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「医仙様、夜も更けました。そろそろお休みになってはいかがですか」私に宛てがわれている部屋の中央にある大きな机一杯に広げられた、千字文の教科書に始まり漢方薬に関するメモや経絡と経穴の表など。それらを横から少しづつ片付けながら、リュ・シフ侍医が心配そうな様子で声を掛けてくる。「こう毎日根を詰められていては、そのうち倒れてしまいますよ」「そうですね、でももう少しだけ…」典医寺での生活が始まって半月が経った。チェ・ヨンと面と向かって話す機会は少なくなり、かと言って全く姿を見られない訳でも無く
ヨンに頭を撫でられるのは、とても気持ちがいい……私はうっとりと瞬きしながら、大きくて優しい手の温もりと、愛しい声に耳を傾けていた。「不思議な事?」「はい。貴女の帰りを待って……俺は北へ行く度に、刻が許す限り、あの樹の下で過ごしていたのですが……元への援軍から戻る途中でした。ソン・ユの高祖父の日誌を読み、貴女が高宗の時代に居られたと確信したものの、成す術も無く……樹の下でぼんやりと、貴女の事を考えていた時です。『オディケシムニカ?(どちらにいらっしゃいますか)』と空に向かって呟いたら…
数日後、トクマンくん達が帰京したと聞いて、私は典医寺の医員を助手に伴って、迂達赤兵舎を訪れた。えい!ヤァ!鍛錬場に威勢のいい声が響いている。隊士達が素振りする間を縫い、トクマンくんが凛々しい顔つきで檄を飛ばす。「声が小さい!もっと腹に力を入れろ!」「「「イェェ!!!」」」トクマンくん……ああしてると、立派な副隊長(プジャン)ね。安州に居残りで、ヘソを曲げていたのを思い出し、私は思わず小さく吹き出した。「——あっ!医仙様っ!!」こちらに気づいて、急に少年のような表情に変わった
タムが生まれて、あっという間に半年が過ぎた。首もしっかり座ったし、離乳食もそろそろ始めようかという頃。私も、以前と同じく週3とはいかないまでも、10日に一度くらいは、王妃様の診察の為に出仕するようになっていたんだけど……実はまだ、王妃様にも王様にも、タムをお見せ出来ていなくて——お2人は、生まれたらすぐにでも会いたい、とおっしゃってくださっていたけど、臣下の子どもだもの、その為だけに参内するのも……そんな身内みたいに気安くは出来ないし。かと言って、お2人にウチ(チェ家)へ来てもらう訳にも
典医寺の門をくぐったその女人は童の如く、目に映る物全てを物珍しそうに見渡していた。明るい陽の光が蘇芳色の豊かな髪を透かし、それはさながら火の神アグニが身に纏う炎のようだ。早くその視線を自分へと引いてみたい。その声を耳にしてみたい。そんな欲に負け、無防備な姿をもう少し傍観していたいという相反する感情を押し殺し、私はその横顔へと声を掛けた。「医仙様でいらっしゃいますか」驚いてこちらを振り向いたその容貌は、まさに天人という名に相応しい美しさで、私は息をする事を暫し忘れた。(チャン・ビン。
やけに静かね。雪でも降ってるのかしら……深い眠りからゆっくり戻ってきた私の意識は、まだ浅い所でゆらゆらと揺れていた。冷え込む冬の夜の寝室。外はおそらく雪……でも、ここは温かい。背中に感じるヨンの温もり。私を抱き込む腕の重さが愛おしくて。もう少しこのまま眠っていたい……私は瞼を閉じたまま微睡んでいた。無事に息子——タムが生まれてひと月あまり。嬉しくて幸せで……そして、子育てがどれだけ大変な仕事かという事を、私はイヤという程、身に沁みて感じていた。子どもは自分のお乳を飲ませて、自分の
おれ、耳がいいんだ。お前の特技だな、自慢していいぞ、って、言われたこともある。そっか。役に立つ耳かぁ。そりゃあいいや。だけど今…うーん、今だけじゃなくて、医仙の護衛に付くようになってから、しょっちゅう……この耳が、こそばゆい事が多くて。嬉しいんだけど、困る事が増えた、っていう——御者として馬車に乗ると、医仙ひとりの時は、天界語混じりの、訳の分からない独り言が聞こえてくる。(医仙の独り言はデカいんだ…)大護軍と2人の時は、お幸せそうな、穏やかな会話と雰囲気が伝わってくる。ただ…それだけ
