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白昼の王宮で、迂達赤達の目の前で、イムジャと抱き合ってしまった。イムジャに落ちていた、ほんの少しの影……故に、部下達の手前、焦りと驚きはしたが、俺としては何とも嬉しく……愛しい温もりが己が腕に有る幸せを感じていた。溢れるようにご自分の想いを口にされたイムジャだが、その後は特に何もおっしゃらなかった。ただ、曇が晴れたようなお顔で、「じゃあ、典医寺に戻るわ。終わったら迎えに来てね」と言って、後を追ってきたテマンと連れ立って、来た道をまた駆けて行かれた。何を抱えておられたのか……つまりは、
「久しぶりだな。チェ・ヨン。皇后様と長々と……一体何の話をしていたのだ?」気になるではないか。薄笑いを浮かべて、俺の前に悠々と現れた男。——徳興君。今まで生きてきた中で、最も嫌いな顔は師の命を踏みにじったあの鬼畜王だった。この男に会うまでは。「……二度と会わぬ事を願っていたものを」そう絞り出した俺に、それはお互い様だ。そう言って奴が続ける。「私とて会いたくはなかったが……其方が大都へ来ると聞いた故に、労いの言葉くらい掛けておこうかと思ってな。元国の為にご苦労だったな。護軍
「——鴨緑江(アムノッカン)、とな」少しの沈黙の後、額ずいたたままの俺の前を、王様が静かに行き来する。「確かに鴨緑江は元に奪われて久しい。取り戻すは余の宿願でもある。征東行省を取り押さえた故、いずれ元とは戦になろう。国境の守りは固めねばならぬが……」「——彼の地には天門がございます。王様」王様が小さく息を飲むのがわかった。俺は顔を上げ、竜顔を仰いだ。「テジャン…まさか医仙は……」「天門を潜り、天界へ帰られたものと」「それは…確かなのか?」「見た訳ではございませんが、おそらく」
ジテの日誌の何冊目か——俺は目を奪われる記述に出会った。都から北の領地に戻ったジテが、懇意にしていた寺を訪れた折。そこでジテは、驚きの光景を目にする。荷車に轢かれ負傷した少年を、ある女人が治療する、というくだり。『……その女人は世にも稀有な道具を使い、少年の傷を縫い止めていた。痛みに喘ぐ少年を、大人数人がかりで押さえ込むのへ、叱咤激励しながら治療を終える。その医術は素晴らしく、都にもこれ程の医員はいないと思われる。そしてその姿形の美しさ。このように美しい女人を、我は見た事がなか
鍛錬場で野太い声を上げ、迂達赤(ウダルチ)の新人達が打ち込みの地稽古をしている。それをテジャンと並んで眺めながら、俺は内心この上なく安堵していた。ようやくテジャンが元国より戻られた。テジャンの耳に入ったら「お前がそんな事でどうする」とお叱りを受けるだろうが、王様を守る迂達赤(ウダルチ)、その隊長の留守を預かるのは……副隊長として情けない事ではあるが、ともかく、テジャンが無事戻られた事が嬉しくてならない。だが、現状を楽観視は出来ない。元の支配下からの離脱。その足掛かりとして、王様は本格
この方の仕出かした事に腹を立てていないと言えば、それは嘘になる。何故、俺に本当の事を言わなかった。何故、俺を救う為にご自分を天に差し出した。例え奇跡のように全てが上手く行ったとしても、俺が能天気にそれを享受出来る訳が無いと…何故、考えて下さらなかった。ただそれを上回る程の、有り難いと思う気持ちと詫びたい気持ちもある。だからこそ、今俺がこの方に伝えたい想いはそんなものじゃ無い。「貴女は、愚か者です」俺のその言葉を聞いたイムジャは、弾かれたように顔を上げ、大きく目を見開いた。「…え?
