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『裏表太閤記』の中のお芝居ではございませんが『小栗栖の長兵衛』と云う山崎の合戦に所縁のお芝居がございます。2014年9月のおもだかや一門襲名披露の巡業公演で中車さんが『小栗栖の長兵衛』を勤められました。明智光秀を小栗栖村で討ったのがこの村の暴れ者の長兵衛でその日が天正10年6月14日。羽柴秀吉と明智光秀の山崎の合戦が6月13日で、その次の日のお話です。そして『小栗栖の忠兵衛』のお芝居の天正10年6月14日の同じ日に琵琶湖ではある出来事が起こっております。明智光秀の弟に、明智左馬
※和意谷池田家墓所案内板・・・池田輝政公の墓所は「一のお山」になります※和意谷池田家墓所石碑…平成10年に国指定史跡になっています池田輝政公の墓1️⃣戦国武将の墓・供養塔シリーズ戦乱の時代は、おおまかに言うと応仁の乱(1467年応仁元年)から大坂の陣(1615年)までで3つのカテゴリに分類されると思います。1️⃣戦国時代応仁の乱(応仁元年1466年)から室町幕府の滅亡、織田信長政権の成立(天正元年1573年)2
こんにちは。最近は春らしくなってきました。そんな中、お昼前の空です。曇り空ですが、明るいのでそんなに雨の心配はないのかな。そんな今日、4月6日は・・・。しろの日兵庫県姫路市が1991年に、日本三大名城の一つ姫路城を中心とした市の復興の為に制定。四(し)六(ろ)で「しろ」の語呂合せ。姫路城は、1333(元弘3)年に赤松則村によって築かれた。西国統治の重要拠点として羽柴秀吉・池田輝政・本多忠政が城を拡張し、現在の形になったのは1619年であった。五層
福知山城は京都府福知山市にある平山城で、福知山盆地の中央に突き出た丘陵の先端地にあり、その地形の姿から臥龍(がりょう)城とも呼ばれています。明智光秀が織田信長の命を受けて1579年に丹波を平定し、西国攻略の拠点として福知山城と城下町を築き、明智の「智」の字を用いて「福智山」と名付けたと伝えられています。光秀は1582年の本能寺の変で、織田信長から一時的に天下を奪ったものの、山崎の戦いで羽柴秀吉に敗れました。その後、関ヶ原の戦いの後、有馬豊氏が
こんにちは。今回もこのところ続けています北近江からになります。前回の高島市より東側、このブログではお馴染みの長浜です。どうぞよろしくお願いいたします。山内一豊・千代(伊右衛門屋敷跡)北近江の首都・長浜の玄関口=長浜駅の北西方面のマンション傍にたつ戦国夫婦像があります。これは、私のブログでもお世話になっているB級投手Naokiさんから教えていただいた銅像です(あってますかね?)。銅像のある場所は「伊右衛門屋敷跡」とされている場所。伊右衛門さんとは山内一豊さんのことです。場所
※勝龍寺城模擬天守風資料館、模擬塀、模擬隅櫓、南水堀…かつて、勝龍寺城には天守(殿主、守)が存在し、南西隅に巨大な三重の望楼型の櫓(殿主)が建っていました水堀は、かつては東西南北にありましたが、市街地化により、消滅、現在は南、東水堀が残っています水堀幅は、現在でも10m以上あり、昭和初期ごろまでは倍以上あったようです城址は、平成4年(1992)に「勝龍寺城公園」として整備され、模擬建物が建てられ、市民の憩いの場となっています山崎古戦場6️⃣勝龍寺城①
現在の岡山県は令制国時代の備前国・備中国・美作国の三国にあたる。ここに備後国を加えて吉備国と古代日本では呼ばれていた。因みに備後国のみ現代では広島県に属している。前々々々回のこれね。『第二次西国乃旅路-其ノ捌-福山城』前回の山陽道を往く旅では備中国から先が未踏でしたが、今回は更進んで備後国へと進出。広島県福山市。これで備前・備中・備後の三備の地へ足を運ぶことに。岡山との県境…ameblo.jp今回は備前国から備中国へ。その前に本日の昼食。そしてここでアクシデント発