「おやまあ!久方振りに見る顔だねえ!」「よう、マンボ姐。元気にしてたか」相変わらずの派手な衣裳と化粧、そして更にそれらを上回る姦しい様子が、昔馴染みの店にやってきたのだと実感させてくれる。するとその後ろから師叔ものっそりと赤くなった顔を出し「ゆっくりして行けや」と、飲み掛けの盃をひょいと掲げた。店内は繁忙時を過ぎ、客がちらほらと居るものの、それももう暫くすれば立ち去るだろうという雰囲気を醸している。二人の手が空いていると見た俺は、素早く周囲を見渡し声を潜めた。「師叔、マンボ姐。この度
「へぇ〜……その、キム上護軍?アン・ジェさんの上官って言った?…居たかも。鷹揚軍の健康診断に行った時、やたら偉そうなブサ…イケメンじゃない人が」「え、貴女が診察を??」「あ〜……ううん、あの人には当たらなかったわ。他の人は…何人か診たけど」「………」「ねぇ、貴方が嫌がるのもわかるけど、私は医者なの。そんなおかしな気持ちで診察してないから安心して」「心配なのは貴女ではなく、男どものほうです。良からぬ事を考えるやも」「あらあら。困った旦那様ね」イムジャは、腰掛けた椅子ごと俺に身体を寄
「私はただ、あそこに貴方がいるってリュ・シフ侍医から聞いただけよ。あんな所で女性と抱き合ってるなんて、思わないじゃない。だいたい貴方ってば、恋人がいるならいるって言ってくれないと…手を握ったりこんな風に部屋に入ったり、しちゃダメだと思うのよ。ねえ、聞いてる?」またいつものように、心を守る為に言葉の鎧を纏う自分を止められないでいた。しかし意外にも、そんな私を見てチェ・ヨンは微笑んで見せる。今まで周りの人は皆、こんな私に辟易するか困惑するばかりだったのに、一体この人は何を思って、これ程優しい目
夜番への交代の刻限を見計らい、王宮内の歩哨の位置を確認し終えた俺は、そのまま典医寺へと足を運んだ。イムジャが居を移してから、半月余りが過ぎた。あの方の気配が迂達赤兵舎内にある事が、いつの間にか俺にとっては当たり前の事になってしまっていたらしい。同じ王宮内にいるのは理解している筈なのに、側に居ない事に改めて妙な喪失感を感じてしまう。もはや己がどの様にして、あの方無しの四年という年月を過ごしていたのか思い出せそうにない。イムジャの住まう居室は、典医寺の一番奥まった場所に位置していた。おい
往診と茶話会を終え、私はトクマンくんと連れ立って、典医寺への帰路を歩いていた。「もうすぐご婚礼ですね。本当に嬉しいです。ドンジュは護衛として着いて行くそうで……いいな〜、俺も行きたいですー!」「ダメよ。王様をお守りするのが仕事でしょ、トクマナ」「はいっ、そうです。…あ〜、でもなー、行きたいなぁ〜」そう大きく独りごちるのへ、私の頬も緩む。と、トクマンくんがゆっくり笑顔を潜めて「……皆んな生きてたら……もの凄く喜んだと思います」そう、ボソリと溢した。立ち止まった私に合わせて、トクマ
陽だまりの人【テマンside】いつからだったのかな。そもそも、いつからそこに居たのか、覚えてないくらい、いつも居たからな……大護軍に拾われてからずっと、おれは大護軍と一緒に居た。大護軍の行く所なら、どこへでも着いて行った。だから、一緒に典医寺に行けば、だいたいいつも居たんだ……トギは。トギは口がきけないけど、耳は聞こえてる。だからかな、他の女達みたいに、しつこくないし、やかましくもない。話は通じるし、余計な気を遣わなくていい。むんむんしてないし、おしろい臭くもない。邪険な目でお
イムジャを連れてマンボ兄妹の店に着いたのは、日が暮れ始めるより少し前の刻限だった。丁度客の入りが少ない日だったのか、店の中は人も疎らで、一番奥の席では師叔が鼻の頭まで真っ赤に染めて、完全に出来上がっている。「おやまぁ!綺麗な娘だと分かっちゃいたけど、着飾るとまさに『天女』って感じだねぇ」イムジャの姿を見たマンボ姐は、濃い化粧に縁取られた目を丸くして、大きく手を叩いた。記憶を失った事に触れないで欲しいと事前に頼んでおいた所為か、マンボ兄妹は『顔見知りだが込み入った事情までは知らない』そんな
「はぁ……そんな事があったのですか……」そうるで父と交わした会話とは——イムジャの話をひと通り聞き終えた俺は、何とも…間の抜けた感想を口にしていた。まったく、この方ときたら……居もしない他の妻を気に病んで。父上にあれこれ愚痴を溢していたとは……父上……驚かれましたか?俺が生涯、添い遂げたいと願う唯ひとりの妻は、このように愛らしく、何とも困った人なのです。まさか、イムジャの言う事を、真に受けてはおられませんよね?俺が他の女人を、などという……この人の思い違い、いや、天の書の誤りを
