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大量出血を乗り越えて、順調に育っていくピヨちゃん。12週の壁を越え、流産の心配はもうないと思っていました。最後の検診から3週間後の出来事です。振り返り記録、前回の記事⑪12週の壁、超えたはずだった死産までの振り返りまとめはこちら◆◇死産までの振り返り◇◆安定期に入ったらしようと思っていたことがたくさんあった。3Dエコーの予約をしよう!マタニティウェアを買いに行こう!断捨離をして、赤ちゃんのためのスペースを作ろう!赤ちゃん本舗に行
手術が終わっても、私はずっと眠くてたまりませんでした。気づけば眠りについてしまう。遠くから、自分のいびきも聞こえてしまう。代わる代わる、看護師もやって来ます。「めち子さん、お名前と生年月日を教えてください。」私は乾いた声でようやく答える。「めち子、センキュウヒャク…」何度も何度も、このやり取りを繰り返しました。その度に看護師さんが液体を取り替え、私の身体に異常が無いかを聞いてきます。よく見ると、右腕には点滴、左腕には輸血がされていました。しばらくして、先生が来てくださいました
助産師さんとは、その後もしばらく、お部屋で話を続けました。私のカルテ情報を更新したいからと、家族のことについても聞かれました。ジェノグラムをかく際には「ちゃんとあの子もかくからね。名前は何くんかな?」と言って、よんちゃんもかいてくれました。よんちゃんだけ、黒く塗りつぶされてしまったけど…そのジェノグラムを見て、よんちゃんの存在がしっかりと記録に残った事がすごく嬉しかったです。助産師さんは、前回、私とよんちゃんを襲った常位胎盤早期剥離についてお話してくれました。私に対し、早剥はうちの
我が家には特に何も関係のなかったGWも無事に(笑)終わりました。のんたんの利用するデイは日曜・祝日がお休みのところが多くて、連休はほぼ利用出来なかったので私は仕事をお休みしてのんたんと過ごす日もありましたそれは有難いんだけど、職場のスタッフさんには申し訳なかったです。GWが待ち遠しい、、みたいな生活、、一度はしてみたい結局、、のんたんと過ごすと言っても、ダァ子と3人でダラダラしただけです5月になり、我が家の変化ヘルパー利用ができるようになりました。うちの自治体、、、、障害児に
私たちはついつい目の前の事象に引っ張られがち。どういうことかと言うと。先日披露パーティの内祝いを考えていた時に旦那さんが『○○さんのお店に行ってお礼を伝えに行って何か1本お酒を持っていこうかと思う』てのを聴いて、え!何ももらってないのに(←品物。)何故?って思って一瞬、もやっとしたんですよね。いくらあなたがgiveの人とは言えやりすぎじゃない?!って思ったんですよ。でもあえてどうしてそう思うの?って訊いたら『参加してくれた
私たち夫婦は、入院バックを部屋に運んでから、再び、子ども達の待つ駐車場へと戻りました。子ども達とはあと数日、お別れです。とはいえ、赤ちゃんと会えた嬉しさや、総合病院と違ってちょこっと会えるようにもなったので、子ども達も以前ほどの寂しさを感じなくなっているようでした。3人共、ニコニコしながら自宅へと帰っていきました。病室に戻り、ひとりでソワソワと過ごしていると、看護師さんが赤ちゃんを連れて帰ってきました。看護師さんは笑顔でお帰りー!本当に良かったね。みんなでめち子さんが帰って来るのを
しばらくぶりのアメブロです仕事に復帰していました。所属先は外科病棟、子持ちにはちょっとハードですが楽しくやってますさて、私は2度帝王切開をしております。1回目は、長男の時の常位胎盤早期剥離の緊急帝王切開2回目は、次男の予定帝王切開2回目の出産前、胎盤が石灰化したというところまでブログを書かせていただきましたが無事に37週を迎え、次男を帝王切開で出産しました。最近、下の子は2歳になりました。その際、1回目とぜんぜん違ったな〜と思ったレポートを書いてみようと思います1回目常