※境野1号墳に建つ「明智光秀本陣跡」の石碑と案内板…境野1号墳は明智光秀が「山崎の戦い」で布陣した本陣跡と言われています境野1号墳は、サントリー京都工場内にあるため、フェンスに囲まれ「立ち入り禁止」になっていますサントリー京都工場は、見学可能ですが、以前バスツアーで行ったときも、工場内に「光秀本陣跡」があることは全く知らず、ビールを飲みまくって終わりました境野1号墳は、従来まで光秀本陣跡「御坊塚」とほぼ「断定」されていましたが、ここから徒歩数分の所にある「巨大古墳・恵解山古
※天王山ハイキングコース山頂付近にある酒解神社大鳥居、案内板、神輿庫…酒解神社は中世期に現在位置に移りました神輿庫は鎌倉時代建立の建物で、国内最古の神輿庫建造物です山崎古戦場4️⃣山崎城②山崎古戦場には、今回初めて行きました。山崎古戦場跡は、現在「天王山夢ほたる公園」という京都縦貫道の高架の下にグランドがあり、古戦場の面影は全くと言っていいくらいありません。行ったときは「えっ!これ?」と思いました😅しかし、秀吉VS光秀「天下分け目の合戦」が行
歴史的にも重要なものなのだろうか?私には良く分からんちんです。仙台城跡の石垣など、整った石垣も素晴らしいですが、安土城跡の石垣、すっごく迫力があります。テニスが上手い選手とテニスが強い選手の違いのような・・・安土城は強い!って感じが強いです。二の丸跡には信長公本廟があります。羽柴秀吉によるようです。信長後継者を印象付けるためか?本丸と天守が別になっているなんて。安土城は何もかもが規格外!天守台跡、ここ全体に地上6階地下1階はデカイ!木々がちゃんと伐採されていたら、すごく良い
羽柴秀吉邸跡の向かいには、前田利家邸跡があります。この虎口、他ではちょっと見られない。いや、あるかも知れないけど、私の知識にはないです。石段の方からでは分からなかった。武井夕庵邸跡の石垣。修復とかしていない、残ったまんまなのかな。織田信忠邸跡。今は木々で遮られているけど、発掘などが進むと今よりもっと家臣や親族の邸宅跡が出て来るようです。石段の高さが緩やかに。森蘭丸邸跡。織田信澄邸跡。黒金門跡、石垣もより重厚さを増します!この先本丸ですからね。途中に供養塔。織田信雄四
時間ない!ゆっくりランチなんて摂れない!休みなく安土駅へ。安土駅前には信長公。岐阜駅前の黄金の信長公は撮れなかった・・・安土駅から安土城跡までは徒歩20分くらいかな。途中の川?池?かつてはお堀だったみたいです。城の麓まで琵琶湖だったらしい。安土城跡は入場に700円掛かりますが、入場前から遺構だらけです!入口に15:00到着。16:00に閉めるから、それまでに帰って来てねと言われる・・・先ずは長い石段!石は残っていたものを使い、比較的最近整備したもよう。上に行くに従い、石
はい!奈央です。今回は番外編でーす。古代における我が国最大の内乱である壬申の乱の異常さをご紹介したいと思います。壬申の乱(672年)天智天皇がお隠れになって半年ほどたった672年5月のこと。大海人皇子のもとに、大津京に不穏な動きがあるとの情報が入ります。同年6月24日、大海人皇子は吉野をお発ちになって不破へと向かい、大友皇子との戦いに挑まれます。壬申の乱ゆかり地マップなら記紀・万葉HPよりお借りしました。ここで、私が特に気になったのは、6月24日に吉
※天王山歴史マップと山崎城跡案内板…天王山はハイキングコースになっています(山崎城に登るのはちょっとキツイですが・・・)山崎古戦場3️⃣山崎城①山崎古戦場には、今回初めて行きました。山崎古戦場跡は、現在「天王山夢ほたる公園」という京都縦貫道の高架の下にグランドがあり、古戦場の面影は全くと言っていいくらいありません。行ったときは「えっ!これ?」と思いました😅しかし、秀吉VS光秀「天下分け目の合戦」が行なわれた場所であり、一度は訪れてみたいと思っ