「ぅぅ……にがぁ……」私は朝のルーティン——トギ特製サプリメントを飲み干した。……飲み下した、という表現の方があってるかもしれない。私の為の処方…必要なのは誰よりも分かってる。分かってるけど苦い……凄く苦いぃ。「奥様、お口を」器を受け取ったソニが、すかさず蜜飴を私の口に放り込んでくれる。「ありがとう、ソニャ」「毎朝拝見してますが、本当に苦そうな……ご立派です、奥様」器の底に残った群青色の筋を見て、ソニが眉根を寄せて言う。私は口の中で飴を転がしながら、「あはは……ソニもちゃんと
己れの鼻先に、イムジャの纏う花の香り……イムジャの行動を予測出来ていた俺は、飛び込んできた柔らかな身体を、驚く事なく受け止めた。“はぐ”というのだそうだ。ただ…愛情表現だけでなく、親愛の情や感謝、慰安の時にもするのだ、というところが、若干気に入らないが。イムジャが俺にする“はぐ”は、まごう事なく愛情……俺は夫ゆえに。他の者とは違うのだ。アン家の客間に居た時から、イムジャはずっとおかしな様子だった。奥方の年はいくつか?随分若いのだろう、と言い出したあたりから、もしや…とは思っていたが。
デート当日は、小春日和の穏やかな朝だった。「では、出掛けましょうか」「うん!じゃあ皆んな。行ってくるわね」ヨンと連れ立って門を出るのを、スンオク達が礼をして見送ってくれた。私が手を振って応えていると、ヨンが耳元で、本当に歩きで大丈夫ですか?と囁く。「大丈夫よ。いい運動になるわ」「家は街外れですので、市中まで歩くと、かなりありますよ?」「……」スンオクの目が厳しいので、ここんとこ馬車で移動してばかりだったから——そっか、そうよね。歩くのは結構大変な距離かも……私の情け無い顔を
あれ程きつかった悪阻が、嘘のように落ち着いて……私は、戻ってきた食欲と闘う日々を送っていた。もともと、スンオクやソニの作ってくれるご飯は美味しい。王妃様や叔母様からいただくお菓子も美味しいし、マンボ姐さんの差し入れもとびっきりで。何より、私が食べられるようになったのを、ヨンが喜んで喜んで……毎日のようにお土産片手に帰ってくるから——「ヤバイわ……」「やばい?」チェ家でのランチタイム。横で給仕をしてくれているソニが、小首を傾げている。ソニはとても好奇心旺盛で、私がつい漏らす天界語にいつ
「日が暮れ始める前に発ちます」そんな俺の言葉に、茶を飲み干して空になった碗を両掌の上で回しながら、イムジャが伏し目がちに小さく呟いた。「そっか…もうここを出なきゃいけないんだ」いかにも残念だといった姿を見て、俺は密かに胸を撫で下ろした。この方に妻問う時、少なくとも我が屋敷に住まう事を嫌い、拒まれるという線は無くなったと見ていいだろう。(俺の元へ留まると、ようやく決心して下さったというのに。何と弱気な事だ…)そう自嘲する反面、油断は禁物だと自らに言い聞かせる。イムジャは高麗の水を飲ん
外衣を羽織り、チェ・ヨンに手を引かれて総門まで見送りに出ると、そこにはチュホンの手綱を握るハクジュさんと、傍で目尻に皺を刻みながら微笑むファジャさんの姿があった。「旦那様。無事のお帰りをお待ちしております」恭しく頭を下げた老夫婦に向かって小さく頷いて、この人は私の背にそっと手の平を添えた。「明朝までこの方の面倒を見てやってくれ」「ええ、ええ。勿論ですとも。このファジャにお任せになって下さいまし」熱心に頷く眼差しが、以前より更に温かさを増したように見えるのは気のせいだろうか。チェ・ヨン
「本当に宜しかったのですか」リュ・シフ侍医に気遣わしげな声音で尋ねられ、私は目を通していた診療録から顔を上げた。話し合いの結果、ソアさんは典医寺に残る事になり、更には私の無月経の治療を全面的に請け負うとまで約束してくれた。それらを昨日の内に、リュ・シフ侍医には伝えたはずなのに、一晩経って再び蒸し返してくる理由が分からなくて。私は憂いを帯びた美しい顔立ちをじっと見つめたまま、次の言葉を待った。「見ず知らずの地で記憶を失ってしまった医仙様にとって、大護軍の存在は普通の想い人とは重みが全く違
