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楽しい古都巡りも最終日。本日も天気が良いな~。3日間、天候にはホント、恵まれましたなー。ありがたい、ありがたい。最終日はこちらに参ります。都から離れた里山風景。いや~風情がございます。ハイ、こちらは大原・三千院です。城門のような門。(御殿門)入ると・・・やはり枡形になっている・・・。「外敵の侵入」に備えた作りだ。やはりお寺というのは・・・ね。汗汗。注意しなければいけないのは、実はこちらはわりと新しく、明治以降の建物が多いようだ・・・。意外?笑。ただし、明治と言っても
みなさんおはようございます髪色また明るくした真央ですやっぱり冬の時期服全体暗くなりがちかなと思い髪だけは明るくしたくなりましたそしてまた今回も描いた絵を載せます外国人の方々に日本アピールしたいと思い足利義満足利義政を描きましたそれぞれ背景はお寺のカラーにしましたが義政は銀閣寺に銀を塗れなかったせめて絵だけは背景を銀にしようと思い銀にしましたまた更新します
こんにちは、城跡で日本を元気にする「城跡地域活性活用専門アドバイザー」であり「日本マイナー歴史研究専門家」の原一六四(ひろし)です。本日も「謀反・反逆・裏切るから見る戦国史」シリーズです。応仁の乱の続きを書いていきたいと思います。前回、畠山家の跡継ぎ問題から上御霊社の戦いが起き応仁の乱のキッカケとなるところまで書きましたが、本日は一色義直(いっしきよしなお)邸の戦いに舞台が移ります。上御霊社の戦いの後、不穏な情勢は続き細川勝元と山名宗全の対立が激化していくなか、様々な事
こんにちは、城跡で日本を元気にする「城跡地域活性活用専門アドバイザー」であり「日本マイナー歴史研究専門家」の原一六四(ひろし)です。本日から謀反・反逆・裏切るから見る戦国史シリーズをお送りします。前回、「長尾景春の乱」を書きましたが、今回は、そもそも戦国時代を作ってしまった「応仁の乱」について書いてみたいと思います。この「応仁の乱」については、なかなかに複雑なので、私なりの私見を踏まえ、戦を通しながら「応仁の乱」を見ていきたいと思いますので、良かったら、お付き合いの程を。「応
(銀閣寺)11月12日比叡山を下り、京都市へ入りました。多くの有名寺院がありますが、銀閣寺を久しぶりに訪れました。足利義政が隠棲生活を送るために、銀閣寺(東山慈照寺)を1482年に建立したことに始まります。これは、祖父の足利義満が建立した金閣寺(鹿苑寺)にならったものです。木造2階建てですが、1階は書院風、2階は唐様仏殿の形式であるとされています。銀閣を取り巻く庭園は綺麗に手入れがなされていました。紅葉が見頃になっているため、池、樹木、苔、砂庭園などが
こんにちは😃でんちゃんです‼️しばらく投稿が途切れていましたがご了承ください。関西の方に研修に行っていました😀☝️慈照寺銀閣です‼️足利義政公の別荘の慈照寺銀閣。実に歴史を感じる素晴らしいものでした‼️※歴史のおさらいです。足利義政が京都に建てた別荘は、慈照寺銀閣です。そして、慈照寺の文化は東山文化です。茶番はさておき…本題です🔎みなさんは正に受験期真っ只中ですね。それは私も同じです。というわけで、投稿頻度が落ち込んではいましたが、これからは、
初代将軍足利尊氏2代将軍足利義詮3代将軍足利義満4代将軍足利義持5代将軍足利義量6代将軍足利義教8代将軍足利義政http://www.nanndemo.info/kaoh_photo/kao_asikagashougun.html
