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読者の皆様は、「正長の徳政一揆」という大規模な一揆をご存知ですか❓大学受験では、センター試験でも出題される、高校生にとっては標準的な歴史事項になります。正長は「しょうちょう」と読み、当時の元号のことを指します。徳政一揆は「とくせいいっき」と読み、徳政令の発布を要求する土一揆を指します。少し補足が必要です。「徳政令」についてです。徳政令は、中世(主に鎌倉時代・室町時代を指す)に行われた債権・債務の破棄を命ずる法令のことをいいます。鎌倉時代に出さ
嘉吉の乱から一〇年以上のちの享徳三年(1454)、自刃した赤松満祐の甥にあたる則(のり)尚(ひさ)を幕府に出仕させようとする動きがでます。赤松一族は宗全を敵と思っています。しかも、宗全は満祐自刃ののち、播磨を分国としていました。宗全にしたら、とうてい赤松家の再興は認められません。宗全は「将軍(義政)が親(義教)の仇を取り立てるとは何事か」と罵ったといいます。その声が将軍の耳に達し、宗全追討の話が持ち上がります。このとき、娘婿であった勝元が義政を宥
今日は、金閣寺と銀閣寺に「サクッ」と、触れてみたいと思います。両方とも室町時代のお話し。まず、金閣寺。三代将軍足利義満(※1)は、現在の京都市北区の地に北山殿(きたやまどの)という別荘を建てました。死後、その遺言により、北山殿の敷地内に夢窓疎石(むそうそせき)(※2)を開山として「鹿苑寺」(ろくおんじ)が建ちます。その舎利殿は三層からなり、内外に金箔を貼りつけられたところから、俗に「金閣寺」と呼ばれるようになりました。鹿苑寺は、応仁の乱で消失します。昭和にも消失します(※3)が、再建されて
勝元はこの時代きっての文化人です。いわゆるインテリでした。彼が禅宗に帰依し、石庭で有名な竜安寺を建立した話は有名ですが、同時に勝元は和歌の達人にして、絵筆をとっても一流でした。死去する一年前には医書まで著しています。また、ある人が勝元を招いて饗宴した際、鯉の料理がでました。すると箸をとった勝元が一目見て、「これは淀川の鯉ですね。鯉は酒に浸す際に箸を入れると汁が濁ってしまうが、淀川の鯉はいくら浸しても濁らない」といったほどのグルメ。このほか、
朝起きたら雨は降ってなかったのでシーツ類を洗濯した。枕やクッションも外に干して、洗濯している間に朝ごはんを食べた。洗濯が終わって干そうと思ったら雨が降っていた。全然気付かなかった…。枕たち濡れてもーた。仕方なくしばらく室内干しにしていたが晴れてきたので外に干した。その後は雨が降らなかったのでよかった。枕たちも乾いた。午後からツタヤディスカスで借りた「義経」の続きを見た。義経って人を惹きつける魅力や人望があったのかな。この人が悲劇のヒーローになってゆくなんて切ないね。それから
京都の2日目は銀閣寺へ。8代将軍足利義政が応仁の乱からの俗世から目を背けるためにつくった隠居施設の銀閣寺。わびさびの落ち着く雰囲気にどっぷりつくりました。娘より。何で銀閣寺なのに、銀が貼ってないの??そんな疑問を解消すべく向かいました。大人の僕としての回答は、みればわかるから。景色と寺が一体化した姿が圧巻。隠居して余生を過ごしたであろう庭のかくどのしゃしんがこちら。緑に和みました。そして天空から差し込む光。もうなんていうか、ただの森林浴です。最高でした。そして昼は清水
応永二十六年六月十八日、1419年7月10日、伏見宮貞成(さだふさ)親王の第一王子として彦仁(ひこひと)王が誕生されました。伏見宮家は崇光天皇の第一王、栄仁親王を祖とする持明院統の嫡流に当たる世襲親王家で彦仁王は崇光天皇の曾孫にあたります。第百一代称光天皇の御世でしたが、天皇には皇子がなく弟も薨去されていたので、天皇が崩御されると後小松上皇は彦仁王を猶子に迎え皇位につけました(後花園天皇)。貞成親王は伏見宮家の二代目当主でしたから、宮家の役目を果たしたことになります。称光天皇ま
