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元治二年(1865)は四月に改元されて慶応元年となり、その年の瀬の十二月二十五日、佐々木只三郎は与頭勤方から与頭への昇進を果たします。これは単に階級が上がったというだけでなく、御家人から旗本への昇格であり、将軍に謁見出来る身分になったということで、これは異例の人事でした。同年暮れには中立売通智恵光院付近に組屋敷が完成、更に翌慶応二年(1866)二月に京都文武場が開場すると、久保田善三郎(与頭)、高久半之介(与頭勤方)と共に文武場頭取並に就任しています。一方、見廻組はそれまで命
「慶應3年11月15日です」歴史大好きのお客様(男性)この日付がなんの日にちなのか❓「って、なんの日ですか?」聞いてみました「近江屋事件です」「ひょっとして坂本龍馬の?」「そうです、よく知ってますね」近江屋事件は、幕末の慶応3年11月15日(1867年12月10日)に坂本龍馬と中岡慎太郎が京都河原町近江屋井口新助邸において暗殺された事件のこと。京都見廻組の仕業であるとされる。(⬆️記事はお借りしました)ことの真相の一部始終を目撃したいそうです「止めに入ったり、龍馬に予め知らせ
文久三年(1863)二月二十三日に洛西壬生村に到着した浪士組ですが、清河八郎は佐々木只三郎ら同行役人たちをのぞく浪士一同を宿所の新徳寺に集め演説を打ちます。その内容は「我々の真の目的は尊王攘夷を断然実行することにあるので、幕府によって集められたとはいえ、今後は幕府ではなく朝廷の命令に従うべきである」といった内容だったとされます。のちに学習院に提出された上申書(『清川八郎以下連署上申書』)にも幕府御世話にて上京仕候得共、禄位等は更に相承不申。只々尊攘大義相期し奉候間、万一皇命を
安政六年(1859)頃、二十七歳前後の年で幕臣佐々木家の養子となった只三郎は、御書院番与力に任じられた一方で、その腕を買われ幕府講武所で剣術教授などの役目に任じられたといわれています。この佐々木只三郎の講武所教授就任に関しては確実な史料はないようですが、のちに京都見廻組で同役の与頭となる速見又四郎が講武所槍術世話心得役、高久半之助が同じく講武所剣術世話心得役に任じられていたことが史料ではっきりしているので、佐々木も同様に世話心得役、もしくはそれ以上の役目についていたと考えて、ほぼ間違い
近江屋襲撃の指揮をとったとされるのが京都見廻組の与頭・佐々木只三郎です。佐々木只三郎は天保四年(1833)に会津藩士佐々木源八の三男として生まれました。名は唯三郎とも書き、また諱ははじめ泰昌を名乗りましたが、安政六年(1859)二十七歳の頃に幕臣で同姓の佐々木弥太夫(矢太夫とも)の養子に入ると諱を高城と改めています。実兄に会津藩公用人の手代木直右衛門(勝任)がいます。また養子先の佐々木家は親戚だったとも、縁戚関係はなかったともいわれていてハッキリしません。青年時代までを会津で過ごした只
西岡是心流剣術は、江戸時代初期の尾張藩家老・石川(いしこ)讃岐守の家来だったと思われる「いかり半兵衛」改め西岡是心によって創始された線導流を元に、尾張藩士・大野伝四郎の子孫に伝わったと考えられます(近松茂矩『昔咄』参照)。また、『武芸流派辞典』(綿谷雪/山田忠史)に「吉田武八郎の是心流も同系か」とあり、幕末には大野応之助のほかに吉田嘉平太・吉田三九郎といった吉田姓の人物が弟子に免状を与えていたということからも、大野家と吉田家は西岡是心流を代々守り継いできた、密接な関係のある家柄であった
