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今日は、かつて文部省唱歌にまでなったにもかかわらず、戦後教育では全く教科書に記載されなくなった大日本帝国海軍軍人、広瀬武夫中佐の命日・没後120周年にあたります。1868(慶応4)年に現在の大分県竹田市に武家の次男として生まれた武夫少年は、母と7歳の時に死別・・・祖母に厳しくサムライ教育を施されました。9歳の時に西南戦争で生家は消失し、かつて坂本龍馬と盟友であった父親が裁判官として単身赴任していた飛騨高山に転居。同地の小学校を卒業後そこで代用教員となり
2月下旬、糸島市での狛犬巡りもこれが最後となります。花掛神社。扁額には花掛大明神とありますがグーグル・マップでは道祖神社として掲載されていました。拝殿前でカクッと曲がる参道。狛犬さんも見えています。これは、前々回ご紹介した鎮懐石神社でであった狛犬さんと同系統。あちらでは怪獣ブースカに似ていると表現しましたが、ここの狛犬さんはさほど似ているとは感じません。微妙な違いが似ている似ていないという感覚に響くのでしょうね。「明治四十一年十一月」「日露戦後記念」日露戦争の時代の一般の人の思いはち
リアルで本音で喋れる友達はいない年を重ねるほどどんどん価値観の乖離がおきるでもひねもす“のらりくらり”と生きていけるいろんな意味で日本に生まれて良かったと思う今日この頃コメントくださっている皆様、有難うございます。返信できなくなったり遅れたりすることがあると思ますが御容赦くださいませ。他意はございません。百々の辻百々橋:応仁の乱の起点川中島の合戦の史跡に「えっ、こんな狭いとこ?」に匹敵するくらい「たったこれだけの長さ?」の百々橋である。竹林公園の中
敗戦時22歳だった司馬遼太郎は「なぜこんな馬鹿な戦争をする国に産まれたのか?いつから日本人はこんな馬鹿になったのか」という疑問を抱いた。「昔の日本人はもっとましだったにちがいない」と考え、「22歳の自分へ手紙を書き送るようにして小説を書いた」と述懐している。いくつかの表現をして司馬史観を自虐史観の一典型のように評するむきが起きたが、わたしにはそうは読めない。坂の上の雲で司馬は日清日露戦争を戦った日本人の国を思う直向きさを描いている。司馬は避けられぬ歴史の分岐点として桜田門外での井伊直
日露戦争の講和に力を尽くしたアメリカ第26代大統領,セオドール・ルーズヴェルトの日本理解のよりどころは、札幌農学校でクラーク博士に学んだ新渡戸稲造の英文著書「武士道」であったという。明治初めからの10年間で「国家」としての基礎はほぼ出来上がったが、新政府に対し、鬱屈した想いを抱く全国の不平士族の怒りは、年を追って高まりを見せ、明治10年2月、ついに士族の反乱・西南戦争が勃発した。武士制度を廃絶した最高責任者であり、誰よりも侍とその心を愛したのは西郷隆盛であった。“私に奉ぜず公に奉
戦後レジームに至る真相(2)マニフェストデスティニー強欲と差別の合衆国『西に向かい「文明化」を図るという神より与えられた使命』(マニフェストデスティニー)という聖書の勝手な解釈、妄想をもって、インディアンの虐殺、西部侵略を正当化しつつ、西部への領土拡張(フロンティア開拓)を進めたのが米国です。次いで「米墨戦争」(1846~48年)に勝利し、米国はついに西海岸に達しました。日本には米墨戦争後の1853年にペリーが浦賀に来航(黒船来航)。幕府に対し「通商を認めなければ天理に背く行為
令和6(2024)年、辰年辰といえば「龍」「龍」驤にはじまり、飛「龍」、蒼「龍」、「龍」鳳など、帝国海軍の航空母艦には「龍」の字が付されたフネが少なくありません。飛行物体を取り扱う艦種でありながら、自身も千年万年の齢(よわい)を重ねて欲しいという、艦政本部の思惑が見え隠れします。そのような艦種にクローズアップしている最中に年越しを迎えたのも、何かの「縁(えん)」かもしれません。ウィキペディアはじめ、様々な文献や記録に残っている、近代国家として歩み始めた「
