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いつも読んでいただきありがとうございます。前回の続きです。送迎車で宿に向かいます。船の最終便が出た後の竹富島は観光客もほぼおらず、静かな感じでした。この日宿泊するのは、高那旅館です。竹富島には4、5回来ていますが、竹富島で宿泊するのは初めてです。まずは、シークワーサージュースとサーターアンダギーでおもてなしです。部屋はこちらです。夕食は18時からとのことでしたので、部屋に荷物を置いてすぐに食事会場に向かいました。この日、宿泊していたのは筆者を含め
読書の秋に再読坂の上の雲司馬遼太郎の「坂の上の雲」…飛ばし読みながらも何回目かを読了した主人公の秋山真之のファンですが…似通った立場にあった佐藤鉄太郎の挿話から学ぶものを感じます5年前の日記の再掲です佐藤鉄太郎佐藤鉄太郎は日本海海戦において第二艦隊の参謀を務めた。秋山真之と並んで天才と言われた。二人は出羽庄内藩と伊予松山藩出身であり、戊辰戦争時には佐幕派であった。一方では…佐藤の属した第二艦隊司令長官は上村彦之亟、秋山の属する第一艦隊司令長官/同時
その昔、ケーブルテレビを繋いでいた頃。頻繁に見ていたのが時代劇専門チャンネル。そして、私が幕末ものを好きになったのは司馬遼太郎さん原作の『新撰組血風録』(1965年〜66年NET/東映京都)を観たからなのだ。そこで、土方歳三を演じていたのが、栗塚旭さん!大きな目に凛とした雰囲気、大袈裟な感情を出さない男臭い演技(普段はお姉言葉をよく使っていたそうだが)。もうぴったりのハマり役であった。(写真はネットからお借りしました)その後、ほぼ同じキャストで作られた『燃えよ剣」(1970年NET
・書名:シン・関ヶ原・著者:高橋陽介・出版社:講談社(講談社現代新書)この本を読み終えた夜、私は机の前でしばらく手を組んでいた。歴史というものは、まっすぐに立っているようでいて、実のところ少しずつ風に押され、気づけば斜めに傾いている木のようなものではないか。そんな感慨が胸の内に湧いてきたからである。著者は、関ヶ原という大きな合戦を、いわばそっと横合いから覗き込む。その視線の冷静さが、私の心をずいぶん落ち着かせもしたし、また不安にもさせた。なぜなら、これまで私の中で固く結びついてい
歴史小説作家・司馬遼太郎の「街道をゆく」と「坂の上の雲」を読んで、いつかは訪れてみたいと思っていた壱岐・対馬へ、3/22~4/7の17日間で車中泊しながら一人旅をしてきました。1日目は、岡山県の自宅から山口県まで移動して、道の駅「きららあじす」で車中泊2日目は、九州に入り、博多港から対馬行きフェリーに乗船2日目(3/23)は、山口県の道の駅「きららあじす」を出発して、福岡県田川郡の道の駅「香春(かわら)」で昼食、道の駅「いとだ」に寄って、糟屋郡篠栗町の人工温泉「オアシス篠栗」で入浴
「桜田門外の変」は、幕末の大老・井伊直弼が、水戸浪士らに暗殺された事件です。と言ったら、あれっ?「暗殺って、こっそり秘密裡に殺すことなんじゃないの?明るいところで、皆が観ている前で、犯人も分かってる、こういうのは暗殺とは言わないんじゃあないの?」という人がいました。ちょっと、それもそうだよなあ、という気がしてしまいました。いま映画館で、安重根が主人公の韓国映画の予告編をやってますね。歴史事典では、安重根は「伊藤博文を暗殺した人物としても知られる」となっています。衆人注視のなか白
いま手元にある司馬さんの未公開公演録の本の中に、元陸軍伍長の方からの手紙の一部が載っている。この方は満州の最前線でソ連軍と戦った経験があり、その手紙文はそのときのことを書いている。おそらく小松原師団長が、日本の兵隊さんは強いから何とかなる、と言っていた兵隊さんの実相の一つがこれであろう。我が分隊十八名の所持する兵器と言えば、役立たずの照空灯・聴音機・発電自動車の外には、明治三八年式の小銃六丁に拳銃一丁、それに各自の銃剣だけ、おまけに小銃弾は一発も有りませんでした。中隊長が言うには、「お前
「この国のかたち」という司馬遼太郎のエッセイ集があるのはご存知の方も多いかもしれません。司馬遼太郎は私の好きな作家で、大学時代「坂の上の雲」を夢中になって読んだ覚えがあります。面白かったですね。司馬遼太郎には独特の歴史認識があったようで、"司馬史観"といわれているようです。それはひどく単純に言ってしまうと、昭和の日本(敗戦前)は非合理で精神主義であり、暗い時代だったというものであり、その一方で明治時代は近代国家を目指して合理主義を基調とした、活力のある明るい時代だったというものです。敗