渡辺篤、桂早之助と西岡是心流の剣客二人を紹介したところで、剣術流派・西岡是心流について少しお話したいと思います。西岡是心流は大和郡山藩の西岡是心を開祖とした流派として知られています。おそらくその出典は古武術研究の第一人者であった綿谷雪(わたたにきよし。1903-1983)の書によるものと思われ、たとえば『武芸流派辞典』(綿谷雪・山田忠史共著/昭和38年)に是心流(剣)郡山藩の西岡是心。吉田武八郎の是心流も同系か。尾州藩の是心流は一に円導流ともいう。西岡是心流(剣)大
桂早之助の名前ですが、今井信郎の供述書(刑部省・兵部省)では「桂隼之助」と「隼」の漢字が使用されています。が、本人の由緒書を元にした『桂早之助略伝』(川田瑞穂)など、本人や親族が関わっている史料や心眼寺の墓などは、すべて「早之助」と表記されており、「早之助」が正しいと思われます。早之助は幼少より武芸を好み、剣術は所司代与力・大野応之助のもとで西岡是心流を学びました。一方、『龍馬暗殺の謎:諸説を徹底検証』(木村幸比古)では桂早之助は安政四年(1857)、十七歳のとき、京都所司代
京都見廻組・桂早之助は京都所司代同心桂清助の長男として生まれました。生年については主に二説あり、『桂早之助略伝』(川田瑞穂/大正六年)では生年を明記していないものの、嘉永四年(1851)に十七歳で同心になったとし、慶応四年(1868)鳥羽伏見の戦いで戦死した際に「享年三十四」としていることから逆算して天保六年(1835)生まれということになります。一方、『霊山歴史館紀要(8)』収録の「龍馬を斬った男見廻組・桂早之助の履歴」(木村幸比古/1995)では天保十二年(1841)四月生まれと
安政四年(1857)二月一日、渡辺篤(当時は一郎)は十五歳で二条城御門番見習となります。そして元治元年(1864)二十二歳の時に、二条城において上洛中の将軍家茂の御前にて剣術上覧試合が行われました。篤も参加し、褒美として丁銀五枚を授かっています。また、将軍警護のために上洛していた伊庭八郎と親交を結んだようで、伊庭の『征西日記』元治元年五月五日に「渡辺一郎兄弟暇乞いに参る。鱒を持参」と書かれています。伊庭八郎は同年一月から六月までの間、二条城勤番となっており、一緒に勤務していたり、城内に
京都見廻組の渡辺篤は激動の幕末維新を生き抜き、天寿を全うした人物です。そのため晩年に自らの経歴を書き残したり、あるいは近しい人たちに語り残しており、生まれてから死亡するまでの生涯がほぼわかっている人物でもあります。渡辺篤は、天保十四年(1843)十二月十八日に二条城南城番組与力・渡辺時之進(諱は均)とその妻・滝の長男として生まれました。ただし維新後、戸籍を登録する際に何らかの手違いがあったらしく、戸籍上は弘化元年(1844)一月十八日生まれとなっています。三人兄弟で弟は菊吉(
近江屋襲撃グループに世良敏郎の養父吉五郎が加わっていた可能性があるを考えると、そこからまた一つ疑問点が生じてきます。それは今井信郎の供述が、果たして本当に生きている(であろう)人物を庇うために別の誰かと入れ替えたものだったのだろうかという点です。ちなみに、近江屋事件の起きた慶応三年(1867)十一月十五日の直前、同月六日付で提出された、同年十月に作成された京都見廻組の幹部名簿(『在京鳥取藩士用状』)があるのですが、それによると渡辺吉太郎は「渡辺吉三郎」、また渡辺篤(一郎)は、「渡辺鱗三
