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今月で棄教から4年半になる。もはや現役時代の自分と今の自分を比較しようとしても、無理やり感しか感じないが、恒例の宿題なのでこの記事を書く。統一教会は破壊的カルトだという言葉がある。もちろん、私はこの言葉に異論はない。かつて信仰という名のもとに、世界平和だとか、献金だとか、真の愛だとか、そんなアレコレに完全投入したあの時節は、一体何だったのだろうか?それは信仰だったのか、それとも偽りの信仰だったのか?そう、破壊的カルト…なのだ。しかし、そんな区分自体は、今となってはもは
【質問】海南島のヨハネさんへ。殉教についての考えを教えてください。キリスト教が弾圧されて、過去にたくさんの信者が殉教しました。神様は人間が殉教することを望んだのでしょうか?遠藤周作さんの「沈黙」を読んだ時に、キリスト教を捨てた宣教師について、共感を覚えました(本心から捨てたわけではないけれど、捨てたと見せかけた。他の人々はキリスト教を捨てるといわずに殉教した)。新約聖書の福音書では、キリストは弟子達に裏切られることを事前に知りながら、弟子達を赦して死んでいきました。キリストは人間を救
棄教から4年である。棄教からこのくらい年月が過ぎると、自分は現役時代の延長線上にはいないし、もはや日常にも大きな変化はないように思える。それでも、ひとまず現役時代のことを思い出してみたい。私の場合、為に生きるという”信仰の理想”は、心の情的な原動力を欲するものだった。今の現役さんが、世界の為に犠牲になって何が悪い、献金をして何が悪い、純潔は素晴らしいなどと主張するのも、そうした心の純粋な原動力を”信仰の理想”として求めてのことだと思う。そして、その生き方には”信仰の
私がエホバの証人になった当時は、輸血受諾は排斥案件でした。当時は棄教扱いはしませんでした。しかし1985年の鈴木大君死亡事件の際に、ものみの塔日本支部は「輸血を拒否するかどうかは良心の問題だ」という公式見解をテレビや新聞で述べました。世間の批判をかわすためにこの時すでに嘘を吐きました。さてもしここで輸血拒否が良心の問題であるならば、当然戒律違反にはなりませんので排斥にする根拠はなくなります。そこでものみの塔は輸血受託を「棄教」という新設カテゴリーを設け、そこに組み入れることで排
メディアが輸血に関してものみの塔に対する質問の仕方ががピント外れなので、日本支部ものらりくらりとウナギのように言い訳をしています。これはメディアが「宗教2世」という視点で問題をとらえるからです。輸血拒否を組織が、子供に強制しているかどうかなどという質問は、「強制していない」といえば逃げられます。こう質問すべきです。「輸血を受け入れた場合信者はどのような扱いを受けるか」輸血を受け入れた場合、棄教ということで完全忌避の対象になります。私がエホバの証人になったころは
棄教から3年半が経った。とはいっても私の棄教前は、既に教会にはまったく顔を出していなかったのだけど。それでも、棄教を決意する当時の1年間は苦しみに苦しみ抜いたものだった。そして今更ながら思う。信仰って何だろうか。棄教前は“信仰”があって、棄教後は“信仰”を失った、そんな風に言えるものなのだろうか。巷にカルトといわれるような“信仰”であっても、良いことも確かにたくさんあった。だから、それは果たして“信仰”だったのだろうか。棄教後は、かつての“信仰”はなくなってしまった。
棄教から3年経った。石の上にも3年とはよく言ったもので、もはや3年も経つと、かつての信仰の記憶など、ずいぶん薄れてしまった…。今は真の愛の理想世界など求めなくても、人が人として生きることの価値を、そのまま普通に感じられるようになった。けれど信仰という束縛から解放された代わりに、現実の問題に自分の力で立ち向かわなければならなくなった。もともと私の心の底では、そういう生き方を求めていたのだと思っている。だから、今はたとえ苦しい時があっても、そこに生きがいを見出すことができる。
