる。しかし、意思疎通の機会が減れば、“心の水た
〽右手に血刀左手に手綱馬上ゆたかな美少年……。西南戦争の激戦地であった熊本・田原坂での激闘を歌った民謡「田原坂」の一節である▼。田原坂の戦いで、官軍の兵士は、1日に32万発もの大量の弾丸を使用したとされ、そのため銃弾同士が空中でぶつかり合うことも多かったという。戦争から1世紀以上が経過した今も、現地では当時の銃弾が発見されることがある。1968年(昭和43年)、池田先生は田原坂を訪問。西南戦争で犠牲となった人々に追善の祈りをささげ、弾痕が残る建物に足を運んだ
人通りが少ない路傍にタンポポを見つけた。誰もが見上げる華やかな桜に負けまいと、足元で懸命に“春の到来”を告げている一輪の花がいとおしい。タンポポはアスファルトの隙間や崖など、あらゆる場所でかれんな姿を見せる。その秘密は地中深く伸ばした「根」にある。長いものでは、1メートルに達するものもあるという。花が咲いた後の綿毛は風に乗り、土さえあれば、その場所に根をおろし、再び花を咲かせていく。タンポポの英語名は「ダンデライオン」。語源はフランス語で、“
「一華を見て春を推せよ」(御書222ページ)と開目抄にある。厳寒を越え、凜と咲き薫る梅は、まさに春の訪れを告げる花。その姿に、試練と戦う自分への励ましを感じる人も多い。東京のある女子部員は、弘教に挑戦したが、反発されたり、“自分には必要ない”と言われたり。“私に折伏はできないんだ”と諦めかけた。そんな時、池田先生の「思うような結果が出なくとも、くよくよする必要は全くない。私も同じであった。どうすれば思いが伝わるのか、相手の心に届くのか――その繰り返しだった」との指導に出合う。
*~*~*~*~*~*~*~*~*生命論「十界」*~*~*~*~*~*~*~*~*「十界」とは、生命の状態、境涯を10種に分類したもので、仏法の生命観の基本となるものです。十界の法理を学ぶことによって、境涯を的確にとらえ、各人がそれぞれの境涯を変革していく指針を得ることができます。「十界」それぞれの名を挙げれば、地獄界・餓鬼界・畜生界・修羅界・人界・天界・声聞界・縁覚界・菩薩界・仏界です。このうち地獄・餓鬼・畜生・修羅・人・天をまとめて「六道」といい、声聞・縁覚・菩薩・仏をまとめて
他者に対する第一の態度-愛とマゾヒズム他者に対する第一の態度-愛〈まなざし〉としての他者の存在の顕示は、私の対自存在としてのありかたを根底からおののかせるものである。私の対象-存在、すなわち「対他存在」としての私のありかたは、他者においてその根拠をもっている。私は私の対他-存在の責任者ではあるものの、私の対他-存在の根拠であるのではない。よってこの対他-存在は、偶然的な所与でありながら私がそれの責任者であるような一つの所与として、私に現れる。一方で他者は、その自由な超越によ
“1848年アメリカはメキシコとの戦争に勝ち、カリフォルニアを獲得したが、同年にこの地に金鉱が発見されてゴールドラッシュとなった。その少し後、北西部のシアトルにいたスクオミッシュ族/ドゥワミッシュ族連合の首長が先祖伝来の地を追い立てられた際に担当官を前に現地語で語った言葉が、その場で英語に翻訳したヘンリー•スミスによって書き留められ伝えられた。さまざまな版があるが、その中でよく知られた版に基づく日本語訳で見事に思想を語っている寮美千子編•訳『父は空母は大地インディアンからの伝言』(ロクリン社
問題文(段落番号は便宜上付けたもの)次の文章を読んで、後の設問に答えよ。なお、本文には、一部省略した箇所がある。1最近、携帯電話を使った男女交際が流行っているらしい。雑誌に自分の携帯の電話番号を載せて「交際希望」と書いておくと、誰かから電話がかかってくる。先日テレビで、雑誌に自分の電話番号を載せた男の子に女の子から電話がかかってくる場面を映していた。まず男の子は、相手の年齢を聞き、今何をやっているかを聞く。この場合の何をやっているかは、抽象的なことではなく、今現在どんなことをしているのか
人生を「航海」に例えた名言は多い。松下幸之助氏もこんな言葉を残している。「風が吹けば波が立ち、波が激しければしぶきを受ける。波を受け、しぶきをかぶっても、舵取りさえ確かなら目的の港に入ることができる」(『松翁論語』PHP研究所)ある壮年部員の話。彼を襲ったのは烈風と言ってもいいだろう。コロナ禍により業績が悪化した勤務先で、200人の希望退職者を募る発表があった。59歳の彼は該当者にされた。“40年間、真面目に働いた結果がこれか”と落胆した。だが彼は、どうなろうとも最
他者との関係論の感想および考察ここまでサルトルの言うところの、対自の他者との関係の基本的な内容を見てきた。そこにはサルトルの構想する、実存論的精神分析ともいうべき理論の素描が現れているように思われる。対自としての人間存在は二重の存在脱落である。第一の脱落は、対自が対自であるゆえんであるところの、即自からの転落である。対自は自己の失われた即自を取り戻そうとする不断の企みである。しかし自己自身であろうとする対自の企みの実現は原理的に不可能であり、即自-対自の一致は超越のかなたにおいて指針となり