題名:八本目の槍ASIN:B09X18W49H著者:今村翔吾出版社:新潮文庫メモ:「賤ヶ岳の七本槍」と呼ばれた、秀吉配下の七人の小姓たち一本槍:加藤虎之助(清正)二本槍:糟屋助右衛門(武則)三本槍:脇坂甚内(安治)四本槍:片桐助作(且元)五本槍:加藤孫六(嘉明)六本槍:平野権平(長泰)七本槍:福島市松(正則)実際は、もっと多くの部下が参戦していたようだが、語呂も良く、七本槍という名で、秀吉が宣伝材料に使ったのだろう表題の八本目の槍、
自転車の違反傘さして(違反1)歩道を(違反2)逆走(違反3)三冠王!無灯火で(違反1)歩道を(違反2)逆走(違反3)これまた三冠王!落合の安売りだ!えっ?し、四天王?(織田四天王)スマートフォンを操作しながら(柴田勝家)無灯火で(羽柴秀吉)歩道を(滝川一益)逆走(明智光秀)※先日実際に居ました・・・。完
※山崎宝積寺山門…仁王門とも呼ばれる江戸時代初期建立の巨大な門です府登録有文指定されています山崎古戦場2️⃣宝積寺山崎古戦場には、今回初めて行きました。山崎古戦場跡は、現在「天王山夢ほたる公園」という京都縦貫道の高架の下にグランドがあり、古戦場の面影は全くと言っていいくらいありません。行ったときは「えっ!これ?」と思いました😅しかし、秀吉VS光秀「天下分け目の合戦」が行なわれた場所であり、一度は訪れてみたいと思っていました。
豊臣秀吉さん豊臣秀吉(とよとみひでよし/とよとみのひでよし、旧字体:豐臣秀吉)または羽柴秀吉(はしばひでよし)改名:木下藤吉郎、秀吉、羽柴秀吉、藤原秀吉、豊臣秀吉別名:別名:元吉渾名:木綿藤吉、豊太閤、猿、禿げ鼠1537年3月17日(天文6年2月6日)生まれ、1598年9月18日(慶長3年8月18日)、61歳没。戦国時代から安土桃山時代にかけての武将、大名。天下人、(初代)武家関白、太閤。1941年~45年刊行、吉川英治の歴史小説『新
※天王山夢ほたる公園案内板…山崎古戦場跡は京都縦貫道造成工事、近年の学校建設、宅地開発、田畑化などにより、陣跡などは消滅、痕跡を窺い知ることは出来ません現在は、推定激戦地付近の京都縦貫道高架下に「天王山夢ほたる公園」が造られ、市民の憩いの場となっています山崎古戦場1️⃣山崎古戦場には、今回初めて行きました。山崎古戦場跡は、現在「天王山夢ほたる公園」という京都縦貫道の高架の下にグランドがあり、古戦場の面影は全くと言っていいくらいありません。行ったと
【問題】≪難問≫賤ヶ岳の戦いで、羽柴秀吉が本陣を置いたとされるのは次のうちどこか?【選択肢】木之本地蔵院竹生島丹生神社尾上浜【正解】木之本地蔵院【解説】賤ヶ岳の戦いにおいて、秀吉は木之本地蔵院(浄信寺、滋賀県長浜市)に本陣を置いたという。この時の戦火で寺は焼失したが、慶長6年(1601)豊臣秀頼の命により再建された。
NHKの大河ドラマを初めて面白いと思ったのが『国盗り物語』1973年、私が20歳の時分の作品だもちろん司馬遼太郎の原作も読んだが原作よりドラマのインパクトが大きかった平幹二朗が演ずる斎藤道三が油売りをしているシーンを未だに覚えている(ドラマの冒頭だった)信長(高橋英樹)に取り入る羽柴秀吉(火野正平)と明智光秀(近藤正臣)の確執にドキドキした火野正平の剽軽な秀吉が大好きだったし端正で真面目な近藤正臣は明智光秀そのものだった近藤正臣は「柔道一直線」でピアノを足の指で弾いていた
この写真は令和6年2/28現在の状況です。ぼく昔から“戦”が嫌いで、“戦国”にも興味なく、ずっと関連の映画やドラマも見なかったんです。最近は好きな時間に視聴できるNHK+で大河ドラマを拝見するよぅになり、信長の安土城に一度行ってみたいと思ってました。午前中は曇りだけど雨は降らなさそぅなので、急に思いついて、近江八幡の隣り駅/JR安土駅下車。↑セミナリヨ跡(伝承地)より。安土駅周辺はかなり寂れた感じでコンビニもなく、街中も住宅はあるものの天下一の城があったとは思えない閑散とした雰囲気です。