さてさて、今日も続きを書いていきましょう。バスを降りると右手にこんなのが見えました。哲学の道です。私が行った時は、10月末だったので参道を通る観光客もこんな感じで少ない。11月に入り、息子のジョリーがここに来た時は、ぶつかり合う位の人混みだったそうです。到着、ここが門です。実は銀閣寺に来た小学4年生の時以来です。なんで大人になってからここに来なかったのかと言うと…「京都のバスに乗るのが嫌だから」そう、激混みが嫌だからね。(笑)しかし、今回はバス空いてたよ。座れ
銀閣寺へ行きました。正確には東山慈照寺ですね。ひがしやま、って読むんじゃなくて、とうざんじしょうじ、って読むそうですよ。今日から京都はあちこちで特別拝観が始まり、どこへ行こうかとそわそわします。'行ったことがあるかもしれないけど全く記憶がありません。いわゆる銀閣。観音殿です。観世音菩薩を祀っているそうです。非公開です。今は風化してほとんど残っていませんが、黒漆が使われているそうです。それがキラキラ反射して見えるところから銀閣と呼ばれたそうな。研究の結果、銀は1グラムも使われていないそ
第一〇三代後土御門天皇は、室町時代の天皇です。御父は後花園天皇、御母は藤原信子。御名は、成仁(ふさひと)。一四四二年生。在位は、一四六四年から一五〇〇年。一四六六年(文正元年)に大嘗祭が執行されましたが、翌年応仁元年に応仁の乱が起き、以降九代二二一年にわたり中断しました。応仁の乱は、八代将軍足利義政の弟義視と、義政の子義尚が次の将軍の座をめぐって対立したのが発端の乱です。京都を主戦場に約十年に及んだため、後花園院と後土御門天皇は、義政の室町邸を仮宮として10年近くを過ごし、その後も北
昨日のこのブログで、私がお手伝いをしている高校の「総合学習」の中で、現在、高校生たちが「日本庭園の良さを、若い人に伝えたい」というテーマと取り組んでいることを述べた。その場合、「日本庭園」をどのように定義づけるか、ということの難しさも少しだけ述べた。実はこの「日本庭園とは何か」という問い掛けは、そのまま「日本文化とは何か」とか、「日本人の精神性とは何か」という問い掛けと同義の問いであるように思える。(等持院の方丈前の「心字池」の庭)日本庭園の、時代による変遷そのものが、その
東山慈照寺(じしょうじ)銀閣寺御朱印金閣寺と並ぶ京都楼閣建築の代表寺院で相国寺の境外塔頭です。室町時代後期に栄えた東山文化を代表する建築と庭園!東山文化‥‥中学生かな?習いましたね✏️銀閣寺を創建したのは室町幕府8代将軍の足利義政。足利義政ってどんな人かと言うと・将軍候補じゃないのに将軍になった・政治に関心がなかった・奥さんの日野富子がとっても怖かった・11年も続いた応仁の乱の原因を作り戦国時代のきっかけを作ったという人物なんですしかし、日本の美である侘び
室町時代後期を舞台に、戦国の世へと導いた応仁の乱のきっかけを作った悪女として名高い足利義政の妻・日野富子の波瀾の生涯・・・。大河ドラマ花の乱総集編DVD全2枚セット8,424円楽天
関西旅行の三日目は、金閣寺と銀閣寺。京都市営バスの一日乗車券を購入して、まずは京都駅→金閣寺。金閣寺は、バックの北山を借景に、素人がスマホで撮っても、絵はがきみたいな写真が撮れる。足利義満、一休さん、北山文化、川端康成の「古都」…。色々な単語を思い出しました。続いて、金閣寺→銀閣寺。北山文化から東山文化。あれこれ浮かぶ単語。侘びさび、足利義政、鹿ヶ谷事件に俊寛…。こちらも東山をバックに、苔むしたお庭もしっとり綺麗。参道のお茶屋さんで頂いたお団子が、美味。何本でも、行けそう。
京都にある吉田山の茂庵カフェに行った平日なら人少ないと思ってたんだけど、オープン少し過ぎの時間に着いたら既に待ってる人がふるカフェ系ハルさんの休日っていう番組で紹介されてたからなのか、以前からなのかわからないけど、大人気のカフェアクセスもいいとは言えないのにそれでもこんな人気とはこんな道や、こんな階段登って歩くこと15分、帰りは別のルートで帰ったら、そこも結構こんな感じだった笑ついに到着!(*´ω`*)趣ある京都らしいカフェ☕️😌✨どこからかキンモクセイの甘い香りが