世良吉五郎が西岡是心流の剣客で、渡辺篤や桂早之助の師・大野応之助の兄弟弟子であり、相当腕が立ち、なおかつ当時三十七歳と年齢的にはややピークは過ぎたか感があるとはいえ、まだまだ動ける年齢であったことを考えれば、非常に危険な戦いとなる襲撃に、養子で文官肌だった敏郎と、その養父吉五郎と、どちらを連れて行くだろうかというのは問うまでもないだろうと思います。しかも、近江屋襲撃に参加したのは吉五郎の方だったと書き残した中川重麗は自身が京都見廻組であったのみならず、渡辺篤とは幼少から見知った間柄であ
中川重麗の『怪傑岩倉入道』では近江屋事件に参加したのは世良敏郎ではなく、その養父である世良吉五郎だったとされています。世良吉五郎は元所司代同心で、『坂本龍馬関係文書』に収録されている中川の談話に京都見廻組入隊の経緯が記されています。されば見廻組に於いては、京都にて城番組与力、所司代、組同心中より剣・槍・銃などの心得ある者を採用して、その欠を補うこととなりしより、渡辺一郎、内藤某、野條某(以上城番)。桂隼之助、世良吉之進、川勝某、大西某、児島某(以上同心)等、数十人は前後してこれに加
武芸があまり得意ではなかった世良敏郎が、近江屋襲撃メンバーの選ばれる理由があるとしたら何でしょう。ひとつ考えてみたのが元見廻組の中川重麗(登代蔵・四明)の遺作『怪傑岩倉入道』にある「永井尚志の警護に京都見廻組から7,8人派遣されていた」という点です。文官肌の世良敏郎なら、永井の宿所の応接役か取り次ぎ役として、訪ねてきた坂本龍馬を永井の元に案内する役割だった可能性も有り得るかも知れません。つまり龍馬の顔を直接見ていたかも知れない。万が一、近江屋二階に複数の人物がいた場合に、誰が龍馬か特定
前回、近江屋襲撃に参加した可能性のある京都見廻組隊士は十一人いるという話をしました。そのうち世良敏郎については、渡辺篤の『渡辺家由緒暦代系図履歴書』に刀の鞘を忘れ残し帰りしは世良敏郎という人にて、書物は少し読み候得共、武芸の余り無き者故、鞘を残し帰るという不都合出来、帰途平素剣術を学ぶ事薄き故、呼吸相切れ、歩みも出来難き始末によって、拙子、世良の腕を肩に掛け、鞘の無き刀を拙子の袴の中へ堅(たて)に入れて保護し、連れ帰り候。と記され、菊地明先生の研究によりその実在が確認され
近江屋を襲撃したとされる京都見廻組隊士として、まず今井信郎が供述した今井信郎本人と、佐々木只三郎、渡辺吉太郎、高橋安次郎、桂早之助、土肥仲蔵、桜井大三郎の七人が挙げられます。そして渡辺篤の告白によって、更に渡辺篤自身と世良敏郎の二人の名前が挙がるのですが、今井が二人の名前を供述しなかったことについて、菊地明先生は『龍馬暗殺最後の謎』の中で今井の刑部省における供述によると、刺客は今井のほかに、佐々木只三郎、渡辺吉太郎、桂早之助、高橋安次郎、桜井大三郎、土肥仲蔵の計七名だっ
近江屋事件に関する謎の一つに、「襲撃者はなぜ坂本龍馬の潜伏先が近江屋であると知ったのか」があります。しかも龍馬は風邪気味であったが為に、前日(慶応三年十一月十四日)に離れの土蔵から母家の二階に移ったばかりでしたがもっとも龍馬儀、旅宿二階に罷り在り、同宿の者もこれ有り候由。(今井信郎『刑部省口書』)下宿せしところは河原町三条下ル三四丁目西側、醤油屋の二階に才谷梅太郎と偽名し潜居致しおる。(渡辺篤『渡辺家由緒暦代系図履歴書』)と、単に近江屋に潜伏しているというだけでなく