こんにちは!ホシサトミです(^^)ホシサトミ商店の品揃え【8/4(土)室蘭】こども習いごといろいろ体験会】10/29(月)札幌!かたやまひでこさん言霊セミナー詳細は後日♪11月上旬札幌!今村愛子さんグループファッションコンサル先行予約できます♪HAPPY営業術オンラインセミナーアラサー、アラフォー、アラフィフの女性向けショップ!ホシサトミ商店親勉体験会親勉初級講座親勉中級講座オンライン自習室(無料)北海道室蘭市近郊住宅塗装広報ホシサトミ商店への
『この国のかたち-1』-司馬遼太郎●千利休-③✪堺の室町のころ、将軍や公家や、守護、あるいは門跡にとって身分にふさわしい光沢というのは、「源氏」や「新古今」などの古典に通じていることだった。室町体制がくずれて地方々々に出来星の大名が出はじめると、かれらも教養という装飾を身に付けるべく都から連歌師をまねいた。宗祇(そうぎ)や宗長(そうちょう)のたぐいであった。ただし、尾張の信長にはその方面の素養も趣味もなかった。しかし、信長が卓越した造形美の理解者だったことに驚かざるをえない。たとえば
関西本線島ヶ原駅から北へ2km程のお寺に来ました寺院名;島王山西念寺宗派;天台真盛宗御本尊;阿弥陀如来所在地;三重県伊賀市島ヶ原中村4251TEL;0595-59-3061西念寺は御土御門天皇、足利義政、日野富子等の帰依があり天台真盛宗開祖・真盛上人に帰依した村人により明応2年(1493)に開創されたと伝えられてます榧の木は将棋盤や囲碁磐の用材として、平安時代初期の仏像用材として使用される加工のし易さと美しさが特徴で
水が一番楽だったので最初に終わってました狐いるモンスター可愛い説ジュン可愛いよー
ご訪問頂きありがとうございます。花工房utatane~うたたね~です。フレッシュフラワー・プリザーブドフラワー・アーティフィシャルフラワー・ドライフラワーアロマフレグランスストーン&クレイオートクチュールドール*〜〜*〜〜*〜〜*〜〜*昨晩、家の前で捕まえたクワガタにバナナをあげて、一晩…朝居なくなってましたここ、リビングなんだけど…何処に行ったの〜〜未だに見当たりません。生きてたら良いんだけど(°_°)京都に行ったついでに、銀閣寺に行って来ました
2018GW奈良京都旅行です♪バスターミナルは大混雑600円のバス一日乗車券を購入バスは1回230円なので3回のればもう元とれますね100円周遊バスも走っているけど銀閣寺到着御堂まで直線じゃなく曲がっているのねブラタモリでちょうどあっていたここは何を表しているかわからないと初めてきたわびさびがあり素敵しかしよく見てください丁度8時半くらい2階にお掃除の人がいるのあちらこちらで開始されていた中を少し覗き見ることに成功
銀閣寺(東山慈照寺)へ行きました(5/23)臨済宗相国寺派に属する禅寺で建立は文明14年(1482)室町幕府八代将軍足利義政公小雨もやみ清らかな空気を感じながら庭園を歩きました。銀閣観音殿を頂上から眺めました。総門から中門への参道銀閣寺垣と呼ばれる竹垣の調和が森厳で素敵でした。銀閣寺庭園にある向月台と銀沙灘向月台・・・高さ180センチの砂山銀沙灘・・・高さ66センチ波紋を表現月の光を反射させる役目をもつといわれているそうです。銀閣寺の庭がこん
19日に法然院でのLIVE(見る側)があり、そのLIVE前の時間が急遽あいたことで、これまで実は行ったことのなかった銀閣寺に初めて行きました。マップ中門入ってすぐの庭庭を過ぎると銀閣と呼ばれる慈照寺が見えます。拝観時間ギリギリに行きましたが、土曜日ということもあり人は多かったですね。横には八幡社という神社も向月台。見事な銀砂の芸術といったところ洗月泉という場所にある滝。左の石のところには賽銭も高台に上る階段手前には小さい川もお茶の井。足利義政公の
