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最近は暗い?話が多いので少し主旨を変えようと思います,,,,,,,以前、海外インターンに行ったと記事で触れましたが、そのことについて。と、その前に私の将来の夢について書こうと思います。この二つはつながっているので安心してください(笑)私の将来の夢は外科医になって国境なき医師団で発展途上国の医療が不十分なところに医療を届けることです。国境なき医師団に出会ったのは小学6年生の時の平和学習です。その当時から両親から将来に医者になりなさいと言われてたので医療には漠然と興味を持っていまし
ご訪問いただきありがとうございます写真許可は戦闘機3機のみなのでほぼ戦闘機の写真です3.30太刀洗平和記念館ゴジラ企画展があっててアカデミー賞受賞で延長されたので行ってきました。子供が小学生の時に平和学習のために訪問した時以来新しくなってます意外と人が多かったですゴジラのために復元された震電天井にはB29の大きさがわかるようにB29の機影翼の部分ですこんなに大きいなんて特攻機の4倍の大きさ触れないけどこんなガタガタでハリボテのような翼で太平洋を飛ぶんですね難しい試験に
今日は朝8時15分から1分間、黙祷をする日。我が家も家族全員で黙祷をしました多くの小学校が、平和登校日で学校にいっています。息子たちの小学校は7月に平和登校日。私の住んでいる地域は夏になると折鶴をおったり平和学習が盛んになります今日の平和式典をみながら心に響いた言葉。「他人の不幸の上に自分の幸福を築いてはならない。他人の幸福の中にこそ、自分の幸福もある。」みんながそんな風に考えたらきっと幸せな世の中になるんだろうな「過去はかえることができません、未来は今からつくっていくものです。私
先週から、7月に入り、本格的な夏☀️本番ということでぇ。今月と来月のペフミスツアーは、この時期にピッタリなぁ、特別版である。『真夏のペフペフホラー』を投稿させていただきます。ペフ丸「ペェ⁈ホラー😨💦」メイマロ「そう、ホラー!」サクラ丸「アッ⁈Σ😯なんか嫌な予感がしてたけどぉ、ヤッパリそれなのねぇ。😅」(ピィ〜船長さんのバカ〜🥺(byペフ丸))アイビ丸「アッ⁉️ペフ兄さんの顔がぁ・・・・🙂💧アト、船長さんのバカてぇ😀💧」ペポ丸「なるほどねぇ、でぇ‼︎今回の
今月と来月のペフミスツアーは、真夏のホラー特別版ということでぇ。今回も、前回の続つづきである。『糸数豪』での体験談を再投稿させていただきます。『ペフ丸の世界ミステリーツアー(真夏のホラー特別編)』ペフ丸の世界ミステリーツアー【真夏のホラー特別編】第一話糸数豪:平和学習で訪れた。沖縄の壕の中で体験した怖い話【後半】今回のペフミス特別編は、前回…ameblo.jp※今回のプログは、前回、投稿したものの再投稿です。
太平洋戦争末期の学童疎開に関する情報を集めるため、インターネット検索する中で、2023年6月22日付け琉球新報の次の記事が目に留まりました。その記事の一部を紹介します。~学童疎開の手記、36年越しに発刊首里第二国民学校の体験者「沖縄楢木野会」~首里第二国民学校(現在の那覇市立城西小学校)の学童疎開体験者らでつくる「沖縄楢木野(ならぎの)会」はこのほど、学童疎開記録集「五丈の松と大いちょう」を発刊した。米潜水艦に撃沈された対馬丸と同じ船団などで集団疎開した。熊本・阿蘇での疎開体
太平洋戦争末期の昭和19年9月~20年11月まで島根県で疎開していた大阪西区・西船場国民学校の子ども達。佐藤納先生は、5年生女子30名の担任として島根へやって来ました。西船場国民学校は、昭和17年4月に靭(うつぼ)校と東江(とうこう)校が統合して誕生した学校です。統合の前年に靭校に赴任していた佐藤先生は、担任していた4年女子クラスの児童をそのまま持ち上がり、昭和19年3月に西船場国民学校の卒業生として見送りました。その後に4月から5年生女子2クラスのうち、靭地区居住のクラス担任
2024年4月30日のブログで、高尾山歴史探訪登山の様子について紹介しました。その際、確認できた戦争遺跡は数々ありました。最初に出会ったのは、西側のレーダー施設基礎跡【写真①】です。登山道から少し離れているため、その場所はわかりにくいです。現在、周囲は樹木に覆われており遠くを見渡すことはできません。当時は、レーダー監視方向の西側には樹木がなかったのではと思われます。次に出会ったは、登山道脇に設置された防空壕跡【写真②】でした。レーダー施設を攻撃された際の避難場所で、
2024年4月27日(土)の午前中、予定通り出雲市日御碕にある高尾山へ太平洋戦争時の戦争遺跡を巡りながらの登山を実施しました。出発当初は曇り空で気温もあまり上がらず、心地よい風が吹き通る若葉のトンネルとなった登山道をゆっくりと登りました。この高尾山道路では、昭和17年(1942)の1学期、日御碕国民学校の3年生以上の児童が、数回にわたって砂やレンガを運び上げる勤労作業に当たりました。地元の日御碕の人々や大社中学校、高等女学校の生徒、近郷の青年団、簸川郡や出雲市の生徒たちも、毎日入れ替わ