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今回は演習廠舎を紹介します。まずは地図で場所を確認します。明治42年(1909年)、現在の美東町長登に1個大隊(数百人)が宿泊できる設備として演習廠舎が設けられ、大正3年(1914年)には増築して兵舎を完備しました。昭和20年(1945年)の終戦後、廠舎の建物は畜舎や校舎として払い下げられたり、入植者の住居として改造されたりしましたが、演習廠舎の場所には、境界標石やレンガ・コンクリートの残骸が今でも残っています。戦後米軍が撮影した空中写真に、横長の廠舎が何棟も並んでいるのが見
今日は知り合いの知り合いが良いところがあるよということで、美祢市のホテル天宿の杜「桂月(カゲツ)」に泊まりますこんなところにこんな素敵なホテルがあったなんて!!!趣もあります外観も綺麗なのですが、カメやら壺やら小物も素敵です🏺いつもは日帰り入浴もあるそうですが、今はリニューアル中ということでお休みです中に入ると竹が美しい中庭が目に飛び込んできました日本画や掛け軸などもあちこちにあり、入って右奥には高そうなスピーカーやウーハーのセットもあります早速、中庭に出てみましたくつろげそう
山口県美祢市オールハンドリンパ&エステCuon(クオン)エステティシャン村田智美です。メニュー|アクセス|施術例エルモサハーブ|HP|ご予約状況ご予約・お問合せは記事下のLINE・フォームからどうぞ♡▶お電話でのお問合せの前にこちらをご確認ください▶︎ご予約の前によくあるご質問ブログをご覧いただきありがとうございます昨日発売となりましたエルモサプレミアムBOX化粧水・美容液・クリームのスキンケア3品に高濃度炭酸泡
秋吉台は美祢市中・東部に広がる日本最大級のカルスト台地です。現在は国定公園となっていますが、明治時代から大東亜戦争終戦の昭和20年8月まで、旧日本陸軍が戦闘訓練の演習場として利用していました。ではまずは歴史から。陸軍が秋吉台上を使用し始めたのは明治18年(1885年)と言われています。最初に広島野戦砲兵隊が、明治22年(1889年)には下関要塞砲兵連隊が実弾射撃場として使用し、明治32年(1899年)ごろから山口歩兵第42連隊が戦闘訓練の演習を開始しました。明治42年(1909年)
滝口地区を歩いた後西嶺炭鉱があった位置へと向かうが、現在産業廃棄処理場かなにかになっているようだった。仕方なく旧大平炭鉱跡に向かう。現在は山中になり奥まった所で採炭をしていたとりあえずバイクで行けるところまで奥へ行く。バイクが進めない所まで来ればそこからは徒歩で歩いて行く。少し登れば、ボタ山がある、ここで間違いないないようだ。雰囲気としては櫨ヶ谷に似ている。周辺を歩く、レールで柵をしていたような痕跡がある。確かトラックで搬送していたと聞いたのだが…しかし
今日和おとといには、わたしは記事でこう書きました。何か諦めのつくようなほどの最高の出来事とは、無限進化とも思える時間の尺度の中では、何度も出会うし、最後になるような体験はない。人生や時代の中で、体験しうるその時点での最高は実は何度もある。絶対的に最高の到達点ということが起こりそうで起こり得ないからこそ、求めて、高みへと昇ることが可能なんだ。のように書きました。そして記事を書いた翌日となる昨日にわたしは確かな最高の体験をすることになった。その氣付きを書いてみたい。最高の
美祢市旧炭鉱跡調査はこの地区の炭鉱で働いていた方に早くも遺構の存在を知らされた。しかし何も無くなっていたとしてもその場所を歩いてみようと思う。最初に旧滝口炭鉱、採炭をしていた場所は更地となっている。裏へ回れば、ボタが微かに残る。ボタ山の斜面に猿が群れでいたのには驚いた…ボタ山を回り込むと霊園があるのだがここには別の炭鉱が操業していた。確かに、昭和50年代の航空写真には2つにわかれているように見える。土砂で囲まれた火薬庫らしき建物も見えるが、その建物は残っていなか