「妻も高麗の民、か。確かに一理あるが……大護軍はその、国防も国の繁栄も、全て妻の為だと?」「そうです」あっさり答えた俺に、セクの目が行き場なく泳いだ。——セクよ。あの男だけは敵に回すものではないな。何と厄介な夫婦が出来上がったものか……あの日ジェヒョンがそう溢していたと、後々セクが笑って語った。............................................................ようやく家に戻った俺は、出迎えのギチョンにイムジャの様子を尋ねた。テ
——イムジャが戻られたら。俺の為に大変なご苦労をされたあの方を、どうお迎えしたら、俺の気は済むのだろう。欲しい物は何でも買って差し上げたい。食べたい物は何でも食べさせて、酒も呑みたいだけ……いや、酒は俺が一緒の時に、程々に呑んでいただく。とにかく、あの方が笑顔になる事なら、俺は何でもしよう。そして、あの方の無事を確かめて、共に都へ戻ったら王様に願い出るのだ。イムジャを妻に迎える事を。その為の準備は進めてきた。後は、あの方のお戻りを待つばかり……そう思い定めて、約束の樹の下で待
『サイコ!人殺し!殺してやる!』他人に投げかけるにはあまりにも恐ろしい言葉と、硬い刀の柄から伝わる、柔らかな肉を真っ直ぐに差し貫く感触。既視感にしては生々しく物騒過ぎるそれらが、私の身に蘇る。むせ返るような濃い血の匂いと合わさって、まるで目の前にあの人が倒れているような錯覚に襲われた。言葉にならない悲鳴のような声が口を突いて出てきそうになって、私は自分のものとは思えないほど冷たく震える手で口を覆う。「兄様!お願いだから目を開けて…お願い…」ついに泣き崩れたウネさんを片手で抱き止めて、
化粧水や石鹸作りが終わるとウンスはヨンから贈られた硯箱をだして紙問屋で購入した大中小のそれぞれの紙でカレンダーを作り始めた国境で一月分作っていたのをベースにとりあえず年末までの分を自分用には算用数字で周りに渡す分は漢数字でそれぞれ作り大きい一部をマンボ姐に渡して暦の見方を説明した「これは天界の暦よとりあえず天界の年末までを作ったわここが秋夕よ旧暦の…高麗の八月十五日ね秋夕から十六日で今日はここ私がこの高麗に戻ってきて十八日目だわ
私が今まで何処で何をしていたか。『医仙は天界人で華陀の弟子』ソン・ユに難癖つけられた時に、一度は王様が、天界なんて無い、って宣言してたけど……そもそも、チョ・イルシンが自信満々で触れ回っていたから、今でもそれを信じている人がほとんどだと聞いた。だから、それをそのまま使わせてもらう——私は、居並ぶオジ様達へ、じ…と、視線を移しながら口を開いた。「私はもともと高麗の人間ではありません。皆さんは、私が何処から来たか、ご存知ですよね?」「天界、でございますか?」「はい。皆さんにそう呼ばれ
『今のソンゲは、真っ直ぐで邪気も害も無い男です。あまり嫌わないでやってください』……なんてヨンは言ったけど。確かにあの満開の笑顔は、眩しくて裏なんか微塵も見えなくて……でも、イ・ソンゲよ。あの、イ・ソンゲ!高麗を滅ぼし李氏朝鮮を開いた、誰でも知ってる偉人なのよ。そして、歴史に名を残す大将軍、チェ・ヨンを処刑した人物なの——歴史に疎い私だって、それくらいは知ってたわ。だから高麗へ来て、ヨンがあの“チェ・ヨン将軍”で、あの子が…私が盲腸の手術をして命を救ったのが、あのイ・ソンゲだと知っ
「ヨンア、少しいいかい」七日ぶりに王宮に帰還した俺が、宣仁殿の回廊を通り抜けようとしていた時だった。両手を後ろ手に組んだ年嵩の女官が、死角からのそりと姿を現した。「叔母さん、話があるなら後にしてくれ。今から王様にご報告に上がらねばならん」帰り着いたばかりで未だ身支度も整えておらず、道草を食っていては今日中に報告は終わるまい。するとチェ尚宮は、まるで哀れなものを見るかのような目付きを俺に寄越して、態とらしく大きな溜息をついてみせる。「何だ」甥相手とはいえ余りな態度に、流石に黙殺は出来
まずいと思いながらも、俺はイムジャの左手首を掴んだまま強引に迂達赤兵舎へと引き入れた。二階にあるこの方の部屋の前まで行き、そこでようやく後ろを振り返る。肩で息をするこの方の顔を覗き込むと、しばらく俺の目を探るようにじっと見つめていたかと思えば、慌ててその目線が外された。(まただ。この間と同じ反応だな…)その結果、以前のこの方の不審な態度は、俺が無体を働いた所為では無いらしいと分かって、安堵の息が口を衝く。「あの、チェ・ヨンさん。私…」だが危うい状況に変わりは無く、俺はこの方を部屋の中
