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私は当時3歳4歳ぐらいだったから記憶は途切れ途切れだけど1度大きな施設の様な場所で母と姉と私の3人。しばらく沢山の家族と集団生活をしていた記憶がある。どの家族もお母さんと子ども達だった。2段ベットのある部屋でよその家族と一緒に生活した。子ども達みんなでホールの様な所に集まってまーるく円になって座っておやつを食べたり。。。大きくなってからわかったけどあれはいわゆるシェルターみたいな所だったんだろうな。母は私達を連れてきっと父から逃げないといけない理由があったんだろ
今日は結婚指輪を見に。おしぼり写真取っちゃいました(笑)ご成約特典にもらいました。実は今日指輪を選んでる時いろいろ試着してあーでもないこーでもないとしてたのですが結婚指輪は絶対に同じデザインでないといけないといけないわけではないようでお互いがそれぞれ好きなデザインでもいいよね、となってたのですが彼はつや消し加工されたデザインを気に入って私はツヤツヤキラキラなデザインがよくて私これー!(ツヤツヤキラキラのやつ)と言ったら彼が僕もそれ。(私が選んだやつ)と言い出し私は
姉は家出をして1ヶ月程帰らなかった時があった祖母と母はもちろん毎日血眼になって探し回った余りにも長期間見つからないので警察にも捜索願いを出したそしてその姉の行方は。。。当時の家から少し離れた所で1人途方に暮れていたそんな時姉に声をかけてきたおじさんがいた姉はそのおじさんに自身の身の上を話したそのおじさんは姉の事が心配になりうちでご飯を食べさせてあげるからと言い姉を自宅へと招き入れた当時の事を姉に聞いた時恐怖心はあったもしかすると何かされる
氣×心理学マイナス思考からしあわせマインドを育てる専門家山内祥湖(さちこ)です。★自己紹介はこちらから★氣導法(きどうほう)とは?こちらから氣やカウンセリングを受けてくださった皆様の変化↓↓↓お客様のお声自己肯定感が低かったけど低い・高いが気にならなくなったまるで別人の人生みたいに変化!氣とつながることを意識することで心が整いやすくなった仕事に行くのが怖いのがたった2週間で大丈夫にスピ系講座で変わったと思っていたけど氣導法ヒ
私には2つ年上の姉がいる。2人目の継母と暮らし始めた時姉は小学1年生で私は5歳。私はとにかくお姉ちゃんっ子でホントに常に姉といた。私達は自分達でも認める程の超仲良し姉妹。というか、その頃から私は姉が居なければ生きていけないと思っていたし姉しか頼れる人がいなかった。父親も継母もほとんど家に居ないし居ても寝てるし何かをしてもらえるわけでもない親無し子も同然の生活だったから。私は家に居たくなかったのか姉が学校に行って寂しかったのか毎朝、姉の登校に付いて行く。学
仕事の話ですがこの不満をそのままにしておくと私が爆発してしまうと思い上司に打ち明けました私の病気も知ってる上司は耳をかたむけてくれて本人に言いますね、私も気になってた、と。言ってくれてありがとうと言われて改善どうこうではなく上司が私の不満を聞いてくれた、というだけで私はスッキリしたのでした。そしてタイトル。私は特に、かれこれ4年前からなんだか卑猥な言葉を言いそうになる自分を抑えていました。絶対私が頭おかしいと思い、主治医にも打ち明けたこともなく。それとなくネットで調べ
祖母の虐待は回数を重ねるごとに猟奇化していった。。。今考えると本当にどうしてあんな事ができたのか人の心がある人間にできる事なのか?と思ってしまう程祖母の虐待が激しくなればなるほど姉も私も祖母から逃げる祖母は私達に逃げられないようにあの手この手を使ってきたある時は姉の虐待の時も私の虐待の時も毎日の学校の登下校を母に送り迎えをさせるようになった前に住んでいた家では神経質なくらいに夜中まで働く母が昼間は寝ているからと私達に静かにするように言い聞
