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土方歳三箱館戦争検定受験しました。全部で10問出題。5問正解で合格。結果は、10問正解。満点合格。
所用で函館市総合福祉センター(あいよる21)へ。函館駅近くの若松緑地公園にあります。土方歳三ゆかりの地のモニュメントがあり……敷地内には、土方歳三最期の地碑。箱館戦争で命を落としたといわれる場所にひとつ、一本木関門がこの辺にあったということです。命日の旧暦5月11日はまだ先だけど、お花がたくさん供えられていました。そして、この1円玉は何でしょうね……??センターの前は八幡通り、日当たりいいところでは街路樹のエゾムラサキツツジがもう咲いてました。ツツジの中では一番
土方歳三函館戦争限定全問正解で合格認定証ゲットしました土方歳三・箱館戦争検定Supportedby新選組検定土方歳三・箱館戦争検定Supportedby新選組検定www.kentei-uketsuke.com問題がちょっと簡単すぎたな(笑)吉岡淳『土方歳三の遺髪』初公開土方歳三の遺髪❗️土方さんのDNAが残ってる奇跡🧬佐藤福子さん見せてくださりありがとうございました😭🙏新選組鬼の副長土方歳三佩刀十一代和泉守兼定(…ameblo.jp500円クーポン発行中!大河ドラ
函館の”五稜郭公園”の中を歩きます。ここの中央にある建物に向かいます。それが、この建物”箱館奉行所”です。入場チケットは一人500円でした。箱館奉行所は幕末の箱館開港に伴い設置された江戸幕府の役所。箱館戦争の舞台ともなり、その後に解体された庁舎が、2010年、かつてと同じ場所である"国指定特別史跡・五稜郭跡"に、資料に基づき忠実に復元されました。順路を進みますと、最初にこの光景が目に入ります。四之間、参之間、弐之間,壹之間と連続でよっの部屋が直線で並んでいます
函館市に我が故郷がある。珍しいご先祖様の写真。私から見たら曾祖父になる。ようするに、父の親の親。手に何を持っているか不明だが、農作業中と思われる。箱館戦争で幕府軍と戦った新政府軍の一員で有ったと言う。その後、我が一族が開拓農民として今の村に入植。ラン&ウォーキング日記3月の目標118ヶ月連続45万歩(360km)以上に挑戦(既に達成した75万歩58ヵ月、100万歩連続60ヶ月含む)2024年3月17日累計歩数155.839.927歩
北の大地遠征も大詰めです。おさらい、北の大地遠征三日目(最終日)(今年もお世話になります、国土地理院ウェブサイトにあるGSIを使ってマッピング)「土方歳三」の最後を見届けることができました。朝餉もまだだったので摂りに行きます。「函館朝市どんぶり横丁市場」朝餉の後、飛行機の時間ギリギリまで函館を嘗め尽くします。どっかの炎使いみたいなこの像、「新島襄」のブロンズ像「新島襄」はここ函館からアメリカへ出港していますたしか、大河ドラマ「八重の桜
久しぶりに新撰組の名を聞いた。北海道に渡った隊士のほとんどは箱館戦争で戦死した、とのこと。例えば土方歳三。なかなか険しい話ではある。▼本日限定!ブログスタンプあなたもスタンプをGETしよう
坂本龍馬を斬ったとされる男今井信郎。明治の世を生き抜きました『龍馬を斬った男』龍馬を斬った男、今井信郎(異説は山ほどあり)もチーム箱館メンバーです。新選組と同時期に京都の治安に当たった「見廻組」の隊士で、この時期に命によって龍馬暗殺に関…ameblo.jpこちらは本人の古写真とされるものです。まさに人斬りの眼光がモノクロ写真からもうかがえますね。