先日は、相国寺へご案内いたしました。ヽ(゚◇゚)ノ足利義満が夢窓疎石を勧請開山し創建しました。創建当時は今の十倍程の広大な敷地を有していたそうです。壮麗な大伽藍を誇る名刹です。o(^▽^)o江戸当時、一流の文化人が集った禅寺・相国寺は足利義満が建立した京都五山第二位の寺、堂宇は新しくなっているものの、厳粛な雰囲気は昔のままです。(*^o^*)相国寺は伊藤若冲ゆかりの寺院で知られています。境内には永代供養の際に若冲が遺髪をおさめた寿蔵があり、堂内の位牌には今も毎日お経があげ
前3篇のブログ♪『東の丸太町通♪(東大路~白川通~鹿ヶ谷通)』『新緑のお散歩道♪(哲学の道♪)』『新緑の銀閣寺♪(東山慈照寺♪)前編♪』のつづき♪GW中の5月5日のお出かけのコト…銀閣寺の庭園を散策中…(銀閣寺境内図♪)・・・・・・・・・・・・・さっきの分かれ道♪さっきはココを左に行くと弁財天の祠やったよね♪今度は右に行こ♪コッチの道は登りみたい…右に♪左に♪ってカンジ…ちょっとした山道みたいやね♪向こうにひらけた場所が見えてきた♪山肌に石がいっぱい突き出た崖が…
ルイ・ヴィトン「TIMECAPSULE」展が大阪に!アーカイブ製品と創業からの歴史を振り返るFashionPressルイ・ヴィトン(LOUISVUITTON)のアーカイブ製品やオブジェと共に、技術・デザインの軌跡を振り返る「TIMECAPSULE」展が、2018年7月14日(土)から8月1日(...チャーチルの知られざる苦悩とは?歴史的な作戦決行までの96時間描く人間ドラマ映画ナタリー英国の元首相ウィンストン・チャーチルが主人公のヒューマンドラマ「Churchill」が、
銀の色は、英語でシルバー、日本語で銀色または、白銀色(しろがねいろ)と言われています銀色は明るい灰色で、金属を磨いて光沢のある銀の表面のような色を表します英語のシルバーグレー、シルバーホワイト、日本語の銀鼠(ぎんねず)など、輝きを持った美しい灰色系や白の形容に用いられます足利義政の時代に作られた銀閣寺の壁面は、近年の調査で、実際には銀箔を貼った痕跡は無かったようだと言われています外壁には、黒漆が塗られ、その漆が日光の加減で銀色に輝いて見えたことから、銀閣寺という名前で呼ばれるようになった
今日は5月の第2日曜日、つまり母の日。朝から家人宛てに息子夫婦と娘夫婦から、それぞれプレゼントが届いて、華人は大喜びしている。私は、昨日までの〝怒涛の″週後半を過ごして、少しだけ疲れてぼんやりしている。今日は朝から、しっかりとした雨になった。韓国の古い友人夫妻が京都を訪れていることは、すでにブログ書いた。彼らは、今日午後の飛行機で韓国へ戻って行った。実に京都にいる間だけ好天に恵まれた、という結果に私もホッとしている。木曜日の夜に一緒に食事をした後、金曜日は彼らだけで、一日、嵐
私は“リンダ”派です!『ブラタモリ』――亀和田武「テレビ健康診断」私は“リンダ”派です!『ブラタモリ』――亀和田武「テレビ健康診断」近江友里恵アナの朝への転出に伴い、『ブラタモリ』五代目アシスタントになった林田理沙アナが、京都東山・銀閣寺の回でデビューした。「林田理沙と申します。よろしくお願いします」。緊張している林田アナに、タモリが「なんて呼べばいいの?」と訊く。音読みで「リンダ」と呼ばれることが多いです。「リンダ……リンダ……うーん、一日考えよう」と、いまひとつ納得できない様子のタ