今日は少し前から気になっていた乃木神社へ。御祭神は乃木希典大将日露戦争を勝利に導いた軍人です勝負運や学問に秀でるコトに。ご利益があるそうですが。実は、彼は生まれつき身体が弱く、争いよりも農を営むコトを好んだので軍人に育てようとした父に反旗を示す為に家出をしたほどの平和主義者だったのです。しかし、明治の激動期🐉🐉時代の流れに翻弄されるように彼の人生も本人の意思とは真逆の道を歩むことに成るのです長くなるので続きまーす🪷
「軍人の子」日露戦争国民唱歌第二編明治37年楽譜のみの唱歌音源化プロジェクト34私個人的に鳥肌が立つほど勇ましく、そしてどこか切なさを感じる曲だと思いました。是非聴いてください🎌
海上自衛隊舞鶴地方総監部。受付を済ませて。海軍記念館へ戦艦長門東郷平八郎初代司令長官。日露戦争ロシアのバルチック艦隊を撃破海軍創設期。舞鶴海軍。日清・日露戦争期。西郷従道、勝海舟、山本権兵衛。歴代舞鶴鎮守府司令長官。東郷平八郎肖像。元帥海軍大将東郷平八郎手紙(東郷元帥書)。伯爵東郷平八郎日本海海戦後言志。日露戦争の英字新聞。大阪朝日新聞。聖訓五箇条。色紙(東郷元帥書)明治天皇御製。東郷元帥。わぁ昭和天皇だ旗艦「三笠」ですねぇ東郷元帥が戦
日露戦争の働きで軍神と呼ばれるようになった橘中佐1904年(明治37年)の日露戦争開戦にあたっては新設の第2軍管理部長に任命される。同年8月には歩兵第34連隊第1大隊長に転出し首山堡の攻撃にあたる。橘はその戦闘で死亡し、同日付で陸軍歩兵中佐に進級し勲四等旭日小綬章及功四級金鵄勲章を賜った。生前は長崎中学から漢学塾二松学舎出身ということもあり、漢詩をよくしたため、名古屋陸軍幼年学校校長時代は自ら教壇に立ち漢文を弁ずることもある教育熱心な軍人であった。尋常小学校唱歌「橘中佐」
現在の日本は、世界各国のスパイが一番多い「明石元二郎①日露戦争を勝利に導いた男」「明石元二郎②黒田藩明石家の系図」「明石元二郎③大名小学校から東京へ」「明石元二郎④明治を突っ走った福岡の同胞」「明石元二郎⑤欧州での諜報工作活動」「明石元二郎⑥台湾総督と陸軍大将」「明石元二郎⑦福岡出身の元二郎を偲ぶ」の続きです。■元二郎の無頓着な性格と陸軍のスパイ活動軽視台湾では今でも尊敬されている明石元二郎が、日本においてあまり知ら
観てきました、先月の初めに!上映されて間もないくらいに!すでに、続編はWOWOWで放送されることが発表されましたねー。WOWOWは未加入だけど…。きっと何かでなんとかなると信じてます。私は、アニメ→漫画の順で見ていて正直それで十分満足というか楽しんでいたので、実写化必要か?と思っていたのですが、これはこれで凄く面白かった!アニメよりもグッと歴史的な背景が濃密な感じがして。それはきっと生の映像の迫力からくるのだろうなと思いました。203高地のシーンが本当にエグいというか。
その坂は、大正元年に、とある方が「明治天皇崩御」と共に、亡くなったことにより、「幽霊坂」から、名前を変えた。その方が、ここに館が無ければ、、、今も、「幽霊坂」であったかもしれないのだ、、、と言う事は、、、、、彼女たちは、、、実は、「幽霊坂46」であったかもしれない、、、(*'▽')幽霊坂の横に、日露戦争陸軍大将「乃木希典邸」があった。乃木坂由来乃木大将の殉死された大正元年九月以来幽霊坂が乃木坂と改名された。私は、アイドルについては、ほぼ、無知なので、なぜに「乃木坂48」に
機雷が初めて近代戦争に登場しましたのは日露戦争(1904年〜1905年)の時でした。日本はこの戦争で機雷にこっ酷く痛み付けられ、また第2次世界大戦でもう1度やられています。日本を完全に封鎖し降伏に至らしめたのは、何にも増して機雷の働きでした。機雷は「勇者の武器」と見なされました試しがなく、多くの海軍司令官は一般に機雷の使用を潔しとしませんでした。アメリカ海軍はこの機雷嫌悪を克服し、1945年になると日本の海上輸送を完全に封鎖する為、潜水艦と航空機で機雷を敷設していきました。効果は絶大でした
真実を知ると、感動する🥹日本人として生まれた事に誇りが持てる✊覚醒めよ!!!日本人!!!!!