サンユンが宿の警護を確認し報告のためヨンのもとに行くと手裏房やウンスと遅い夕餉中だったウンス殿は楽しそうに酒を飲んでおられるな大護軍は心配気に見ているがいくら王様の客人とはいえ何時襲撃があるやも知れぬ状況でよく大護軍が酒を許したものだしかも敵が狙っているのはどうやらこのウンス殿らしいではないかサンユンの顔を見たヨンは食堂の端にきて報告を受けたがその目はずっとウンスを追っていた天真爛漫なこの女人が実は思慮深く聡明なことはマン
メヒの名前が……まさかこの方の口から出てくるとは——大層長く感じられたが、おそらくはひと息くらいのものだったのだろう——俺は固まったまま、返す言葉が見つからず、ただ呆然とイムジャを見つめていた。イムジャが何故メヒの事を……何故今イムジャが……俺の中で、易くは思い至らない事態に、イムジャがさらに問う。「メヒさんのお墓よ。安州にあるって、テマンくんに聞いたわ。遠いの?」「いいえ、さほど……」そして、その続きが出てこない俺に、眉根をさげて「……私が行っちゃ…ダメ、
“私以外に妻は居ない”“私だけが欲しい”妻になってくれ、と———そう、この人は言ってくれた。第二夫人って何、第一は何処に居るのよ、調べたんだからね、って泣き喚いた私に、困り顔で、真っ直ぐに、嘘の無い瞳をして。わかってる。わかってるのよ、私だって。ヨンの気持ちを疑った事なんて無いわ。……………ごめん。ほんのちょっと……ちょっとだけ、あった…かな?疑った、というか、不安に思っただけよ。離れてしまって、いつまた会えるかもわからない中だったから。私のヨンへの気持ちは本物よ。それだけ
開京を出て、チェ家の本貫である鉄原(チョルオン)へ———。警戒に警戒を重ねながらの道中だったが、何事も無く、俺達一行は、無事鉄原へ到着した。ただ———街の入り口には人だかり。(俺の嫁取りを、歓迎してくれているらしい……)寺までの道すがらも、決して多くはない街の者達が、総出ではないかという程に、両脇に溜まっている。(少しは名の売れた、俺の嫁取りを歓迎して……)「こんなに人が集まっちまったら、怪しい奴が紛れててもわかんねぇよ!」護衛に加わっていたジホがボヤくのへ、「分家の皆様には、
王妃にセレブ化粧水を渡そうと坤成殿を訪れたウンスは王妃が康安殿にいる事を聞き出直そうかと迷っていたでもお二人揃っているところで高麗でできる不妊治療のことお話した方がいいかしらアンドチさんと叔母様にも一緒に聞いてもらった方がいいわね思い立ったらすぐに康安殿にやってきたウンスチョン宦官に取り次いでもらったのだった「王様王妃様ここまで押しかけちゃってごめんなさい…ってあらら?みなさんお揃いでなんの相談かしら?私お邪魔しち
湯殿の方から扉の閉まる音と共に、あの方の足音がひたひたと近づいて来る。廊下の突き当たり、閨室と湯殿の分岐地点に立っている俺の姿を見て、イムジャが軽く目を見開いた。「待っててくれたの?寒いのに。お湯、お先にありがとう」俺は軽く頷くだけに留め、イムジャが抱えていた荷を受け取って、閨室へと足を向ける。どうにも落ち着かず、閨で大人しく待ってなどいられなかった…そんな事をこの方に言えるはずもなく。閨室の扉をからりと開けると、火鉢で程良く温もった空気が流れ出て、自分が先程まで立ち尽くしていた廊下が
何があってもヨンの側へ戻ってくる——王妃様に見透かされ、私は自分の気持ちを、改めて思い知らされていた。「毒に侵されていた折、ご自分の命よりも大護軍の心配をされていた、と、チェ尚宮から聞きました。そんな医仙であれば、高麗がどうなろうと、大護軍の側にいたいと思うのでは……違いますか?医仙」「ウンスャ、其方……」王妃様と叔母様、両方から見つめられ、私は息を飲みつつ、なんとか口を開く。「あの時は……天界へ帰ったら解毒出来て命は助かる。でも、二度とあの人には会えなくなる。だから帰らないって言って
「オンニ私当分の間オンニの警護をするよう大護軍に頼まれたわ」「ほんと!?うれしいジウォナよろしくね」ウンスはジウォンを抱きしめ喜んだマンボ兄妹に百年前のシンとの縁を話すと二人は驚いていたが「これも手裏房との縁さねシンが兄でジウォンが妹ペクは親友だっていってるし天女はうちらの娘みたいなもんだよ」「そうだな此処は高麗での天女の実家だな」マンボ兄妹の温かい言葉に励まされウンスは笑顔を見せた
