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所在地〒799-0301愛媛県四国中央市新宮町馬立特徴土佐藩主が参勤交代の際に宿泊した本陣で、馬立河畔に立派な石垣が現存する。しかし、個人所有なので内部の見学はできない。感想土佐藩としては国外になるし山中でもあるので、かなり防御を重視した造りになっている。
①岡田以蔵の逮捕「人斬り以蔵」と畏れられた以蔵は、文久3年(1863)2月、突然土佐藩を脱藩し、京都長州藩邸の寄寓して、高杉晋作の庇護を受ける。(江戸の長州藩邸の説もあり)文久3年2月頃より再び坂本龍馬と交流を持ち、以蔵の将来を心配した龍馬の依頼で3月に伏見で勝海舟の護衛を任せているそのとき以蔵は、勝海舟を襲撃した3人の刺客から勝を守り、さらに、勝の命令で、ジョン万次郎を護衛し、6人の襲撃者を撃退したという。勝海舟や龍馬の思いに応えた以蔵は、天誅という名目の暗殺を禁じた。しか
いろは丸。それはかの坂本龍馬が結成した海援隊に所属した船。特に「いろは丸事件」の名で有名だろう。坂本龍馬の33年【歴史読本クロニクル】Amazon(アマゾン)1〜1,200円いろは丸事件といえば、龍馬死亡の7ヶ月前、慶応3(1867)年4月23日に、紀州船(紀伊藩のフネ)「明光丸」と衝突、一度衝突したが、なんと二度目が起きる。明光丸の巨体が右舷に突っ込む形だったが、これが引き離そうとしたら逆にまたぶつかったのである…その為二隻離れた後もいろは丸は航行しようとしたが結局沈
元旦に坂本龍馬とその関連の志士や幕末史跡について、宇和島市中心街を丸一日かけて回遊して巡ったことは以前述べた。龍馬が文久元年初頭、宇和島城下を訪れた際の滞在所は町会所の二階であり、そこは高野長英も家老・桜田佐渡の別邸を借り受けるまでの間、滞在していた場所でもある。龍馬の宇和島短期脱藩説については、これまで何度も記事を投稿しているため、当ブログを開設当初からご覧の方は、その詳細を把握しているものと思うが、再度、その概要を解説する。まず、龍馬が文久元年、宇和島城下を訪れ、土居通夫や児島惟