「五稜郭」から戻ってきた後、「土方歳三」が弁天台場に向かったと知らせを受けたので、朝餉も取らずそちらへ向かいます。北の大地遠征三日目(最終日)(今年もお世話になります、国土地理院ウェブサイトにあるGSIを使ってマッピング)注)廻った順番に脚色があります。「弁天台場」、市電「箱館どっく前」近くに碑のみ立つここに「土方歳三」はいませんでした。屯所に向かいます。「新撰組屯所跡地(旧称名寺)」ここにもいません。こちらは現「称名寺」、「土方歳三」の供養碑
函館ちゃんちゃんこ物語23「函館ちゃんちゃんこ物語」毎年届く年賀状。その中には学生時代の懐かしい仲間のものもある。ここ数年多くなったのが、「退職」の知らせだ。いつの間にかみんな年を取った。道場海峡男(どうばうみお)は、ふと、大学の研究室の機関誌「学大地理」を本棚の隅から取り出した。色あせた機関誌だが、一瞬のうちに学生時代の記憶が蘇り、心がときめいた。「我らの函館山頂上にて」函館山登山が始まりまもなく、箱館戦争の戦没者の供養の碑「碧血碑」にたどり着く。「碧血」とは
函館ちゃんちゃんこ物語22「函館ちゃんちゃんこ物語」毎年届く年賀状。その中には学生時代の懐かしい仲間のものもある。ここ数年多くなったのが、「退職」の知らせだ。いつの間にかみんな年を取った。道場海峡男(どうばうみお)は、ふと、大学の研究室の機関誌「学大地理」を本棚の隅から取り出した。色あせた機関誌だが、一瞬のうちに学生時代の記憶が蘇り、心がときめいた。「涙の函館山登山」地理研究室、毎年の「春の行事」であるお花見大宴会のあと、2年生の道場海峡男を先頭に、地理
渡島半島を反時計回りに1日かけて攻めました。進軍距離として約250kmです。大した距離ではありませんが、攻めるところが多くて実際より長く距離を走った感じがします。箱館遠征も最終日を迎えました。「五稜郭」を目の前にしてそのままでは帰還出来ません。家族を陣に残し、夜明けと共に「五稜郭」へ向かいます「五稜郭」を舐める様に警邏します水堀の外側を時計回り(青ルート)に回ってから、城内(赤ルート)を見廻ります。「五稜郭」の水堀外側はランニングコースとなってい、反時計回
市立函館博物館では昨日の函館大火の他にも『昭和9年、函館大火』函館公園内にある市立函館博物館函館市民としては(現在は北斗市民だけど)どうしても見たい入館料100円安いよし入館しよう函館の街が焼けた日函館大火1934年(…ameblo.jp箱館戦争と武器というコーナーも説明書きと共に当時使用された武器などがたくさん並んでいました今でもロシアとウクライナそしてさまざな場所では紛争も戦争の無い平和な世の中ただ、それを願うばかりです戦争をやめて~戦争をやめて~
市電🚃に乗って五稜郭に行きます。レトロな車両ですが、見た目と違ってSuicaが使えます😅函館駅から五稜郭公園前まで大人230円でした。五稜郭公園前駅から10分ほど歩いて五稜郭公園に到着。日本の近代化に重要な場所ですよね。水堀がガッツリ凍ってます🧊なんかスケート出来そう😅水が出てるところは流石に凍ってません。一の橋、二の橋と2つの橋を渡って、五稜郭に入ります。箱館奉行所。復元されたものですが、ここが箱館戦争の舞台だったんですね。ん〜〜〜なんとも興味深い。
函館駅前から十字街まで、電車通りの1本裏を歩いていくと15分ほどですが、途中、なかなか面白い商店がいくつかありつつ、正面にどーんと函館山、東本願寺の大屋根、そして、今注目の商業施設が見えてきます。右手に街角NEWCULTURE。角の旧キングオブキングと隣の旧昆布館からなる複合ポップアップ施設です。ビリアードのライオンのサム、薬膳のjiconの他、シェアキッチンやポップアップスペースで、マルシェやイベントもよく開かれています。週末の3日間は西部地区チャレンジショップ