『近畿評論』の騒動から更に時を経て大正四年(1915)のこと。大阪朝日新聞8月5日号に近江屋事件に関する記事が掲載されました。それはこの年に亡くなった元京都見廻組の渡辺篤が、生前に愛弟子の飯田岩太郎と実弟の渡辺安平の二人に語り残したとされるもので、坂本龍馬を斬ったのは自分だったと告白する内容であり、『坂本龍馬を殺害した老剣客=悔恨の情に責められて逝く=』と題されていました。しかし、この記事で述べられた渡辺の“告白“内容は、それまでに確認されていた「事実」と異なる点が多々あったこ
明治三十三年(1900)、『近畿評論』第十七号に「坂本龍馬殺害人」と題した今井信郎の談話とされるものが発表されました。これを読んだ谷干城は激怒し、猛烈な反論を展開します。谷は事件直後に現場となった近江屋に駆けつけ、瀕死の重傷を負いながらもまだ息のあった中岡慎太郎から直接話を聞いていたのでした。以下、同年中の講演の速記録とされる『谷干城談話』より、谷の反論を抜き取ったものです。(中岡いわく)実は今夜、お前の方へ行ったが、お前が留守であったから坂本のところへ来て、二人が話している
時は流れて明治三十三年(1900)のこと。京都の小さな出版社が発行した雑誌に掲載されたある記事が元となって大きな騒動が起こりました。騒動の元となったのは『近畿評論』第十七号に掲載された「坂本龍馬殺害人」で、元京都見廻組の今井信郎が、坂本龍馬を殺害したのは自分であると告白する内容の記事だったのですが、生前の龍馬と親しく、事件直後に近江屋に駆けつけて瀕死の重傷を負った中岡慎太郎や近江屋経営者の井口新助などから直接事件の経緯を聞いていた谷干城(子爵)が、この記事を猛烈に批判したのでした。
今井信郎は更に刑部省でも取り調べを受けましたが、その供述書の中の重要な部分を意訳してみました。箱館降伏人元京都見廻組今井信郎午三十歳十月の中頃、見廻組与頭の佐々木唯三郎の旅宿へ呼び出され、私並びに渡辺吉太郎、高橋安次郎、桂隼之助、土肥仲蔵、桜井大三郎の計六人が集められた。唯三郎によると、土佐藩の坂本龍馬に不審な行動があるという。(坂本は)昨年、伏見に於いて捕縛されそうになった時、拳銃を撃って捕り手の伏見奉行所同心二人を殺
谷干城ら、坂本龍馬や中岡慎太郎と関係の深かった土佐藩の人々は、坂本・中岡を殺害したのは新選組だと信じ、新政府軍に投降した近藤勇の首を刎ねました。同時に元新選組の大石鍬次郎を捕えるのですが、取り調べに対し大石は意外な供述をします。刑部省口書一橋家来大石捨二郎(「伜」脱か)元新選組大石鍬次郎口上年三十二歳(前略)その節、伊豆太郎(※.加納鷲雄)より相尋ね候にて、京師に於いて土州藩坂本龍馬殺害に及び候も私共の所業にこれ有るべし。その証は、場所に新選組原田左之助差料の刀鞘落
慶応三年(1867)十一月十五日、河原町通蛸薬師下ルの醤油商・近江屋の二階で坂本龍馬・中岡慎太郎、そして龍馬の家来藤吉の三人が殺害されましたが、襲撃者に関しては事件直後から「新選組等の仕業なるべしとの報知也」(『寺村左膳日記』)「坂本首馬暴殺の事、いよいよ新撰(組)に相違無き向き、聞き申し候」(『大久保利通書簡』)「相手は恐らくは新選組中ならんとの事」(『丁卯日記』)などと、新選組がやったに違いないという噂で持ち切りでした。そして三日後の十一月十八日の夜、新選組を脱退し