カルトの棄教2信仰も棄ててしまえばあっけないものhttps://blogs.yahoo.co.jp/jiyuu2013/41557551.html楽山のブログ。2019/6/30(日)午前10:37「信仰も棄ててしまえばあっけない」というのは、keitaという人の言で、佐倉哲という人が引用したものです。二人とも神否定のようです。これを、楽山は、反キリストのサイコパスらしく、キリスト教と神を否定するために引用~悪用しています。加えて、佐倉哲の筆致は、楽山に似て
棄教から2年半である。何が良くて、私はあんな絵空事の理想を求めていたんだろうか。今はそう思える。そして、私はさまざまな現実的な問題にぶち当たって、結局棄教したのだが、そうなるべくしてそうなったのである。最近も、家庭内でさまざまな問題が発生している。そうした問題を、かつてかの宗教は、悪霊やサタンの仕業であると言ったり、逆に神が与えた試練であると言ったりして、うまく脚色、いや言い訳をしていた。しかし、それらの問題は、発生すべくして発生したのである。今は、そう思うのである。・・
さて。長崎・佐賀旅行の最終日をまとめておきましょう。この日は月曜日でしたが、有休を取りました。この日は4時過ぎに起きましたが、「あれ?」と思い。既にここで触れていますが、モニター利用のアンケートを出してないぞと。まあ酔っているんで覚えていないだけかもしれないと、淡い期待を抱きながら確認するもやはりダメでした。何とかならないか運営元に問い合わせようかと思ったんですが、クレーマーに近いなと思い直し。ただの食事ならともかく、その日が期限の居酒屋モニターは今後止めようと思います。
イスラム教を棄教して殺された最初の人物2021-07-2514:39:14テーマ:ブログ公式ジャンル記事ランキング:シニア551位RaelMaitreyaイスラム教を棄教した最初の人物:アブドゥッラー・ブン・サアド・ブン・アビー・サルフ彼はムハンマドの主任書記官でした。啓示の中の言語的な誤りに気付いたあと、そしてムハンマドが規則変更を行うと。彼はメディナからメッカへと脱出した。コーランが捏造されたもので神からのものではないことを暴露した。ムハンマドは彼の殺
カトリック教会を棄教した方が良い。NEW!2021-07-1108:21:42テーマ:ブログ公式ジャンル記事ランキング:シニア357位RaelMaitreyaApostasizetheCatholicChurchafterallthey'vedonetoIndigenouschildren.カトリック教会が先住民の子供たちにしてきたことを考えれば、カトリック教会を棄教した方が良い。
棄教から2年経った。半年前にブログを始めてから、私の家族にもいろいろな変化があり、今後、家族が共に歩むか、離縁して別々に歩むかを、決めて行かなければならない状況となった。今、私たち家族はそんな状況のため、とある周りの現役シックからは、教会に行かないせいだとか、霊的問題があるせいだとか、言われたこともある。などと書くと、読者の方は、私が将来を悲観しているのではないかと思われるかもしれないが、私の気持ちは必ずしもそうではない。ある意味、今の私の家族の状況は、私の身から出た錆で
日本の支部委員が「輸血拒否をするかしないかは良心の問題。」だと言い切ったのですが、そもそも良心の問題であるならばどんな決定を下してもそれで咎められることはありません。しかも統治体の出す情報を全く知らないわけではないのです。統治体の情報をしっかり吟味し、そのうえで良心的に決定を下すのです。その統治体が分画許容の情報を出したのですからその情報に基づいて下すのです。分画許容は赤血球、白血球、血小板など血の主要部分は受け入れないというものですが1世紀において血液をそのように区別することなどは考えら
本日は小説の「沈黙」、映画の「サイレンス」の紹介です。映画は「沈黙」を映像化した作品です。「沈黙」「サイレンス」内容「キリスト教を弾圧していた江戸時代。神の名の下に亡くなっていくキリシタンや布教活動に勤しむ宣教師を描く」宣教師が信仰をやめると言えば、多くの人の命が救える状況が多々ある中、宣教師たちの心の揺れ動きを追った作品となっています。ここから先はネタバレあり小説と映画の違い小説では、先に日本に渡来した宣教師のフェレイラは、小説の後半に登場して素性が明かされる。棄教してキ
