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毎年5月第2日曜日は新日吉神宮最大の祭典である新日吉祭の神幸祭(しんこうさい)です新日吉神宮の神様後白河天皇と日吉大神様がご鳳輦(ごほうれん)というお乗り物で200名ほどのお供を従え神宮近隣の町々へお出かけになり町や人々の生活の様子をご視察にお出かけになることですその行列が進む巡幸路(じゅんこうろ=コース)は毎年すこしづつ変更されます先日の役員会で本年の巡幸路が確認され昨日その順路図が出来上がりました今日から順次関係町内や沿道の各所に掲示
昨日の台湾の地震には驚かされました。今年は能登半島地震が元旦にありましたし、台湾は地理的にも近く、何かしら能登の影響がプレートにあったのかと素人考えで不安にさせられます。被害が最小限にゆけばいいと願いますし、今までの恩返しのためにも復興支援の一端を担いたいと考えています。第八十二代後鳥羽天皇は鎌倉時代が始まった時の天皇です。治承四年(1180年)生。御名は尊成(たかひら)。御父は高倉天皇、御母は藤原殖子。また御祖父は後白河院です。そして二歳違いの異母兄は安徳天皇です。
さてさて…………………少し遅めのランチタイムを済ませたココロは、この日最後となる目的地に到着した……………地名である『六地蔵』の由来がある寺院だという【大善寺(だいぜんじ)】京都府京都市伏見区桃山町西町24『六地蔵』のひとつである【大善寺】に残る寛文5年(1665年)の『六地蔵縁起』によると、平安時代初期に活躍した小野篁(おののたかむら)は、役人であり歌人としても知られた人物で、遣唐副使を辞退し隠岐に流されたこともあるが、後に赦されて参議にまで登りつめた。その一方で、あの世とこの世を
式子内親王は後白河天皇の第三内親王で、異母弟が高倉天皇ということは…丁度時代が変わりだしたころなのね。純粋に和歌にひかれたのか、激変する時代や環境に身をおく内親王という立場から興味を持たれたのか?新古今和歌集下(角川ソフィア文庫)Amazon(アマゾン)拾遺和歌集(岩波文庫黄28-1)Amazon(アマゾン)新版古今和歌集現代語訳付き(角川ソフィア文庫)Amazon(アマゾン)新古今和歌集〈上〉(角川ソフィア文庫)Amazon(ア
三十三間堂の東にある後白河天皇ゆかりの寺院。988年(永延2年)藤原為光により法住寺創建。1032年(長元5年)火災により焼失。1158年(保元3年)後白河上皇の御所である法住寺殿建立。これより崩御後も御陵を守る寺院として存続。正門脇の梅。■正門正門より見た三十三間堂。■玄関■十三重石塔■鎮守社■扁額(中央)分神豊川吒枳尼天、厳島辨財天■扁額(左)白峰辨財天、竹男大龍神■扁額(右)毘沙門天王、護
本日は旧暦1月16日ですが、康和五年一月十六日(1103年2月24日)、堀河天皇の第一皇子宗仁(むねひと)親王が誕生されました。※明治に新暦になる前の出来事は、旧暦のほうが日本を理解しやすいと思いますので旧暦を参照しています。ただし当時の西暦がわかるものについては併記するようにもしています。なお、改暦は何度もされていますので単純に旧暦にあてはめています。堀河天皇はその父君白河上皇が後に長く院政を敷かれたこともあり、後の世では白河上皇の影に隠れてしまっていますが、当時人望厚く「末代の賢王」とい
■拝殿唐破風向拝の拝所。■大黒様・真猿■大黒様拝殿北西側。■本殿流造。1835年改造。本殿北側。本殿、瑞垣北東側。スダジイ越しの本殿東側背面。東側の唐門、拝所。本殿、瑞垣南東側。本殿南側。拝殿南側。
《新古今和歌集・巻第七・賀歌》751久寿(きうじゆ)二年、大嘗会(だいじやうゑ)悠紀方(ゆきがたの)屏風に、近江国(あふみのくに)鏡(かがみ)の山をよめる宮内卿永範(くないきやうながのり)曇りなき鏡の山の月を見て明(あき)らけき世を空に知るかな☆☆☆☆☆【新編日本古典文学全集「新古今和歌集」☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆(訳者・峯村文人・小学館)の訳】☆☆☆☆☆☆☆☆久寿二年、大嘗会悠紀方の屏風に、「近江の国鏡の山」を詠んだ歌宮内卿永範曇りのない鏡山の清らかな月
おはようございます。昨日、京都では震度4の地震が起こり、肝を冷やした方もおおかったのではないでしょうか。今年、元日の能登半島地震から地震の恐ろしさ大変さを目の当たりにしているので、恐怖は募ります。改めて、備蓄と揺れが起こると家ならばどこに逃げると考えておくといいかと思います。能登半島地震でも、繰り返し津波が来たらどこに逃げるという訓練を毎年行っていたので、地震が起こると、住民のみなさん、素早く避難なさったとか。自然災害は来ないことがいいですが、頭の片隅に考えておく方がいいですね。出典日