前回のブログでコメントくださったり、いつもいいねしてくださったり、通りすがりの方だったり、閲覧数も伸びないこんな個人ブログでも見てくださってる方がいて、とってもありがたいなと思うこの頃です♡本当にありがとうございます少し心も穏やかになりつつあって世間の三連休のうち、土曜しか休みじゃなかったけど、お天気良かったし息子と母と、銀閣寺に行ってきましたまずは、懐かしのますたにへ息子のメンマ入れられたから、メンマ多いけど。笑十代の頃良く食べてたな〜って懐かしかったからのトコトコ哲学の道歩いて〜
雨が降ってる京都市内です☔️さて、午前中と午後少しにかけて、銀閣寺と平安神宮に行ってきましたまずは銀閣寺から10年ぶりでした銀閣寺(慈照寺銀閣)は、室町幕府8代将軍・足利義政が東山に建てた別荘祖父である3代将軍・足利義満が北山に建てた金閣に影響され、建てられました“わび・さび文化”の象徴としても有名で、代表的な書院造がこの銀閣に用いられています銀閣に銀箔が貼られなかった理由として、応仁の乱での経済難の影響が有名だけど、もう一つ「もともと貼る予定が無かった」という説も僕は後者の説を
「太陽の文化」と「月の文化」が相互に補い合いながら推移してきた日本の歴史。時代をさかのぼってみます。まず室町時代です。室町時代は一三三八年、初代将軍、足利尊氏が京都に幕府を開いてから約二百年間です。最も繁栄したのは、三代将軍義満の時代、後醍醐天皇が政治的権力を武士から朝廷に戻そうと京都に対して南に位置する今の奈良県吉野町に拠点を設けて始まった南北朝時代を統一してからです。中国大陸の明王朝との勘合貿易を実現し、その財力を費やして北山地区につくった金閣寺(鹿苑寺)が、足利幕府の最も輝いた
立命館大学の広大な敷地の片隅に佇む臨済宗天龍寺派の名刹・等持院。室町幕府初代将軍・足利尊氏公の墓所があると知り参詣しました。四季折々素晴らしい名勝庭園は必見ですよね。ホームページの写真なんて本当に美しい。ただし、庭園の中央に在る霊光院が工事中なもんですから・・・。写真にその一部が入るとちょっと残念な感じに(笑)。パンフレットによれば1341年、足利尊氏公が天龍寺の夢窓国師を開山にお迎えして創建されたそうです。境内にはその尊氏公の墓所がありますが何とも質素な
こんにちは、城跡で日本を元気にする「城跡地域活性活用専門アドバイザー」であり「日本マイナー歴史研究専門家」の原一六四(ひろし)です。本日は、愛すべき残念な武将シリーズです。今回の主人公は、細川政元君です。細川政元君は、応仁の乱の東軍の総大将・細川勝元の息子です。応仁の乱は、皆さんもご存知かと思いますが、足利家の将軍の後継者争いが元で起きた戦乱ですね。細川勝元(東軍)と山名宗全(西軍)が、それぞれの後継者側について戦った争いです。その最中に、今回の主人公の政元君の、お父さ
キヨタツさんも、うえぽんも、ひろも、くまちゃんも色々あるよね。と思った本日でした。という事で、今回軽く「応仁の乱」について、少しだけ触れておきます。1467年の京都ではこんな事がありました。世継ぎの生まれない足利義政と日野富子夫婦。もう、子供出来ないんじゃね?と思っていました。次の将軍を足利義政の弟に譲った直後!!!日野富子に待望の第一子ができました。しかも、男!でも、将軍はもう義政の弟がなってました。弟はこう思ったでしょう、、「えっ、、嘘、、」ここで夫婦は話し合いをしたでしょ