坂本龍馬さん坂本龍馬(さかもとりょうま)通称:直柔、龍馬、才谷梅太郎1836年1月3日(天保6年11月15日)生まれ、1867年12月10日(慶応3年11月15日)、満31歳没。土佐国土佐郡上街本町一丁目(現・高知県高知市上町一丁目)生まれ、江戸時代末期の志士、土佐藩郷士。土佐藩郷士の家に生まれ、脱藩したあとは志士として活動し、貿易会社と政治組織を兼ねた亀山社中(のちの海援隊)を結成した。薩長同盟の成立に協力するなど、倒幕および明治維新に関与した。1866
慶応三年(1867)十一月十五日、河原町通蛸薬師下ルの醤油商近江屋二階にいた坂本龍馬と中岡慎太郎、そして龍馬の家来藤吉は何者かに襲われ、殺害されてしまいました。三人の遺体は三日後の十八日に東山霊山(りょうぜん)の霊明舎(れいめいしゃ。現在の霊明神社)に仲間によって運び込まれ、神式をもって埋葬されました。「霊明神社神霊帳」に◯同(慶応)三年卯年十一月十五日実葬ナリ坂本龍馬紀直柔神霊同三十三才◯同上十六日実葬ナリ中岡慎太郎直正神霊同三十歳◯同上実葬ナリ藤吉神霊
峰吉らに救出された中岡慎太郎はひどい重傷を負っていたものの、なんとか話が出来るぐらいに回復しました。それでも今で言う絶対安静の状態であったのは間違いありませんが、中岡は苦しみながらも力を振り絞って今何が起きたのかを語りはじめました。一方、近江屋新助や峰吉らは目の前の土佐藩邸や、河原町通東側の三条通のひとつ南の筋にあった海援隊屯所の酢屋、白川の陸援隊屯所など各所に走って急を報せ、土佐藩士の谷干城、毛利恭助、海援隊の白峰俊馬、陸援隊の田中謙助(光顕)、二本松薩摩藩邸から吉井幸輔などが次々と
慶応三年(1867)十一月十五日の夜五つ半(午後九時)過ぎ頃、四条小橋の鳥新で軍鶏肉を購入した峰吉が河原町通蛸薬師下ルの近江屋に戻るまで、せいぜい3,4分ほどだったでしょうか。玄関の板戸を開けて中に入ると、土間に見馴れない下駄がありました。誰か来客かと思いつつ板間に上がろうとすると、突然背後から声をかける者がありました。「峰吉か。静かにせい。いま龍馬がやられた。賊はまだ二階におる」ギョッとして振り向くと、土佐藩下横目(目付配下の最下級役人。いわゆる岡っ引き)の嶋田庄作が抜刀し
慶応三年(1867)十一月十五日のこと。土佐陸援隊の隊長中岡慎太郎は昼八つ半(午後三時頃)に白川の屯所を出ました。四条河原町の土佐藩邸の目の前にある醤油商近江屋に下宿している坂本龍馬を訪ねるためでした。途中、河原町四条上ル東側にあった書店菊屋に立ち寄りましたが、中岡はかつてこの菊屋に下宿していたことがありました。中岡は菊屋の息子峰吉に手紙を渡し、今から麩屋町通錦小路上ルの薩摩屋という店に行ってこの手紙を渡してほしい。自分はこれから坂本を訪ねるから、返事は近江屋に持って来るようにと頼みま
主君山内容堂らと共に大政奉還の建白書に署名した土佐藩参政・寺村左膳(道成)は、慶応三年(1867)十月十四日に将軍徳川慶喜がこれを受け入れると、その報告のために一旦土佐に帰国しました。そして左膳は十一月十二日に再び上京します。その三日後の十一月十五日、左膳は同僚五人と連れ立って四条まで芝居見物に出かけました。左膳らが見たのは果たして北座だったか南座だったか。朝七つ(午前4時)頃に出かけて夜五つ時(午後8時)頃まで見たというから丸一日芝居小屋に入り浸っていたことになりますが、その帰り道、