松前城で「五稜郭」への帰還命令を受けましたので「五稜郭」へ戻ります。帰還ルート(国土地理院ウェブサイトにあるGSIを使ってマッピング)松前城周辺「道南十二館」を攻めることも忘れません「松前町郷土資料館」松前町町民総合センターの2階にあります「松前町郷土資料館」では縄文時代から江戸時代まで、松前町の通史を学ぶことができる施設です。津軽海峡を越えたヒト・モノの交流を物語る縄文土器や、江戸時代に京都で作られた山車飾り、箱館戦争で使用された砲弾などを展示しています。
ようやく松前城へ到着です。江戸時代、公式には福山城(ふくやまじょう)と記されたが、当時から備後福山城(広島県福山市)との混同を避けるため松前城とも呼ばれていいます。江戸時代末期に海防強化のため松前藩が江戸幕府に命じられ、居城であった福山館を拡張する形で築城し、1855年(安政元年)に完成しました。長崎県の石田城(福江城)と並び日本における最後期、かつ、北海道内で唯一つの日本式城郭になります(Wikiより)。箱館戦争時、「五稜郭」を落とした「土方歳三」ら旧幕府軍が一度落としますが
前回、「勝山館」の説明が抜けておりました。ここに補足させていただきます。「勝山館」は蠣崎信広が築いた城として知られています。信広とその子光広の時代には蠣崎氏の本拠地とされていましたが、1514年(永正11年)に光広が松前の徳山館に本拠を移転して以降は、主要な副城として使われました。その際、「脇館」の名を転じて「和喜の館」と称されていたそうです。現地の発掘調査の結果、国内外産陶磁器や金属製品、木製品など多数の出土品が見つかっており、また当時アイヌの人々が使っていた骨角器も出土していること
おばんです弁天台場跡写真は1月23日です箱館開港と同時に外圧に備えるため安政三年(一八五六年)から七年の歳月を費やし海面を埋め立て石がきを築いた重要な部分には大阪から取り寄せた御影石を使用している設計監督は武田斐三郎で松川弁之助と石工喜三郎が工事を担当した不等辺六角形で総面積約一万二千坪(約三九六〇〇平方㍍)高さ十一・二㍍で備砲は大小合わせて十六門とあるが実数ははっきりしないこの砲の中に日本に開国を求めてきたロシアのディアナ号の大砲数門が含まれてい
11月21日、函館の弁天台場を訪問。台場とは、お台場に代表される江戸時代末期に海に向けて砲台を設置した場所。八幡坂などを散歩した後、函館市電の末広町駅へ戻り、終点へ。終点の函館どつく駅から真北へ1分半。そうそう、函館どつくって何かと思っていました。どつく=関西弁で叩く、ぶつという意味。なぜ函館で関西弁で叩かなきゃならないのか?車内アナウンスでようやく判明。「はこだてドック」と言ってた。ここには「函館どつく(株)」という造船会社があります。その社名を市電
こんにちは、philosophiaです「4年ぶりの社員旅行in北海道」の続編です。五稜郭タワーを見学した後は、大手にあたる南側から攻城します(^^♪五稜郭は、幕末の江戸幕府が箱館奉行所の防備を固めるため星形の稜堡式土塁の縄張で築城した西洋式城郭です。<一の橋>を渡ると見えてくるのが、三角形の<半月堡>石垣の上部の刎出(はねだし)が特徴的です!実際に見た印象は、人吉城の刎出よりもさらに強固になっていました。半月堡から左に折れて、二の橋から見た水堀石垣の
昨日の朝の北斗市からの日の出ですよ前回紹介した七飯町歴史館の続きです『昔むかしの文化に触れ合える場所』現在、七飯町歴史館で開催中の「つつむ展」を投稿しようと思いましたが私も週末行きますと言うコメントをいただいたのでその方の楽しみを奪ってしまうと申し訳ないのでつ…ameblo.jp奥の方は石器時代やアイヌ、箱館戦争などが紹介されていますこの他にも石器や土器がたくさん展示されていました土偶箱館戦争で使用された鉄砲『昔むかしの文化に触れ合える場所』現在、七飯町歴史館で開催中