妊娠9ヶ月沖縄から帰ってきて、少し心配だった検診。結果は問題なく、順調でした。この検診が結局最後の検診となりました。ひかたんが生まれる11日前でした。今思えばなのですが…ひかたん妊娠中のお腹はこの時フワフワしたようなお腹ではなく、硬めで突き出るような形のお腹でした。一人目の妊娠の時、+14kg二人目ひかたんの妊娠は初期の頃から体重管理をしっかりしようと、食事は腹8分目にして毎日食べ過ぎないように心掛けていました。そのため体重はこの検診の時で+8.8kg。体重増加を抑えている
私は、頭の中で何度も思いました。まだ生まれてなかったし、夫と、上の子3人の生活に変わりはない。ただ、元の生活に戻っただけなのだ。何度も何度も、そう考えました。そう考えないと、心がおかしくなってしまいそうでした。真正面から、受け入れられなかったのだと思います。よんちゃんの命が絶えたと分かってから、少しだけ、医療スタッフの動きも緩やかになったように感じました。たぶん、もう緊急に取り出す必要がなくなったからなのだろうと悟りました。夫は、かかりつけ医から車で駆けつけました。夫は、ポロポ
よんちゃんが亡くなってから、2年8ヶ月あまり。妊娠37週1日のこの日。ついに、私の人生4度目の帝王切開が始まりました。ずっとずっと、この時を目標に頑張ってきた。本当に、良く頑張ったと思う。私も、家族も、周りで支えてくれた方々も。みんなで手に入れたこの時だと思う。ようやく、ようやく、生きた我が子に会える。手術中は、オペ室の看護師さんと家族の話等をしていました。きっと、私が不安にならないように気遣ってくれていたのだと思います。看護師さんは、ずっと私の手をぎゅっと握り締め、話しかけ
常位胎盤早期剥離既往がある場合の妊娠。再発の可能性は、既往歴がない場合の10倍だと聞きます。あっという間に赤ちゃんの生命を奪う。母体も一気に状態が悪化。亡くなるケースもある。やっぱり、こんなに残酷な経験をした後の妊娠はいろいろと覚悟が必要だった。妊娠してからは毎日、毎日。1分、1秒たりとも気が抜けなくてずっと苦しかった。前回、死産をして直ぐに当時の担当医から「次の妊娠では管理入院」との説明を受けていたから、きっと、それなら大丈夫だと思うことができた。でも、結局、私の場合は管
めち子さん。手術、終わりますよ。私は目を覚ましました。終わった…やっと、この妊娠の全てが終わったんだ。前回妊娠は、妊娠37週で常位胎盤早期剥離を発症。赤ちゃんは亡くなり、私自身も産科DICとなり、大量の輸血をしてなんとか自分の生命だけは助かった。正直、また、土壇場で何かしらの問題が起きるのではないかと、最後の最後まで不安だった。良かった。本当に良かった。しかしながら、目覚めてからは身体がガタガタと震え、眠気も凄くて、必死にまぶたを開けなくてはならない状態でした。総合病院で帝
もう本当に大失態。今まで、ずっと安静に努めて生活してきたのに。完全に、私の不注意です。一昨日の昼、自宅リビングでソファから前のめりに転倒してしまいました。その日、私はひとりで過ごしていて、昼食後に温かいお茶を飲むため、マグカップにお茶を入れてリビングを移動していました。ちょうどテレビがついており、私がそちらに注意を向けていたのがいけなかったのだと思います。テレビを見ながら、マグカップ片手にソファへ腰掛けたところ、ソファのクッションが少しずれており、座り方が浅くなってしまいました。バ
朝になりました。まだまだ、うとうとしていました。夜間だったか朝だったか、どこかの部屋から赤ちゃんの泣き声が聞こえました。一瞬、隣の部屋にいるよんちゃんが生き返ったんじゃないかと思いました。そんなはず、絶対にありえないのに。看護師から、朝ごはんが食べれると言われました。ちょっとだけ喜びました。以前は、術後2日目からしか食べれなかったからです。悲しみは続いていましたが、ずっとベッドで寝たきりよりマシです。朝には輸血も終わり、先生の回診を経て久しぶりの食事でした。食事を終えたらよう
月明かりの眩しい夜でした。便意に似た腹痛で目を覚ましました。時計を見ると3時ちょっと前でした。4度目の出産。帝王切開の予定日から10数日前でした。なんとなく、今回は先に陣痛がきてしまう予感はありました。幼い子ども3人の相手でゆっくりする間などなかったからです。今までより、張ることも多かったです。でも、安静にすれば治まる、その程度の張りでした。検診時に先生にも診てもらったこともありましたが、子宮口もしっかりしまっていて問題ありませんでした。その他のエコーや検査も問題ありませんで