“初めて恋人の実家に行って、彼の家族に会う”ただでさえ緊張するシチュエーション。ヨンのご両親は既に亡くなっているけれど、チェ家に仕える人達が何人かいるという。きっと、手裏房の皆んなみたいに、ヨンにとって家族みたいな人達なのよね。これから一緒に暮らすんだもの。私にとっても、家族になる人達なんだわ……そう思ったら、こんな私でも、ご多分に漏れず、背筋がすっと伸びた。——それなのに。「奥様っ、そんな、おやめください、痛っ、自分でやりますから」「ちょっと黙って、スンオクさん。動かないで…
ヨンが固まっている。こんなに固まるのも珍しい…ていうか、初めて見たかも………あ、動いた。私を見つめたまま、瞬きするだけだったヨンの目が、す、と焦点を合わせた途端、そのまま私のお腹辺りを見つめ、また私の顔へ戻り、再びお腹へ向き……何度かそれが繰り返された後、ヨンの両手が私の二の腕を掴み、私は左右から、がっちりホールドされた。「まことですか?」「うん。さっきユン先生に診てもらったわ」「赤子を授かっていると?」「うん——」「………」ヨンは、私をひた、と見つめてから——ウロウロとあち
私は改めてトギに向き直って続けた。「赤ちゃん……なるべく早く欲しいなと思ってるの。私ももう若くないし、いろいろと……体力的にも、ね」(…そうだな。早いほうがいいと思う)「それで、避妊はやめたんだけど、今度は妊活しようと思って」(にんかつ?子作りの事?)「ん〜、妊娠しやすい身体づくり、ってとこかな。それでトギにまた、アレコレお願いしたくて」(……いいよ。私に出来る事なら)「ありがとう、トギ〜!」(ああ〜、もうっ。わかったからっ)私は、忙しいトギに抱きついて煙たがられた。(そうい
どうしたら天門が開くのか。あの方は何と言っていた?訳の分からない天界語で、下手くそな文字で何やら書きつけて……。ああ、もっと聞いておけばよかった。あの時皇宮で、いつ開くのかわかったと言っていた。確か、次は67年後だとも……。……………いやそんなには待てるがしかし俺は馬上で溜息を吐き、空を仰いだ。少し離れた後ろから、テマンとトクマンも心配そうに着いてきている。馬に乗れるほどには回復した頃、都から内々に王命が届いた。『護軍チェ・ヨンは戻ってくるように』イムジャが拐われた
初めは単なる好奇心だった。「貴方って。凄く…その…上手、でしょう?今までどのくらいの経験があるのかなって…」自分でも大胆な事を尋ねた自覚はある。口に出そうか、止めようか。随分と迷い、それでも聞かずにいられなかった。(だって真実ゲーム中でもないと、こんな恥ずかしい事、絶対に聞けないじゃない…)その時の私は幸せに浸り過ぎて、すっかり忘れ去っていたのだ。目の前の恋しい男(ひと)に、かつて将来を誓い合うほど、心を寄せた女性がいた事を。「その後も誘われるがままに、妓楼へと足を運び続けました
——今私は闘っている。目の前のこの……紐と。「……その輪っかの中に、上から入れて掬い上げる……あ!違います、右からですよ、奥方様」「え?こうじゃないの?右からこう……」「イムジャ、まず輪の中に紐の先を入れて、あ」「うう〜。何でぇ……」「やれやれ……奥方様は見た目と違って不器用なお人ですね」「よく言われるわ……」今日のデートの記念に——私が欲しいとねだったのは、メドゥプだ。ノリゲをはじめあらゆる装飾に使われる、韓国の組紐。伝統工芸品。昔からあるのは知ってたけど、
【少し直接的な表現があります】【原作の雰囲気を大切にされる方にはお勧めできません】「きゃぁっ!ま、待って…!」チェ・ヨンの力強い手に半ば抱え上げられながら、自分の部屋へと引き摺り込まれた。いつもだったら、私が転んだりしない程度の足の運びを意識してくれるのに、今は驚くほどに乱暴な扱いをされている。大きな音を立てて扉は閉められ、足元にはがしゃりと鬼剣が放り投げられた。「…痛っ!」勢いのままに、突き当たりの壁に押し付けられた肩が痛む。チェ・ヨンはまるで逃がさないとでも言うように、私
チェ・ヨンが「美味いですね」と片頬を僅かに上げたいつもの笑みを浮かべたのを見て、私は嬉しくなると同時に少しだけほっとした。知れば知る程に無欲なこの人は、食べるという事においても執着が無い。武士としての身体を作り動かす為だけに、鍛錬の延長のように黙々と食事を取るこの人を、迂達赤兵舎にいる間ずっと目にして来た。だからこんな風に、美味しいという感想を述べてくれた事に、新鮮な驚きと感動を覚えたのだ。もっとこの人に、喜びを感じて欲しい。もっともっとこの人に、幸せになって欲しい。無欲なこの人の分