1949年7月5日、当時国鉄総裁であった下山定則が行方不明となり、翌日未明、足立区綾瀬付近の国鉄常総線の線路で、轢死体として発見された。当時国鉄は、占領軍から10万人のリストラを迫られており、下山はその先頭に立って苦悩していたことから、「自殺」とする説が第一報として報じられた。しかしその後、東京大学法医学部で検死の結果、下山は死後に轢断されたものと断定された。「他殺」説が一気に吹き出し、その犯人に国民の関心は集中した。だが警察は「自殺」とも「他殺」とも断定せず両面での調査を開始。「自殺」とする根