**児玉源太郎**は、日本史上有数の傑物であり、未曾有の国難であった**日露戦争**において薄氷の勝利をもたらした軍人・政治家です。彼の生涯と業績について詳しく見てみましょう。1.**生い立ちと苦労**:-1852年に周防国徳山藩士の子として生まれました。-父親が亡くなり、家名が断絶されるなど苦労の連続でしたが、母親は教育を怠らず、彼の才能を育てました。2.**日露海戦時の活躍**:-日露戦争開戦時、児玉源太郎は参謀本部次長として戦争の準備・計画の実務責任者
きゅうそ【窮鼠】追い詰められて逃げ場を失った鼠(ねずみ)すぎもと【杉元】杉元佐一(すぎもとさいち)は日露戦争に参加した退役軍人。その鬼神のような戦いぶりから不死身の杉元の異名をとった。戦死した親友剣持寅次の妻、剣持梅子の眼の病の治療費を稼ぐため、単身で北海道へ渡って砂金採集を試みたが、刺青の囚人の話を聞いてアイヌの金塊探しを開始した。アイヌの少女アシㇼパや囚人のひとり白石由竹らと組み、同じく金塊を狙う鶴見篤四郎の第七師団と対立する。ささや
日露戦争の満州軍の大山巌&児玉源太郎コンビと、日中戦争での八路軍の朱徳&彭徳懐コンビは色々と似ていると思えないだろうか!?大山巌が作戦立案を児玉源太郎に一任してたのは有名だが、日中戦争での八路軍もNo.1は朱徳だったが実質的な指揮はNo.2の彭徳懐が執っていたようだ。また大山巌が余り多くは語らない性格で児玉源太郎がうるさ型の軍人だったのも有名だが、「彭徳懐の中国革命」という本に朱徳には茫洋さがあるが彭徳懐は剛直な直言居士であると評されたと書いてあった。さらに大山巌が海外への留学経験もありあ
「一日に十里の路を行くよりも、十日に十里行くぞ楽しき」桂太郎の言葉である。桂太郎の詳しい経歴は次のとおりである。父は萩藩士。戊辰戦争に従軍。明治3(1870)年ドイツ留学。8年ドイツ公使館付武官となり再び渡欧。ドイツの軍政の調査・研究に従事。11年に帰国後、山県有朋の下で兵制・陸軍官制の改革を行う。19年陸軍次官。日清戦争では第3師団長。第2代台湾総督、東京防禦総督を経て、第3次伊藤内閣の陸相となり、第1次大隈・第2次山県・第4次伊藤各内閣でも留任した。その後、西園寺公望と交
旧陸軍記念日を祝う会徳島懸忠霊塔(徳島陸軍墓地)皇紀2684年3月10日英霊眠る墓地現在の平和な国家はそれまでにはおおくの苦難がありました。英霊に感謝黙祷旧陸軍記念日祝う会日時:皇紀2684年3月10日午前11時開催場所:徳島縣忠霊塔(徳島陸軍墓地)〒770-0048徳島県徳島市南庄町桐の水152-4旧陸軍記念日1905年3月10日に、日露戦争の奉天会戦で大日本帝国陸軍が勝利し、奉天(現在...youtu.be現在の平和な国家はそれまでにはおおくの苦難がありました。英霊に感謝旧
ビクトリア・ヌーランド国務次官が辞任(失脚?)したことで、アメリカはロシア・ウクライナ紛争から手を引くのではないかと噂されている。手を引くというのは実質的に戦争に負けたという意味になる。昔からアメリカは戦争の弱い国であり、ロシアは戦争の強い国だから、当然といえば当然のことになる。大東亜戦争でアメリカは日本に勝ったが、それは戦争の弱いもの同士で戦かったからで、強かったから勝ったのではない。アメリカが戦争に弱いことは、ベトナム戦争以降のアメリカの戦争を見れば分かる。満足に勝ちを収めたことが