息苦しくて、頭の中はふわふわとしたままでよく眠れないまま迎えた翌朝。旦那は小さな簡易ベッドを借りて付き添いとして隣で見守ってくれていた。「○○さん、おはようございます!今日担当のSとTです。採血しますね」この日、私を担当してくれる30代くらいの2人の助産師さんが明るく病室に入ってきた。採血や検温、悪露交換や点滴交換を2人でテキパキと行ってくれる。私はやはり、されるがままだ。「お母さん、頑張ったね」「昨日、赤ちゃんに会えました?」「身体の感じはどう?」「痛みは我
午前5時過ぎ、救急病院に到着しました。バタバタと担架で担ぎ込まれます。担架で運ばれる最中、看護師から「PCRしますね」と言われました。私は、運ばれながら鼻に綿棒を差し込まれました。私の周りを医師や看護師が走り回ります。口々に「緊急です。急いで!」と言っています。こんなにも緊急なのか。ただただ、呆然と見ていました。緊急です、緊急です…看護師がバタバタと手術の準備を進めます。一緒に来てくれたかかりつけの先生と救急病院の先生が「エコー!」と言いました。看護師からエコーを受け取り、
御列席の皆様。本日は貴重なお時間を取って頂き、私たちのパーティに足を運んで下さりありがとうございます。私たちの結婚に際し、沢山の方が喜び、心を寄せて下さった方に心から感謝致します。今回の披露パーティのテーマでもあるターニングポイント。それを象徴するのが10年前の出来事でした。私とっては人生最大のピンチ。今までに味わったことのない喪失感と孤独感、自責に苛まれ”これは何の仕打ちなんや?!””こんなに一生懸命生きてるのに何でこんな想いをせなあかんの?!”そんな想いで当時を過ごし
よんちゃんとお別れした日から、900日が過ぎた。私は、スマホにカウントダウンのアプリを入れている。この日だけは、消したくない。ずっと残して、心に刻み続けていきたい。私の人生が、大きく変わった日。私が、変わった日。900日だって。900日前まで、お腹の中で生きていたんだって。あの日からずっと、悲しみと共に生きている。よんちゃんと共に、生きている。よんちゃんの2回目のお誕生日を過ぎたころ。私たち家族の元に待ち人がやって来ました。ずっと、ずっと、待っていた。ありがたいことに、
今回の妊娠、出産を経て分かった私の子宮の状態。担当医の先生が開腹して確認した結果。これ以上の妊娠は危険だとの指摘を受けた。子宮の上側は薄く、下側は硬く。きっと、下側は何度も切っているから、治癒する度に硬くなっていったのだと思う。子宮は付近の様々な臓器と癒着もしていた。膀胱と癒着し、筋膜とも癒着していて、執刀した担当医は癒着部分の区別が難しく、筋膜を誤って損傷したと話していた。癒着に関しては、個人差があることも知っている。しかしながら私は、元々の体質としては癒着もし難い方だと思って
読んで下さる方、いいね!して下さる方、フォローして下さる方、ありがとうございます3.11『産科医療補償制度【結果】』ついに、3月9日に届いた産科医療補償制度の審査結果通知書を開封しました。結果は『補償対象』となりました正直な感想は、ただただビックリですそして、色々と大変だった申請を思い返して報われた気分と、娘にもっとお金をかけてあげる事が出来る事への安堵ですリハビリに通っている発達センターの先生には『歩けるから多分ムリかな?』みたいな反応をされていましたし、最初の頃に診ていただ
夜、いつもと変わらず布団に入る。横になると肋骨の下あたりに胎動を感じた。これもいつものこと。「あ、赤ちゃん活動中だ」「起きてるんだね(笑)パパママもう寝るよ〜」旦那と一緒にお腹をなでて、赤ちゃんに話しかけてから眠りについた。-----------------------------午前3時半すぎ。ふと目が覚めると、左下腹部に少し違和感を覚えた。感覚的には卵巣の位置あたりに鈍い痛みがあるような気がする。お腹はとくに張っておらず、我慢できるかすかな痛みだったためトイレに