★第八十代高倉天皇は平安時代末期の天皇です。応保元年(1161年)生。御名は憲仁(のりひと)。御父は後白河天皇、御母は平滋子皇太后(建春門院)。在位、仁安三年(1168年)から治承四年(1180年)。建春門院は、平清盛妻時子の異母妹で後白河上皇の別格の寵愛を受けました。「言葉にできぬほど美しく若々しい」と称えられた美貌で入内することになり、終生愛されたといいます。また、後白河上皇が不在のおりには代わりに奏聞を受けるなど政治的発言力も持っていたといい、その血を受け継い
謹んで立春のおよろこびを申し上げます寒いながらも穏やかな春を迎え益々のご清栄をお祈りいたしております昨日節分には新日吉神宮ご近所の『フォーシーズンホテル』さんに天狗と鬼が来ていました新日吉神宮の御祭神『後白河天皇』ゆかりの『法住寺さん』の節分会で法住寺さんのご住職が自ら近隣へ出向かれて厄払いをされその先頭に山伏鬼天狗の行列がありますで神主がその様子を拝見にでました一夜明け立春の今朝は春が訪れたことを神様に報告し春を迎えられたことを神
一旦3時に目覚め、今朝起きたの8時ちょっち前や。ザ・ポインターシスターズのアルバム「ザッツ・ア・プレンティ」をレコードで聴いた。朝食は山形産つや姫でご飯炊き、くめ納豆、梅干しでご飯一膳半。デザートは愛媛産みかん2個。大坂昌彦→原大力→奥平真吾→本田珠也→岩瀬立飛→鈴木麻緒と、これ迄ライブ聴いとるドラマーをユーチューブで聴いた。モン・ズーイーが主演で、シュー・ジェンシーが相手務める「花令嬢の華麗なる計画」第一話をユーチューブで見た。昼食は浅草「Rrestaurant&bar」へ行っ
…5代の天皇に渡り30数年間、院政を行ない、源頼朝に「日本一の大天狗」と言わしめたとも伝わる法皇は?「後白河法皇」である。第77代・後白河天皇は、鳥羽天皇の第4皇子で、母は待賢門院璋子(ショウシ)。久寿2年即位、保元3年譲位し、天皇5代・34年間、院政を行なった。在位中に「保元の乱」があり、平氏政権から鎌倉幕府確立に至る変動期にあって、朝廷の威信保持に努めた。仏教に深く帰依した他、今様を好んだ事でも知られる。『梁塵秘抄』を撰集した。
新日吉神宮年末の祭典行事のご案内です◎12月31日午後1時30分から年越大祓(としこしおおはらい)皆さまの『病気』や『悩み』『迷い』『けがれた心』などを年末に全て失くして新年を迎えて頂く神事です新年を晴々と爽やかに迎えるためには神さまに心身の『穢れ』(けがれ)を浄化して頂きそして心身を『再生』して頂き”リセット””リフレッシュ”‼️する事が必要ですそのための神事が
本日は旧暦11月12日ですが、治承二年十一月十二日(1178年)、845年前の本日は高倉天皇の第一皇子、言仁(ときひと)親王が誕生された日です。時は平安末期、親王の母君は平徳子(建礼門院)で外祖父は平清盛でしたから、平家待望の皇子誕生です。徳子懐妊の際に行われた祈祷には、「変成男子の法」もあったといいます。また月が満ちるにつれ身体の苦しさを訴える徳子には、平氏に恨みを持つ生霊・死霊の物の怪が取り憑いているとされて鬼界ケ島の流人が許されました。この時僧俊寛を除く者だけだったという、その話が歌舞伎
《新古今和歌集・巻第六・冬歌》692年の暮(くれ)によみ侍りける上西門院兵衛返りては身に添ふものと知りながら暮れゆく年をなに慕ふらん☆☆☆☆☆【新編日本古典文学全集「新古今和歌集」☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆(訳者・峯村文人・小学館)の訳】☆☆☆☆☆☆☆☆年の暮に詠みました歌上西門院兵衛新しく立ち返っては、年齢として身に添い加わって老いに近づくものと知っていながら、暮れていく年をどうして慕っているのであろうか。☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆
京都東山区東大路通七条交差点を東へ通称「女坂」を登ったところ後白河天皇ご由緒の神宮です【御祭神】◎後白河天皇◎日吉大神(滋賀県日吉大社御分霊)境内には◎秋葉・愛宕社◎飛梅天満宮◎樹下社(豊国社)◎山口稲荷社【歴史】永暦元年(1160年)10月16日後白河上皇がお住まいである「法住寺御所」に日吉大神の御分霊を滋賀県日吉大社より迎えられおまつりされ以来の歴史があります【ご利益】家内安全・魔除け・災難厄除・不浄清めなど【ご由緒】後白河上皇以来