人のあたたかさを感じたエピソードある?▼本日限定!ブログスタンプあなたもスタンプをGETしよう私が、17年にカトリックを棄教した時から、私がカトリックへ戻ってくるように暖かい言葉をかけてくれる唯一人の方がいましたその一人の方のおかげでカトリックへ戻ってきましたそんな優しい方になれるように努力してるけど難しいです(T_T)
ムスリムの方々へNEW!2021-05-2711:05:53テーマ:ブログRaelMaitreyaムスリムの方々へ、あなた方はイスラムにとっても自信があるようですが、それなら冒涜法及び棄教を罰することを取り去ってみてください。その上でイスラムがどのようにそれ自身で立派にやっていけるのかを見ましょう。-無神論者
このブログは、現在、お休み中(というか調整作業中)で、その運営方針を整理しているところだ。そうした調整作業も、まもなく終わりを迎えるが、その作業の一環として今の私の心境を綴ってみる。統一教会とは、信徒たちにとって、社会の中の“居場所”であった。私にとってもそうだった。だから、統一教会からの棄教とは、そうした居場所がなくなるということを意味する。これは棄教者にとって辛い。私もそうだったし、多くの棄教者が経験済みの気持ちであろう。一方、現役信徒たちにとっては、その“居場所”に執着するという心理と
統一教会を棄教し、リハビリブログを終えた2019年末から2020年前半までの間、これから私は統一教会のしがらみを抜け、自由に生きていこうという希望を抱いていた。しかし、2020年末の現在の気持ちは、実は希望というよりも脱力感とでもいった方が良いものである。その「脱力感」の内容は、現実の壁にぶつかった時の絶望の気持ちをいうものではない。その内容は、現実を受け入れて現実との折り合いをつけるといった時に抱く気持ちである。こうした気持ちの変化とともに、私にとって「幸せ」とは何かという考
私は、大学以来の20数年という非常に長い間、統一教会(旧名称)を信仰してきましたが、教会の教えに限界を感じ2019年に棄教することを決め、その年の6月から12月にかけてリハビリブログをやっていました。リハビリ当時はオリビというユーザー名で、人生を無駄にしたかのような無念な思い、複雑な思いを多く吐露してきましたが、そうした数か月の期間を経て、棄教するという気持ちに整理がつき、2019年末をもってリハビリを終了しました。2020年は新たな気持ちで人生の希望を抱いて別のブログもやっていまし
いや、特に凄い事があったわけじゃないのですが。今日オンラインプログラムを視聴していまして。そこでの意見を聞いて「私も」と思いまして。ムスリムの棄教は「死刑」という話がありますが…私の知り合いに「宣言」している人が少なくとも3人います。1人は私が入信する前の知り合いで入信後は全く接点が無くなってしまいました(アルバイト先のスタッフ)。残りの2人は入信後に知り合った人達です。棄教したからこの2人とのつながりを断ったか、というとそんなことはありません。私は頻繁に連絡を取るよ
[長崎大浦天主堂]ロドリゴ神父は、奉行所で試されていた。目前に置かれている、キリストを抱いたマリア像を踏む様に言われる。奉行所内では、キリシタン(キリスト教信者)達が拷問を受けていて、その悲鳴が聞こえている。自分が棄教すれば、キリシタン達は自分に倣い、信仰を止めるだろう。これ以上、この土地のキリシタン達を苦しめたくない...ロドリゴ神父は、キリストとマリアの像を踏んでいた。(この文章には、ネタばれが含まれます)遠藤周作原作マーティン,スコセッシ監督2016年公開アメリカ合衆国の
「沈黙」を読んだのね。転ぶことはあると思うの、苦しさに耐えきれずに。もしも選択の余地があると思えば、お母様は踏み絵を踏んでしまうかもしれません。あるいはあなた方が乳呑み児だったら踏んでしまうかもしれません。でも果たして信仰は捨てられるのでしょうか…自分が踏めば信者は助かる---ロドリゴにとって踏み絵を踏むより他の選択肢がなかったのかもしれません。(でも転ぶといった村人一人ひとりの心の奥底の願いは私たちにはわからないでしょう。)お母様はロドリゴが転んだことより、「平穏無事な場所」にいる司祭