こんにちは、philosophiaです「4年ぶりの社員旅行in北海道」の続編です。松前藩屋敷で江戸時代にタイムスリップした後は函館へトンボ返りです!途中小休憩した<青函トンネルの実物大模型>北海道大学の<実物のくろしお>が展示されていました。<五稜郭観光駐車場>に駐車し、五稜郭タワーへ向かいます。2代目の五稜郭タワーは、全高107m、展望台は五角形・塔の断面は星形を採用しているそうです。(パンフレットによる)五稜郭の水堀沿いに進みます。
上陸した官軍を追って、江差へ進軍します。そこには旧幕府軍の「開陽丸」が停泊しており、「土方歳三」「榎本武揚」らに面会を求めます。因みに「開陽」と未来への大きな希望と成功を祈念を意味します。また、おおぐま座の恒星の漢名でもあります。途中「慶喜(けいき)トンネル」を抜けます明らかに「よしのぶ」を意識しています。のちに調べたら五厘沢町には「徳川慶喜」より拝領した松が植えられていたことから同温泉が慶喜温泉と呼ばれており、それに因む命名とのことです(wikimapiaよ
12月20日、いよいよ五稜郭へ入城。完全にフラットな土地に造られています。箱館戦争(戊辰戦争のうち、特に箱館での戦いのことを箱館戦争とも言います)の立役者、新政府軍の黒田了介と、旧幕府軍の榎本武揚。図の右下が五稜郭タワーそのそばの現在地から半月堡の前を通って城内へ。一の橋を渡る。半月堡周囲の堀結氷してます。半月堡の周囲は石塁で囲まれている。半月堡と石塁の間には空堀がある。半月堡によじ登れないよう、はね返しと呼ばれるせり出しがあります。(
こんばんはこの碑は護國神社にありますその護國神社です招魂場碑明治二年(一八六九年)八月の炎天下黙々とくわを振るい土を運んだ“ざんぎり頭”の一隊の兵士たちの努力によって函館山山腹の傾斜地は切り崩され四角の平たんな土地造成がなされた工事に従事したのは室蘭開拓方であった脱走軍兵卒でこの時造られたのが官軍戦死者を祭る「招魂場」である後に招魂社となり昭和十四年護国神社と改称された境内向かって右側には百六十五柱を祭る官修墳墓がある「招魂場」の題字は箱
12月20日、志海苔バス停から函館駅方面へ戻る途中、五稜郭公園前バス停で途中下車。そこは函館市内で一番の繁華街。ビルが立ち並び、五稜郭タワーは見えない。10分歩いたところで、突如目の前に現れた。五稜郭タワーhttps://www.goryokaku-tower.co.jp/1階にはお約束の売店。全国のタワーいくつ登りましたか?自分は五稜郭タワーで7つめ。チケット購入切符切り(切符パンチ)を打ってエレベーターへ。どこを切ったかわかりますか。右
新年あけましておめでとうございます。今年もゆるゆるにブログを書いていきたいと思います。北の大地遠征二日目、死のロードが始まります(今年もお世話になります、国土地理院ウェブサイトにあるGSIを使ってマッピング)箱館戦争真っ只中の土方歳三を救援すべく函館山から乙部町へ向かいます。まずは官軍上陸を阻止すべく松前半島を横断、乙部町へ「箱館戦争二股口古戦場」、結構大きい国道沿いにポツンと立っているので気を付けないと見逃します函館から厚沢部・江差方面に向かう道道22
山上大神宮幸坂の上の神社です創立は古く天和二年(一六八二年)で鍛冶町に奉還神明社と呼ばれたこの神明社はかつて京都所司代を務めながら明治維新の激動の波に押し流されて箱館戦争に参加した桑名藩主松平定敬の御座所として使用されたところである十一万石藩主のプライドが榎本の指揮下に入ることを許さずわずかの家臣にかしずかれ明治二年(一八六九年)二十三歳の正月をここで迎えた桑名藩はいちはやく官軍に恭順したため家臣酒井孫八郎が箱館まで来て市中取締役の土方歳三の許可を得て定