入院2日目に赤ちゃんと対面してからはずっと病室に赤ちゃんを居させてもらった。たくさん話しかけた。私の体調はというと2リットル以上の出血があったため貧血がひどかったものの鉄剤の注射を毎日打ってもらうことで順調に回復してきていた。そのおかげで、入院4日目に外出許可がもらえた。外出許可願いの用紙に記入した。「外出の理由:火葬同行のため」。もう、お別れしなければいけない。心の準備なんてする間もない。悲しいタイムリミットが訪れた。新生児を連れた他の家族たちが笑顔で正面玄関か
妊娠37週目にして、私は常位胎盤早期剥離により大事な大事な我が子を亡くしました。いろいろと調べたところ、常位胎盤早期剥離の既往歴があると次回妊娠時に再発しやすいとのこと。私や夫としては、やっぱり子どもをもうひとり育てたい。でも、怖い。そんな思いでずっと葛藤していました。出産前、私は今回が最後の妊娠だからと卵管切除も検討していました。でも、健康な子宮の一部を失うのはなんだか悲しくて。助産師さんに相談したら「迷うくらいならしない方がいいよ。今はミレーナとか避妊方法もいろいろあるから!」
「自力でトイレに行く」という目標を達成し看護師さんにお礼を伝え、ベッドに戻る。歩けたとはいえ、へっぴり腰だけど。このとき初めて自分の居る病室を見渡せた。こんな部屋にいたんだ。旦那はこんな狭いベッドで寝てたんだ。私はほんとに何も見えてなかったんだ。「○○が元気になってよかった」戻ってきて横になった私に向かって、父がぽつりと呟いた。「生きていてくれて、ありがとう」母はその横で、涙目で鼻をすすっていた。その瞬間、私の目からも涙があふれ出して嗚咽が止まらなかった。「泣け、泣
実は、よんちゃんのお父さんは医療従事者です。周産期医療センターも入っている大きな病院に勤めています。夫は、同僚である医療従事者の方に、よんちゃんが常位胎盤早期剥離で亡くなったことを伝えていました。その中には、産婦人科やNICUで働く看護師さん達が何人もいたそうです。そして、その方達はだいたい「えー!早剥!!早剥はねぇ…」という感じで、言葉を失う。夫の勤めている病院では、年に4、5件くらい、常位胎盤早期剥離があるそうです。この症状を訴える妊婦の受診があると、医療スタッフも軽くパニッ
よんちゃんを常位胎盤早期剥離で亡くしてから、ずっとずっと考えていた問題。いったい、あとどれくらい早くいけばあの子は助かったのか。ネットや本、同じように辛い経験をされた方の体験記等をたくさん読みました。私はお医者さんでも医療従事者でもなんでもありません。ただの一経験者です。だからこれが本当なのかも分からないし、程度によって個人差があると思います。でも、私が感じた感覚として…『腹痛を訴えてから分娩までの経過時間』○約1時間後に出生で脳性まひという方を拝見しました。お辛かったと思いま
夫とは10年ほど前に出会いました。結婚してからずっと、子どもは4人欲しいねと話していました。それから男の子、女の子、女の子…と、トントン生まれ、最後はまた男の子を妊娠しました。第1子の長男は、とても大喜びでした。一緒に妊娠週数を数えたり、お腹に話しかけたりしていました。生まれたら何をしたいとか話していました。ちょうど今年度は長男の小学校進学の年でもありました。育休で家にいれることもありがたかったです。家族や親戚一同、大喜びの妊娠でした。子ども達も毎日、お腹の赤ちゃんに声をかけ
子ども達4人を乗せた賑やかな車が、我が家に到着しました。よんちゃんのお骨が眠る、我が家に。夫が、赤ちゃんを連れて自宅に入りました。その周りを3人の子ども達がまとわりついていました。私は、少しの荷物を抱えてゆっくりと自宅に入りました。久しぶりの自宅。10日前に、大きなお腹で自宅を出た。あの時、お腹の中にいた赤ちゃんは、今、私たち家族に抱かれている。よんちゃんの時は、妊娠37週でお別れしたから。最後の最後まで、不安で不安でたまらなかった。だから、本当に、良かった。そう思い、久し
外出から帰宅すると、ポストに郵便物が届いていました。なんだか、嫌な予感がします。封筒には「妊娠、出産…」の文字。あぁ、妊娠中、たくさんプレママプレゼント応募したもんなぁ。また届いたか。と、思いながら開封しました。今回は「当選おめでとうございます!!」として、粉ミルクの試供品と共にスタジオアリスの無料券が入っていましたよ。こういう時に限ってなぁ…当選するんだもん。粉ミルクはカレーにでも入れるとして。私には、よんちゃんと同時期に妊娠したいとこがいます。でも、彼女は妊娠初期に流産