私達姉妹が家出を繰り返すため祖母は私達が自由に動けないよう手足を帯紐で縛り付けるようになった手が自由に使えなければ玄関の鍵も開けれない手だけを縛る時もあれば手足を縛る時もあった2段ベットの柱に括り付けられる時もあったそうなってしまえばもちろん祖母からの暴力を受ける時は腕で自分を庇う事も逃げる事もできずサウンドバック状態もう最悪の状況だったある時祖母は私に激高してまたベットの柱に私を縛り付けた怒りのままに力いっぱい縛り付けた紐は私の手首に食い込
あれは真冬だった私は毎日24時間玄関に立たされていた時期があったかろうじて服は着させてもらえていたものの足は裸足だった暖をとる事もできずずっと玄関に立っていた何故玄関なのか理由は忘れた誰かがうちに来るたびに玄関先から見えないように移動する事を祖母から指示されて尋ねて来た人が帰るとまた元の位置に戻される真冬だったため足は冷え切って感覚が無くなっていた玄関に立たされるようになって数週間が過ぎた頃私の足の色が変わり始めた足の指はどんどん黒く変色してい
4年生の冬私はまた祖母から逃げるために家を飛び出して真夜中寒さを凌ぐためにマンションの駐輪場で体を丸めてしゃがみ込んでいたそれでも寒さを凌ぐ事はできず私はあるマンションのエントランスで寒さを凌ぐ事にした当時私の行動範囲の中で唯一のオートロックのマンションあそこへ行けば寒さを凌げると思いついた深夜のマンションなかなか人が通らずドアが開かないそこへ1人の人が帰ってきたその人は私の事を不審そうに見ながらオートロックを開けた私はその人と一緒にマンションのエント
2人目の継母は日に日に私達姉妹の生活に苦をもたらしていく当時40歳ぐらいだった父が私達に‘’新しいお母さんだよ’’と言って連れてきた2人目の継母は19歳の若い女性だった。父はその女性を家に置いたままずっと何日も帰宅しない。そんな若い新しい母親からは食事も与えてもらえなくて完全に放置状態。自分の子どもが産まれてからは家にいるようになったんだけど。それでも、何もしてもらえなくて。。ある日。姉も学校へ行っていて私はあまりの空腹に「お腹空いた」って継母に言った。
この時も祖母に叱られている最中だったまたいつもの様に祖母は私に説教や暴力を振るう最中に私の態度や表情に激高した私は小さい時から気持ちが顔に出やすい言葉は発さなくても顔に出てしまういつも祖母に殴られながらグッと自分の感情を抑えていたでもたまに耐えかねて顔に出てしまっていたそんな態度に祖母は余計に腹が立ったのだろう突然私の髪の毛を鷲掴みにしてそのまま引っ張って洗面所に連れて行ったそして祖母は洗面ボールに栓をしたその瞬間私は頭が真っ白に
施設での新しい生活3歳からほとんどまともな生活をした記憶がなかった私にとって施設に入ってやっと普通の生活ができるようになった何よりも施設に入るまでの私はずっと心が休まる瞬間がなかったのだと今になって感じている自由はないけど理由なく怒鳴られる事も理由なく殴られる事もない生活やっと安心を得ることができた施設で生活する子供達の入所理由は様々生まれた時から親の顔も知らない子私同様虐待を受けた子ネグレクト生活苦みんなの心の中はわからないけど寂しそうにして
うちには細かなルールみたなのがいっぱいあったお風呂に入る前の挨拶やお風呂を出てからの挨拶母が夜働いていたから夕飯は17時から昼間は母が寝ているから静かにする事9時には布団に入るゲームは買わない女の子だからスカートしか履かない週末は家族全員で家の掃除その他にも細々とルールがあった1日の過ごし方も細く時間配分が決まっていたうちは母が夜働いていたから昼過ぎまで寝ていただから私達のお世話や家事全般は全て祖母がしてくれた今までやった事のない事も沢山
母がどうして父の元に姉と私を置いて行ったのか。。。『お母様には彼がいらっしゃったのでしょうか?』『お母様は何故お父様の所へ置いたまま出て行かれたのでしょうか?』『こうなる事は想像できたはず。。。』こんな質問を度々いただく。。。私は当時何も事情を知らなかったし気がついたら母がいない生活だっただけどきっと何か私達を置いて行かなくてはならない事情や理由があったんだろうとは小さいながらに思っていたし私達を置いて出た母を恨んだ事は今まで一度もない私がこのブログを
