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noteを更新しました。「甲神部隊」の詳細|船橋市・弓場清孝先述の記事の続編になります。「甲神部隊」の正式名は「広島地区第24特設警備隊(中国第32060部隊)」で隊長は三原清雄陸軍中尉となっていて、広島市中区基町にある広島城東側に防空作戦本部がありました。ちなみに井伏鱒二の「黒い雨」の矢須子の叔母でもある「重松しずこ(実名)」さんの原爆体験記よれば原爆投下時の歩哨兵は捧げつつをしたまま亡くなって…note.com2023年7月26日船橋市海神:弓場清孝
しばらく遠ざかっていましたが「一握之灰」の本を今週の日曜までに市川中央図書館に返却しなければならないので、続きを少し転載します。何故にこの著書が重要なのかは、私の郷里の被爆者の方の証言が書かれてあるという事もあるからです。-------------------------------------------【被爆の実相】(1)(前略)閃光と轟音と熱風。何が起こったのかだれも分からなかった。ただ人間がいたるところで、炭のように黒く消えた。爆風で吹き飛ばされた人、倒れた建物で圧死する人、
前記事の続きの転載です。-------------------------------老兵は死せず、とは進駐軍総司令官マッカーサー元帥が、日本を去るにのぞんで残した言葉で有名である。これより数年前の45年八月、広島市の建て物とり壊しのため、県内から四十才台の補充兵が動員された。当時はすでに若者は出尽くしてしまい、残っていた者は兵隊仲間では老兵に属する者ばかりであったから。その召集風景を「くすの木」の歌から拾ってみょう。壮行の辞を述べた当時の収入役兼重堤二さん(65)は「戦争に行
「一握之灰」の内容の中で前置きが長くなりますので、先に「甲神部隊」とは何だったかについて転載します。-----------------------------------この緊迫した状勢の中で、軍都ひろしまをB29から守るために執られた策が家屋疎開であった。その作業ははじめ、市民の外中学校や高等女学校の動員学徒、次に周辺町村からの応援隊の手によって進められたが、そこは中国一の都会のこと、遅々として捗らず、遂に県内都市単位で、補充兵を動員することとなった。建物疎開取り壊して延焼を阻止
G7広島サミットが終わってから一週間が経ちましたが、あなたはどのように評価されましたか?例えばアゴラという政権寄りのメディアがありますが、サミットは大成功などと評しています。一方で、長州新聞は『厳戒態勢下の広島では、全国から動員された万単位の警察官が兵馬俑のように市街地をふさぎ、G7のおかげで市民生活は麻痺して巷では非難囂々(ごうごう)である。「東京でやりやがれ!」といったところで東京とて警備で大混乱になるのはわかりきっており、本当にどこか人のいない山奥でやりやがれ!が広島市民の思いであろう
井伏鱒二の『黒い雨』にちょっとだけ戻る。閑間重松は千田町の借家が原爆で焼けたので、妻のシゲ子、姪の矢須子と共に広島市の北の郊外、古市(現広島市安佐南区古市)にある勤務先の工場に向かった。火災の後の街は熱気がひどく煙ももうもうと立ちこめていたが、何とか工場までたどり着くことができた。そして9月になってから「被爆日記」を書き始めるのだが、シゲ子と矢須子が聞いてきた話として、7日に救護で市内に入った人がひどい倦怠感を訴えて「軽い原爆症に冒されている」と書いている。小説『黒い雨』に「残留放射
続きは…IkukoMarieASAOKA/HISHIKAWA@IHishikawa”#甲神部隊のこと②”ー#アメブロ更新#帰郷https://t.co/dk1XLAcrCW2020年08月17日18:23♡おまけ♡“《なかったことにする》ストラテジー”https://bit.ly/2Bq5bCx註)「合理的であることがよいと考えて暴走する問題を心理学は長らく扱ってきました」ということは、換言すれば、“歴史的身体は機械論的合理主義には従わない”ということでしょう。
「甲神部隊」の話しの続きになりますが、私の生まれ故郷の村で生家から五軒ほど下ったところに節子姉さんの家がありました。その家も私の生家と同じような茅葺屋根の家で高齢のお父さんと二人住まいでした。節子姉さんには兄さんがおられたのですが、「甲神部隊」で召集され、広島市に入市され、建物疎開に出向かれていたのです。それで、八月六日過ぎても帰郷されないものだから、節子姉さんが広島に救援に出向かれたのです。結局、消息も判らず節子姉さんは帰郷されました。かなり、広島市内のあちこち(太田川沿い)に造られ
先ほどの「甲神部隊」の話しの続きです。部隊の隊長は三原清雄陸軍中尉で広島市中区基町(中国104部隊=中国軍管区歩兵第1補充隊内、広島城址東側)に本部を置き、部隊は甲奴郡上下に駐屯していました。原爆が投下された昭和20年8月6日の被爆当時、部隊は広島市内の建物疎開作業(防火帯を作る為の家屋取り壊し)に従事中に被爆、あるいは現場に向かう途中で直爆を受けた人もおられたようです。直爆を受けられた人は当然、即死だったと聞いています。こういう家屋取り壊しというのは当時は全国的にも行われていたでしょう。
昨日、読者の「あ*」さんが、私の生まれ故郷の人で広島で二次被ばくされ、帰郷されてからの事を少し書かれていたので、そのことを書いてみたいと思います。その前に重要なのが広島原爆が投下される前に建物疎開で広島市内に入市された「甲神部隊」と命名された部隊のことを少し説明しましょう。正式には、この部隊は「広島地区第24特設警備隊・中国32060部隊(甲神部隊)」で甲神というのは広島県甲奴郡と広島県神石郡との混成部隊のことです。現在は甲奴郡は広島県府中市に統合合併されています。神石郡は神石高原町と他の