富樫家の家督相続へ介入していた畠山氏に内訌が勃発します。実子のいなかった畠山持国は甥を養子に迎えて家督を継がせようとしましたが、側室に義就が生まれると心変わりします。勝元・宗全にとっては持国追い落としのまたとない機会の到来です。持国は勝元と宗全に家督争いへ介入され、失意のうちにこの世を去ります。ちなみに、持国の甥も他界してしまいますが、その弟の畠山政長が義就とその後も家督を争い続け、家中が二分され、名門畠山は没落していきました。こうして畠山との政争を制した
銀閣(寺)に行ってきたよ♪̊̈♪̆̈金閣(寺)には何年か前に行ったけど、あまりの違いにびっくりするね!\(°Д°)/でも、私はこっちのが好き♡「応仁の乱」の主役?というか、原因を作った張本人だよね。足利義政。(室町幕府8代将軍)正室、日野富子。幕府の財政難と土一揆に苦しみ政治を疎んだ。幕政を正室の日野富子や細川勝元・山名宗全らの有力守護大名に委ねて、自らは東山文化を築くなど、もっぱら数奇の道を探求した文化人。元々政治に興味はなく、雅な世界に浸つていたいのんびり屋さん。つらきかな曽
読者の皆様は、「正長の徳政一揆」という大規模な一揆をご存知ですか❓大学受験では、センター試験でも出題される、高校生にとっては標準的な歴史事項になります。正長は「しょうちょう」と読み、当時の元号のことを指します。徳政一揆は「とくせいいっき」と読み、徳政令の発布を要求する土一揆を指します。少し補足が必要です。「徳政令」についてです。徳政令は、中世(主に鎌倉時代・室町時代を指す)に行われた債権・債務の破棄を命ずる法令のことをいいます。鎌倉時代に出さ
嘉吉の乱から一〇年以上のちの享徳三年(1454)、自刃した赤松満祐の甥にあたる則(のり)尚(ひさ)を幕府に出仕させようとする動きがでます。赤松一族は宗全を敵と思っています。しかも、宗全は満祐自刃ののち、播磨を分国としていました。宗全にしたら、とうてい赤松家の再興は認められません。宗全は「将軍(義政)が親(義教)の仇を取り立てるとは何事か」と罵ったといいます。その声が将軍の耳に達し、宗全追討の話が持ち上がります。このとき、娘婿であった勝元が義政を宥
今日は、金閣寺と銀閣寺に「サクッ」と、触れてみたいと思います。両方とも室町時代のお話し。まず、金閣寺。三代将軍足利義満(※1)は、現在の京都市北区の地に北山殿(きたやまどの)という別荘を建てました。死後、その遺言により、北山殿の敷地内に夢窓疎石(むそうそせき)(※2)を開山として「鹿苑寺」(ろくおんじ)が建ちます。その舎利殿は三層からなり、内外に金箔を貼りつけられたところから、俗に「金閣寺」と呼ばれるようになりました。鹿苑寺は、応仁の乱で消失します。昭和にも消失します(※3)が、再建されて
勝元はこの時代きっての文化人です。いわゆるインテリでした。彼が禅宗に帰依し、石庭で有名な竜安寺を建立した話は有名ですが、同時に勝元は和歌の達人にして、絵筆をとっても一流でした。死去する一年前には医書まで著しています。また、ある人が勝元を招いて饗宴した際、鯉の料理がでました。すると箸をとった勝元が一目見て、「これは淀川の鯉ですね。鯉は酒に浸す際に箸を入れると汁が濁ってしまうが、淀川の鯉はいくら浸しても濁らない」といったほどのグルメ。このほか、
朝起きたら雨は降ってなかったのでシーツ類を洗濯した。枕やクッションも外に干して、洗濯している間に朝ごはんを食べた。洗濯が終わって干そうと思ったら雨が降っていた。全然気付かなかった…。枕たち濡れてもーた。仕方なくしばらく室内干しにしていたが晴れてきたので外に干した。その後は雨が降らなかったのでよかった。枕たちも乾いた。午後からツタヤディスカスで借りた「義経」の続きを見た。義経って人を惹きつける魅力や人望があったのかな。この人が悲劇のヒーローになってゆくなんて切ないね。それから