祖母は度々私の表情に苛立ちを見せたお説教中や殴られている時の私の目や態度に更に怒りが増す事がよくあったこの時もそんな事がきっかけだった突然台所へ私を連れて行き刃先を私の方に向け私のお腹に刃先を突きつけ私に包丁を持つように指示してきたそして「早く刺せよ!!早く死ねよ!!」と何度も怒鳴りつける時折祖母がその包丁を押してくる私はその時裸でお腹に刃先が何度も触れたでも。。。私はこの時心の中で「何で私が自分で死ななあかんの?あんたが刺して
私が1年生の夏その日も姉と今日はどこでご飯を食べさせてもらおうか。。。と考えていたそして父がお世話になっていた知り合いの家に行ってみる事になったいつものように2人で手を繋いでその知り合いの家に向かった知り合いの家の前に到着したその時。。。姉が私と繋いでいた手を振り解いて突然走り出した私は?と思って姉の走る方に目をやるとそこには若くて綺麗な女の人が立っていた姉はその人の方にまっしぐらに走って行くと何か話をしていた私は誰やろ?私の知らん人。。
姉が4年生私が2年生の終わり頃突然引越しをする事になった家の経済的な理由だった学校も転校新しい学校にはすぐに慣れて新しい友達も沢山できただけど。。。この引越しが最大の悪夢の始まりだった姉と私はそれぞれ友達もできて年齢的にもあまり毎日を一緒に過ごす事もなくなっていたそんなある日姉から聞いた一言に私は少し頭の中がパニックになったのを今でも覚えている姉「もうな。ずっとパンツ履いて学校行かせてもらってないねん」私「え?どうゆうこと?」姉「パンツ
無実の罪をきせられた後も私達が言う事を聞かないからという理由で祖母はしばらくの間母をホテル住まいさせた事があるらしい私達が言う事を聞くようになるまでは母をここへは帰ってこさせない。と母の意思ではなく祖母の指示だったこれは姉から聞いた話で私の記憶には残っていなかった姉から最近になってその話を聞いた時そんな事をしてなんの意味があるのか?と思ってしまった本当に今考えても祖母のやり方は理解できない。。。この頃にはもう祖母は私達を引き取ったせいで。。。
この記事は下書き段階で姉から公開するのを控えようかと話がありましたが、コレまで読んでくださった方の応援もあり引き続きよろしくお願いします。※このブログはフィクションではありません。私達姉妹が歩んだ実録です閲覧内容に辛い気持ちになる方も多くいます。心してお読みください。私はこっそり姉に聞いた事があった「お腹空くやろ?どうしてる?」姉は答えた「学校行ってる時は給食のパン残して持って帰ってきてちょっとずつ食べてた。今はベランダのゴミの中に食べれる物あったら食べたりみ
母が居なくなった時私の記憶の中に母が居なくなった時の不安な気持ちや悲しい気持ち母を探し回ったりママと泣き叫んだ記憶もないでも姉に聞いたら母が居なくなった時2人で凄く泣いたんだってそしたら父が物凄く怒ったらしい。。。私の記憶には全く泣いた記憶なんて残ってないんだよね父に怒られた記憶も残ってないけど姉も私も泣いたらダメって思って我慢するようになったんだろうな私にはねちゃんと母と居た時の記憶は残ってるんだよボロボロアパートに住んでた時はお風呂が家になかったか
名古屋に辿り着いた姉姉の持っている祖父母の情報は名古屋に住んでいる。。。ただそれだけだった10歳の姉はとりあえず駅のロータリーに停まっていた沢山のバスのうちの1台に当てずっぽで乗り込んだどこへ向かっているかもわからないバスに揺られながら外を眺めているとどんどん人気や建物が無くなっていく姉は不安になって名古屋駅からかなり離れたと思われるバス停でバスを降りた降りた先は人気がほとんどない小さな町だったどこへ向かえばいいかもわからず引き返そう