歴史小説作家・司馬遼太郎の「街道をゆく」と「坂の上の雲」を読んで、いつかは訪れてみたいと思っていた壱岐・対馬へ、3/22~4/7の17日間で車中泊しながら一人旅をしてきました。1日目は、岡山県の自宅から山口県まで移動して、道の駅「きららあじす」で車中泊2日目は、九州に入り、博多港から対馬行きフェリーに乗船3日目は、対馬・厳原中心部を観光して対馬グリーンパークで車中泊4日目は、対馬・中央部の古墳、神社、遣唐使・日露戦争の史跡を見学して対馬グリーンパークで連泊4日目(3/25)は、
まずは「べらぼう」の話ですが。「唐丸」と「捨吉」の、特に絵を描く姿勢が同じ、というのは、なんか、ぐっとくるものがあります。これさあ、染谷将太さんのほうが、唐丸の仕草を観てコピーした、ってことですよね。なんか、この姿勢を観ただけで「あ、唐丸だ!」って分かる、ぐっとくる場面です。染谷将太さん、天才なのにどこか子供っぽい、って役をやらせると天下一品です。かつては「空海」とか、「なつぞら」アニメ編で宮崎駿さん(にあたる役)とか。「聖おにいさん」のブッダ、「バクマン」の新妻エイジ、とか。あ、そう
大ファンの映画俳優、栗塚旭さんの訃報を2025年9月13日の朝日新聞で知り、驚きました。<2025年9月13日(土)朝日新聞・朝刊より>昭和40年、私が高校生の頃、東映京都テレビプロダクション・NET(現テレビ朝日)制作のTV映画「新選組血風録」の大ファンで、全26話をリアルタイムで観ていました。「新選組血風録」はモノクロ作品のためか再放送もされず、やっと東映からβⅡ(ベータ・マックス)のビデオテープが発売されました。SONYのβⅡご存知でしょうか?2話分収録で9800円と高価でした
1.スペシャルドラマ「坂の上の雲」再放送昨年9月よりNHK総合でスペシャルドラマ「坂の上の雲」を再放送している。これは、2009年から2011年と3年かけて1話90分全13回で放送された大作のテレビドラマだ。司馬遼太郎による「坂の上の雲」を原作としている。これは1968年(昭和43年)から4年にわたり産経新聞で連載されたものである。今回の再放送は、本来は90分13回であったものを、NHK総合では1話あたり45分に再編集したものを全26回で放送している。ちなみに90分版もBSで再放送された
「関ヶ原の戦い」と言われますが、実は戦闘は東北から九州まで、全国各地で起きています。伊達政宗も上杉景勝も黒田如水も、それぞれの場所で(それぞれの思惑で)戦っています。毛利輝元だって、関ヶ原にこそ来なかったものの、毛利軍は西国方面で結構積極的に動いています。輝元が「天下を取りに来ていた」のは事実です。王将が無闇に前線に出るのはヘボ将棋です。毛利輝元が大坂城にどっしり構えて、全国の戦闘を指揮しようと考えていたとすれば、さほど理に合わないことではないでしょう。関ヶ原が「決戦場」になるというのは、
先週、今週と比較的早く仕事が終えられ、「ホットスポット」と「坂の上の雲」両方を月曜に観られ、悩み解消「坂の上の雲」の方は熱い「旅順総攻撃」前後編でしたが、通常の3倍(ドラマとしても)熱かったので記録を。前編では山口馬木也さん登場!「侍タイムスリッパー」で過去主演作を調べたときに見かけていたのですが全く記憶になく、岩村某が海軍士官とのことでどこで出てくるか待ち構えていたのでした。海軍から旅順の陸軍に督戦に来ている士官でした。船に乗っている海軍さんとも陸軍とも違う制服がオシャ
「無識の指揮官は殺人犯なり」―この言葉は、日露戦争で活躍した日本海軍の秋山真之が後輩たちに向けて語った言葉です。今BSで「坂の上の雲」が再放送されていまして、久しぶりに思い出しました。秋山真之は、日本海海戦で連合艦隊を率いてバルチック艦隊を破り、勝利を導いた名参謀としてご存じの方も多いと思います。彼は戦場では指揮官の判断が部下の命を左右する。だからこそ「上官の無知や準備不足で判断を誤ることは、殺人と同じだ」と厳しく教えたと言われています。私がはじめて店長を任された時に「自分にも当てはまめ
ある程度の頻度で「させていただきますはおかしい」と指摘する文章が出てくるのですが、我々門徒(浄土真宗の信者)にとっては非常に悩ましい話です。「他力本願はいけない」発言と同じぐらい悩ましい。「~させていただきます。」というのはただ単に丁寧過ぎるという表現ではなく、これは近江商人の言葉であり、従って門徒の考えに基づく言い方なのです。そんなことはちょっと調べればわかるのに、なぜ何度も「させていただきますはおかしい。」という文章がネットに溢れてくるのでしょうか。頻繁に出てくるので本当に辟易します。語
大谷吉継(おおたによしつぐ)という戦国武将をご存知でしょうか。ドラマでは大谷刑部(おおたにぎょうぶ)とよばれたりもしますが、これは豊臣秀吉が関白に任ぜられたあと、各奉行職をさだめたときに、彼は司法を司る刑部省に出仕し、刑部少輔に任ぜられたことからこの名前がつきました。石田三成が儀礼全般を管轄する治部省につとめ、治部少輔と呼ばれたのと同じです。大谷吉継は1565年に近江国に生まれ、母親の縁故から豊臣秀吉の小姓となり、賤ケ岳の戦いや紀州征伐などで戦功をあげ、1589年に秀吉から越前国敦賀に所