今回は春の特別拝観を兼ねて哲学の道を訪ねましたまずは京都駅から銀閣寺道までバス🚌で移動だぁ〰️慈照寺[じしょうじ]銀閣寺を創建したのは室町幕府8代将軍の足利義政です。義政は祖父である足利義満が建てた金閣寺を参考に、京都東山・大文字山の麓に東山山荘(東山殿)の造営を始めました。義政は建築を始めた翌年(1483年)にはここに移り住み、別荘としてだけでなく表向きの仕事にも使っていました。金閣寺ほどの規模はありませんが、銀閣寺にも会所、常御所(つねのごしょ)などの大規模な建物が建ち並んで
GW後半の土曜日は快晴。お出かけ日和!ほいじゃあ行きますか。銀閣寺行きますよ。淀屋橋から京阪電車で出町柳駅下車。そこからのーんびり徒歩で30分で到着。テレッテレー…テレッ!こないだブラタモリでタモさんが銀閣寺に来てて、もうこれは行くしかないと。入ってすぐ左にある沙灘。向月台。何のために作られたかはよくわかってないらしいけど、どこかのガイドさんの話に聞き耳を立てたところ、どうやらこの辺りの地質が関係あるっぽい。何となく、この空間には不似合いな気がしないでもない…。で、これ
芸術的四畳半〜義政の愛した「同仁斎」バウヒュッテー「同仁斎」〜侘び寂び蒲生文化バウヒュッテ<独り住宅>が生まれた時代背景バウヒュッテの生まれた時代背景には、小工という存在が出てきたことが大きく関わってきます。バウヒュッテは、小工の住宅の形式として東日本大震災を契機に平成時代後期にかけて成立しました。小工が自分の家を構え、家族住宅が発達する中、平安時代からの寝殿を中心とした寝殿造からこの書院造へと移り変わっていきました。蒲生三丁目の家の「同仁斎」では、
芸術的四畳半〜義政の愛した「同仁斎」バウヒュッテー「同仁斎」〜侘び寂び蒲生文化バウヒュッテ<独り住宅>が生まれた時代背景バウヒュッテの生まれた時代背景には、小工という存在が出てきたことが大きく関わってきます。バウヒュッテは、小工の住宅の形式として東日本大震災を契機に平成時代後期にかけて成立しました。小工が自分の家を構え、家族住宅が発達する中、平安時代からの寝殿を中心とした寝殿造からこの書院造へと移り変わっていきました。蒲生三丁目の家の「同仁斎」では、プライベー
5/1、今日の最大の目的は瑠璃光院です。バイキングのモーニングで昼の分まで食べて、ホテルをチェックアウト、バスでまず源光庵へ向かいます。平日なので、途中の佛教大学へ通学する学生で混んでいました。源光庵はバス停を降りてすぐの静かな住宅街の中にあります。ここの目当ては丸窓と角窓です。丸窓は悟りを開いて円になった悟りの窓、角窓は人生四苦八苦していることを表わしている迷いの窓だそうです。窓から見える新緑が鮮やかです。比較的空いていたので、じっくり見ることができました。続いて、バスを乗り継ぎ、次の
芸術的四畳半〜義政の愛した「同仁斎」バウヒュッテー「同仁斎」〜侘び寂び蒲生文化バウヒュッテ<独り住宅>が生まれた時代背景バウヒュッテの生まれた時代背景には、小工という存在が出てきたことが大きく関わってきます。バウヒュッテは、小工の住宅の形式として東日本大震災を契機に平成時代後期にかけて成立しました。小工が自分の家を構え、家族住宅が発達する中、平安時代からの寝殿を中心とした寝殿造からこの書院造へと移り変わっていきました。蒲生三丁目の家の「同仁斎」では、プライベ
室町末期。名門・畠山家の次男・直光には将来を誓い合った幼なじみ阿古姫がいた。ところが、阿古姫の父・大納言が急逝した際、八代将軍・足利義政が言い放ったひと言が、2人の運命を大きく狂わせる。それは、畠山家の兄弟で、阿古姫を娶ったほうに官領職を継がせるというもの。これによって、家督も次期官領職も手に入るはずだった兄・信津綱は動揺し、阿古姫を力ずくで奪いに掛かる。直光は阿古姫のためにすべてを捨てる決意を固めるが…。【中古】DV