「申し訳ありません、医仙様。ただ今大護軍は王様に謁見中です。終わり次第合議の予定が入っておりますので、お待ちになられても徒労になってしまうかと…」迂達赤兵営に辿り着く直前に、偶然出会ったチュンソクさんから律儀に頭を下げられ、私は胸の前で大きく両手を振った。「そんな…約束もしていないのに、忙しいあの人に時間を割いて欲しいって言う私の方が悪いんです。また出直しますね」「何か大護軍へ言伝があれば承ります」踵を返した私に、慌てたようにチュンソクさんが尋ねてくれるけれど、あの人に確かめたい内容が内
午後の鍛錬から兵営に戻った乙組隊員らは郡守のひと騒動があったことを聞き宴に参加するか悩んでいた大護軍は本来なら迂達赤を参加させたくないようで組頭たる自分が参加するのはよくないだろうそれに郡守との宴などに興味はなかったしかしユ医員が行くのならば自分も付いていきたい「組頭どうか一緒に宴に行ってもらえませんか実は先ほどの郡守は親戚筋で必ず出るよう言われたのです私一人では行きにくいので付き合ってくださいお願いします」サンユ
イムジャの口から『メヒ』という名が飛び出した事に、俺は驚きを隠せない。それは五年前に己の血肉と化し、記憶の棺に閉ざした名だった。メヒは声を立てず目で笑う娘で、仲間から相棒そして妹のような存在を経て、俺が二十二の頃には言い交わす仲になっていた。そして…最後に見た痛ましい姿を思い出せば、今でも胸がじくりと痛む。俺達二人の思い出が詰まった児手柏(こてがしわ)に愛用の鞭を掛け、メヒは自ら首を吊った。師父を殺したのは自分だ…そんな妄念に囚われていたのを、俺は知っていた筈なのに。他の仲間を逃す事
一瞬の間茫っとしたもののウンスはすぐ我に返った脳内は激しいアドレナリンラッシュで僅の間に物凄い情報と感情で溢れ烈しく消耗していたが表面上ウンスは取り繕えていた伊達に江南でクレイマー相手に渡り合ってきたわけじゃないわよポーカーフェイス偉いぞユ・ウンスつい数秒前ひとしきり脳内で自分を罵ったあとだったのですっきりしたのか今度は自分を鼓舞した目紛しく脳細胞を働かせながらウンスにとっての最後の砦自分
「みなさんお忙しい中集まっていただいてありがとうございますこれから王妃様の〝妊活〟つまり妊娠活動を支援するうえでみなさんのお力をお借りしたくて来ていただきました私は王妃様の主治医になったユ・ウンスですまだまだ不慣れで未熟者ですどうかみなさんの御力をお貸しくださいよろしくお願いします」ウンスが挨拶するとジンとジミンが好意的に頷いたもののアン内官は自分が何故呼ばれたかわかっておらず心配そうな顔をした王妃が懐妊しないなら側室を娶れ
蘇芳色の頭がゆらゆらと揺れている。俺が椅子を寄せて座り直すと、イムジャはこちらに凭れて小さな寝息を立て始めた。そんな俺達の様子を、アン・ジェが頬杖を突きながら、ぼんやりと見ている。「なあ。チェ・ヨン」「何だ」「お前…今、幸せか?」いい年をした幼馴染みの男から掛けられるには、些か面食らう内容の問いだった。「藪から棒に何だ」「良いから。聞かせろよ」付き合い切れぬと軽く往なすつもりが、アン・ジェの口調はいつに無く神妙で。(どう答えたものか…)一瞬思案するも、取り繕った言葉で応じて
——今私は闘っている。目の前のこの……紐と。「……その輪っかの中に、上から入れて掬い上げる……あ!違います、右からですよ、奥方様」「え?こうじゃないの?右からこう……」「イムジャ、まず輪の中に紐の先を入れて、あ」「うう〜。何でぇ……」「やれやれ……奥方様は見た目と違って不器用なお人ですね」「よく言われるわ……」今日のデートの記念に——私が欲しいとねだったのは、メドゥプだ。ノリゲをはじめあらゆる装飾に使われる、韓国の組紐。伝統工芸品。昔からあるのは知ってたけど、
部屋に戻るとチェ尚宮が火鉢を運び入れ炭を起こしていた「叔母…チェ尚宮様来られてたんですね」ウンスから聞き馴染みのない呼称で呼ばれ違和感を感じたチェ尚宮「寝てなくて大丈夫なのかい?まだ体調が万全でないのに其方はすぐにあちこち動き出す故王妃様も心配されておったぞ」「チェ尚宮様また迷惑かけてごめんなさい王妃様にもご心配おかけして…」「ウンスや王宮内だからと堅苦しい呼び名で呼ばなくても良いぞ」「え