同僚と仕事の話してて作業に戻ったらまた同僚が近づいてきて私もネガティブな方ですけど◯さんはそれを上回るネガティブですねと言われて気にしてることを言われてすぐ傷つく私。ネガティブな人にネガティブですねってゆう必要あるかな?デブな人にデブですねって言ってるのと同じじゃないかな?ごはん食べて、お菓子食べても気持ちは戻りませんでした。私、薬飲んでること伝えてあるんだけどまだまだ世の中には精神疾患について浸透してないですね
姉への毎日の畳で正座何時間もの説教しばらくするとそれは床に変わった畳で正座よりも床で何時間も正座させられる方が辛いから。。。わざと床に正座しろと言い出した祖母そして日に日に時間も長くなり仕舞いには姉は食事も与えてもらえなくなったこの時は何とか学校には行かせてもらっていたものの学校から帰ると部屋から出てくるなと言い自分の気分でリビングに呼びつけ床の上で正座食事も与えてもらえず挙げ句の果てに祖母は姉に布団で寝るなと言い出した学校から帰
それからも祖母の姉への虐待はエスカレートしていった学校から帰ると部屋から出てくるなと指示をされていた姉今までは部屋の勉強机に座っていたのにその次に出された指示は「立っとけ!」だった。。。姉は座る事すらも許されなくなった家で過ごす時間は自分の部屋で立たされるか呼ばれて何時間もの説教を受ける家では食事も与えてもらえないのにその説教の時間は姉以外のみんなが食宅を囲み食事をしているのを目の前に説教を受けなければならない日もあった私としてもどんな顔で食
姉の下着の一件を皮切りに祖母の姉に対しての嫌がらせがエスカレートしていった始めは畳の上で何時間も正座をさせられ祖母の説教を聞かされる事から始まったそんな事と思うかもしれないだけど毎日毎日学校から帰れば何かと理由をつけて怒り正座しろと指示を出すしかも何時間も。。。言っている事と言えばただただ同じ事を繰り返し言い続けて自分はテレビを見たり用事をしながら。。。たまに何かを問いかけその返事が自分の納得のいく返事でなければまた怒り足が痺れて動け
姉はそれからも何度か家出を繰り返したその度に祖母と母に見つけ出されて連れ戻される母に見つかり服を掴まれその服を脱いで逃げた事もあった祖母に見つかり走って逃げようとして姉の目の前を歩いていたカップルに祖母が「その子捕まえて!」と叫びそのカップルに捕まえられた事もあった母の弟に見つかり担がれて車に押し込められた事もあったそれでも姉は何度も祖母から逃げた捕まればその後は地獄それでも逃げたかったそして姉が祖母から虐待を受け始めて数ヶ月。。。突然姉
姉の過酷な日常はしばらく続いたそんなある日姉は祖母から逃げるために家を飛び出した行くあてもなくとにかく祖母からこの生活から逃げるために。。。小学4年生これが姉の初めての家出だったとは言え行くあてもなくどうしようか考えてたどり着いたのは家から1キロ程しか離れていない総合病院の待合室だった姉は1日中その待合室で過ごした夜になって病院の職員さんが姉を不審に思い声を掛けてきたそして家に帰るよう促された姉はしぶしぶ病院を出たそしたらその職員さん
結局何も買う事が出来ないまま入学の日を迎えた。もちろん入学式にも行けなかった。私には入学式に着て行けるような綺麗な服もないし一緒に行ってくれる親もいなかった。。。姉からこの間聞いて初めて知ったんだけど向かえに住んでいた幼馴染のお母さんが筆箱をくれた。えんぴつと消しゴムは姉の使い古しを貰った。1度だけ学校に行った記憶が残ってるきっとその日は新1年生の登校初日ランドセルもまだいらないし私は何も持たずに学校に行ったんだと思う。私にとっては初めての登校日
母の元に引き取られて1年以上が過ぎ新しい生活にも慣れて学校にも沢山友達ができた放課後友達の家に遊びに行った日私は門限を守らなかった事があるまだ遊びたいが勝ってしまったその時初めて祖母が物凄く怒った当然約束を守れなかった私が悪いそれまでお行儀が悪かったり教わった事ができなかったりで度々口うるさく注意される事はあったけどこんなに怒る祖母を初めて見たという感じだった私は困惑してしまったどうすればいいのかがわからなかった今まで父の所にいた時も継母が