ほくちんぶたい【北鎮部隊】第七師団のこと。北海道民が畏敬の念を込めた「第七師団」の呼び方。だいにほんていこく【大日本帝国・大日本帝󠄁國】大日本帝国とは、大日本帝国憲法時代に使用された日本の国号の1つ。1890(明治23.11.29)~1947(昭和22.5.2)りくぐん【陸軍】陸軍は、主に陸上において軍事作戦を遂行する軍隊の一種である。陸軍は海軍や空軍に対して陸地における作戦、戦闘の実施を担っている。だいななしだん【第七師団】第7師団(だいしちし
現在の平和な国家はそれまでにはおおくの苦難がありました。英霊に感謝黙祷旧陸軍記念日祝う会日時:皇紀2684年3月10日午前11時開催場所:徳島縣忠霊塔(徳島陸軍墓地)〒770-0048徳島県徳島市南庄町桐の水152-4旧陸軍記念日1905年3月10日に、日露戦争の奉天会戦で大日本帝国陸軍が勝利し、奉天(現在の瀋陽)を占領して奉天城に入城した日である。1906年(明治39年)3月10日が第1回陸軍記念日である。徳島縣忠霊塔(徳島陸軍墓地)明治41(1908)年10月、歩
現在の平和それまでにはおおくの苦難がありました。英霊に感謝旧陸軍記念日式典日時:皇紀2684年3月10日午前11時開催場所:徳島縣忠霊塔(徳島陸軍墓地)〒770-0048徳島県徳島市南庄町桐の水152-4旧陸軍記念日1905年3月10日に、日露戦争の奉天会戦で大日本帝国陸軍が勝利し、奉天(現在の瀋陽)を占領して奉天城に入城した日である。1906年(明治39年)3月10日が第1回陸軍記念日である。徳島縣
ついに連合艦隊司令部から声絶えた元連合艦隊司令部通信参謀・海軍中佐・中島親孝が綴った終戦ミリタリー誌「丸」4月号世界で1、2を争う海上兵力を誇った日本海軍の連合艦隊。日清戦争時の明治27年に初めて編制されて、その後、日露戦争、第1次世界大戦、第2次世界大戦とその実力を発…www.sankei.com
前回、豊洲を書いたが、東京港を書いてみたくなった。序文として、墨田川の河口にある「勝鬨橋」に触れておきます。私が一番最初に海に接した所が勝鬨橋のような気がするからです。戦前で、5,6歳の頃父親が勝鬨橋を見に連れて行ってくれたことを覚えている。新宿からわ市電11系統の「月島」行く。魚市場の築地と江戸時代に埋め立て造られた津月島を結ぶ可動く橋である。そこは墨田川の加工で東京港の出口になる。何故父親はここへ連れてくれたかといえば、完成したばかりの橋だったか
明治の戦争を読み解く3月28日まで企画展開催中公文書の一部相模原市立公文書館(久保沢1の3の1)で3月28日(木)まで、企画展「相模原の村々と明治期の戦争」が開催されている。時間は午前8時45分から午後5時まで(土日祝休館※9日は開館)。市内各所に残されている忠魂碑や表忠碑、忠霊塔、殉国碑など、さまざまな名称の慰霊碑や史跡、歴史的公文書の中から、明治時代の戦争(五稜郭の戦い、西南戦争、日清戦争、日露戦争など)を読み解いていく。学芸員が展示内容について解説する「公文書館トーク・トーク」は