※こちらの記事は、平成31年2月11日に書かれたものです。皆さんこんばんは。今回は「合戦における戦術について」シリーズの第7弾ということで「箕輪(みのわ)城の合戦」について書きます。『歴史と旅』増刊「日本合戦総覧(昭和63年1/10臨時増刊、秋田書店)」の羽村滋氏の記事を参考にしています。※記事下部に武家や公家の人物名の読み仮名をのせています。参考第1弾勝弦峠の合戦第2弾戸石城の合戦第3弾長森原の合戦第4弾三分一原の合戦第5弾栃尾城の合戦第6弾川中島の合戦まず
天王山制覇天下取ったどー。#山崎城#天王山城#天王山宝寺城#城#城跡#山崎の戦い#山崎#京都#明智光秀#羽柴秀吉#日本100名城#続日本100名城
こんにちは3月に入りましたが、厳しい寒さが続いていますね花粉や寒暖差もあり体調を崩しやすい時期ですので皆様くれぐれもご自愛ください本日も2月の歴史館お土産ランキングを発表します【武将印・花押印編】です!🥇武将印家康🥈武将印信長🥉花押印信長2月は徳川家康の武将印が1位になりました2位、3位には織田信長の武将印・花押印がランクインしていますねさすが信長様です今回ランクインした商品以外にも、徳川家康の花押印、羽柴秀吉の武将印・花押印があります
滋賀県の観光スポットのお話🏯滋賀県長浜市にある、JR🚋の長浜駅🚉長浜駅🚉の目の前にある銅像。秀吉公と石田三成公出逢いの像豊臣秀吉と若き石田三成の像です鷹狩の途中に観音寺に立ち寄った秀吉に少年の石田三成が気が利くお茶の出し方をし、秀吉に大変気に入られたという、三献の茶を現した銅像。石田三成は滋賀県出身の人物ですが、豊臣秀吉は愛知県出身なんですが、この長浜に長浜城🏯を築いた人物で、二人とも長浜にゆかりがあります❗長浜駅🚉東口から出ると黒壁スクエア等の観光スポットがありますが、西口か
歴史ヒストリアで、羽柴秀吉との出会いを紹介してた。佐吉という名前で大原観音寺に仕えていた石田三成にお茶をお願いした逸話が本当なら、三成は相手の気持ちを汲み取れる優れた人物という事になる。それが、朝鮮出兵からほうほうの体で撤退してきた加藤清正や福島らと修復不可能な断絶が生まれたのはなぜ?人の気持ちを汲み取ると言っても、上司に対してだけか?同僚、部下を見下すなら、完全にヒラメだ。でも、石田三成の佐和山の統治は領民思いの「善政」とされており、領民から慕われていた。石田三成
※こちらの記事は、令和2年11月15日に書かれたものです。皆さんこんばんは。今回は「ビジネスに活かす戦国合戦術」第34弾として、「備中高松(びっちゅう・たかまつ)城の戦い」について、ビジネス的視点で学んでいこうと思います。※記事下部に武家や公家の人物名の読み仮名を載せています。【ビジネスに活かす戦国合戦術シリーズの過去記事】第5回長良川の合戦第6回桶狭間の合戦第12回三方ヶ原の合戦第14回叡山焼き討ち第18回長篠の合戦第21回高遠城の合戦第22回江古
おはようございます③国立劇場第227回文楽公演日本青年館ホール第二部戻駕色相方感想です常磐津の名曲を義太夫にうつした作品国立劇場主催の東京公演では初上演なのだそうです春爛漫🌸かむろは当然かわいいのだけどうしろで両手で頬杖ついてる男二人がまたかわいく思えました★羽子板〜♪⬆国立劇場Xより駕をかくこの男たち実は秀吉と五右衛門ですライバルを並べたり共演させたりこの気持ちや発想好きです詞章読み込めてなくて💦ちょっとふわっと聴いててのほほ〜んとしてました😆えへ楽しい
※こちらの記事は、令和3年1月27日に書かれたものです。皆さんこんばんは。今回は「ビジネスに活かす戦国合戦術」第38弾として、「小牧長久手(こまき・ながくて)の戦い」について、ビジネス的視点で学んでいこうと思います。※記事下部に武家や公家の人物名の読み仮名を載せています。【ビジネスに活かす戦国合戦術シリーズの過去記事(抜粋)】第1回今山の合戦第5回長良川の合戦第6回桶狭間の合戦第8回金ヶ崎城の合戦第10回二俣城の合戦第11回一言坂の合戦第12回三方ヶ原の合戦