10年以上前のことです。出張先で早く仕事が終わったので、その町の教会に聖体訪問に行きました。夕方4時くらいだったと思います。少し祈った後、教会報やプリント類を物色していたら神父様が現れました。なんと知っている神父様でした。20分くらい立ち話をしたのですが、その中で印象的だったのは、最近教会を辞めた初老の男性の話でした。「夕方、お聖堂に行ったら、包みがポツンと置いてあった。何かと思って開けたら、聖歌や祈祷書、聖書やロザリオなどと共に、手紙が入っていたんだ。その手紙には『信仰を捨てたので、
あの粕谷甲一著『新しき歌』という本を「あら探し」のまなざしで読んで、「これも〝あら〟だ!」と感じた箇所が、ほかにもありました(446~448ページ)。その当時、出版されてまもなかった遠藤周作の『沈黙』について、カトリック神父として「これは一言、言っておかねばならない」という義務感に促されて書いたのか、神学的にみた場合のこの作品の〝危ない〟側面につき、警告を発するような筆致の文章でした。今では『沈黙』は、日本人の身の丈に合ったキリスト教はどうあるべきかを考えるうえで、重要な問題提起をし
栄光に満ちた勇気ある彼を棄教させたその刑はこの時代、最も残酷だったと言われています。それを考案したのは、奉行の井上筑後守。その刑は、一メートル四方の穴の中に逆さに吊るすものです。「簡単に死なないようにするため、吊るす際は体をぐるぐる巻きにして内臓が下に下がらないようにする。すると血が頭にたまるので、こめかみに小さな穴を開け血を抜く。さらに穴の中には汚物を入れ、地上では騒がしい音をたて、精神を苛んだ。」と「日本切支丹殉教史」に書かれています。筑後の守は、雲仙での拷問の失敗から、彼
「千々石ミゲル夫婦墓所発掘調査報告書」とても興味あるので、ぜひネットで、無料で誰でも読めるようにして欲しいけど、本として800部限定で発売するようなので、ちょっと無理ですよね。16世紀晩年(1582年)、天正遣欧少年使節としてローマ法王に謁見したけど、帰国後にキリスト教を棄教、イエズス会を除名された千々石ミゲルだけど、2017年の発掘調査により、奥さんとされる女性の墓から、ロザリオの一部であるガラス玉が発見され、ん?本当は棄教して無いんじゃない?という説が
ある枢機卿様が「教会は聖金曜日の暗闇に陥っている」と語ったそうです。まさしくそんな感じがします。この2000年の最大の危機だと言っていいのではないでしょうか。ある人のツイッターに以下のことが書かれていました。ドイツ………21世紀になってから既に500以上の教会が閉鎖。(2022年7月追記:全教派のキリスト教徒の数が人口の50%を下回る)オランダ……これから10年の間に500以上の教会が閉鎖される見通し。アメリカ……2000年から2
たしか、こんな文面だった。〝ときに福音をシュプレヒコールに変えてきた教会。どこでボタンを掛け違えたのでしょうか。長く続いたちぐはぐさが、教会を闇夜に放浪する旅人に変えてしまった気がします〟カトリック教会の要職にある方がある記念誌に書いた言葉だ。やっと、本当にやっと、こういう言葉を聞くことができた。踊り上りたい気持ちになった。言うべきことを言わなければならない時が来たということなのだろう。……以下、その言葉に重ね合わせるように、思うところを綴りたい。*
イスラム法上では棄教は死刑ですが、女性は終身刑としたり、棄教への刑罰に反対したりする改革派もいます。しかし、死刑を支持するムスリムが多数という事実があります。一件穏健に見えますが、偽装棄教(タキーヤ)を認める学派の存在は気休めにもなりません。もしかしたら、『イスラームをやめる自由』はないのでは?という質問がされるかもしれません。確かに、イスラームの決まりでは、ムスリムがイスラームをやめることはできません。しかし、心の自由はあります。イスラームでは、ムスリム同士でも他人の内面の信仰を