【食育クイズ:Vol.1484】「京都府」の「74代天皇后、待賢門院」おさらいクイズ!「浄土式庭園」と「青女の滝」が造立された寺院とは?↓↓↓↓↓↓問題は下記から↓↓↓↓↓↓∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞コッチラボ国産大豆100%大豆ミートプレミアムソイミンチ粗挽き鶏ミンチ風サラダ・スープに大容量サイズ1kgAmazon(アマゾン)大豆コーヒードリップパックAmazon(アマゾン)∞∞∞∞∞
《新古今和歌集・巻第六・冬歌》677守覚法親王、五十首歌よませ侍りけるに皇太后宮大夫俊成雪降れば峰のまさか木(き)埋(うづも)れて月にみがける天(あま)の香具山(かぐやま)☆☆☆☆☆【新編日本古典文学全集「新古今和歌集」☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆(訳者・峯村文人・小学館)の訳】☆☆☆☆☆☆☆☆守覚法親王が、五十首の歌を詠ませました時に皇太后宮大夫俊成雪が降ったので、峰の榊が埋って、月の光で磨いて輝いている、天の香久山よ。☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆
寛弘五年九月十一日(1008年)、一条天皇の皇子だった敦成親王が誕生されました。本日は旧暦の9月11日ですから、1015年前の本日のことです。敦成親王の母である中宮彰子には紫式部が仕えており、その出産の様子が「紫式部日記」に残されています。※単純に旧暦にあてはめています。八月二十日過ぎから中宮の関係者はみな土御門殿(彰子の父、藤原道長の邸。彰子は出産に備えて七月十六日から退出中だった。)に宿直し、とりとめのない管絃遊びに夜を明かしていたとして「琴、笛などの演奏に未熟な若者達が、読経の声や
2019/03/03配信<第77代後白河天皇>日本一の大天狗長きにわたる院政〔二条天皇・六条天皇・高倉天皇〕1156年保元の乱(源為朝伊豆大島・配流→琉球王説)
★第五十八代光孝(こうこう)天皇は平安時代の天皇です。御父仁明天皇の第三皇子、御母は藤原澤子(たくし)。先帝陽成天皇の祖父文徳天皇の弟。天長七年(830年)生。御名は時康。在位、元慶八年(884年)~仁和三年(887年)。第五十七代陽成天皇は乱行・奇行があり群臣を悩ましたため、何度も退位を迫られ、手続き的には十七歳で譲位の形をとって退位させられたといいます。そしてこの時、譲位されたのが時康親王でした(光孝天皇)。次の天皇を決めるため太政大臣であった藤原基経が何人もの親王を訪ねるとど
第七十八代二条天皇は平安時代末期の天皇です。御父後白河天皇の第一皇子、御母は藤原師実の三男で大炊御門家の祖、経実の娘・源懿子(よしこ/いし)。高倉天皇は異母弟です。康治二年(1143年)誕生。諱は守仁(もりひと)。在位は保元三年(1158年)から永万元年(1165年)。生母が守仁親王誕生直後急死したため、祖父の鳥羽法皇に引き取られ、美福門院(藤原得子)の養子となって育てられました。既に近衛天皇の時代であり、同じく美福門院の養子には崇徳上皇の第一皇子の重仁親王がいらっしゃったので、
…分かれて争われた戦乱は何か?「保元の乱」である。白河殿を攻める義朝逃げる崇徳上皇皇位継承をめぐり鳥羽法皇と対立していた崇徳上皇は、摂関家の継承を目指して兄の関白・藤原忠通(タダミチ)と争っていた左大臣・藤原頼長と組んで、源為義・平忠正らの武士を集めた。これに対して鳥羽法皇の立場を引き継いでいた後白河天皇は、忠通や近臣の藤原通憲(ミチノリ・信西〈シンゼイ〉)の進言により、平清盛や為義の子・源義朝らの武士を動員し、上皇・方を攻撃して勝利
第七十九代六条天皇は平安時代末期の天皇です。御父は二条天皇、御母は伊岐致遠の娘、祖父は後白河院。長寛二年(1164年)誕生。諱、順仁(のぶひと)。在位、永万元年(1165年)から仁安三年(1168年)。五代に渡って院政を敷き、日本一の天狗と言われた後白河院が権勢を誇っている時代にその孫として生まれましたが、父と祖父は対立していました。二条天皇は、親政を行おうとして後白河上皇と対立し、また異母弟である憲仁親王(後の高倉天皇)の擁立を画策したと、憲仁親王の叔父である平時忠を流罪にし、平教
崇徳天皇は1119年、鳥羽天皇と藤原璋子との間に生まれた子供。そして、母である藤原璋子は何かと評判の悪い女でした。藤原璋子は鳥羽天皇の父である白河法王が寵愛していた女であり、白河法皇との関係には男と女の関係があったと言われています。つまり、白河法皇は息子に自分の愛人を嫁がせたんです。崇徳天皇は実は鳥羽上皇の子ではなく、白河法皇との子なのではないか?という噂が崇徳天皇に付きまとうことになります。崇徳天皇は1123年に天皇即位します。若い崇徳天皇の即位には、白河法皇の意向が強く働いてい
第七十六代近衛天皇は平安時代末期の天皇です。御父は鳥羽天皇、御母は藤原得子(美福門院)、異母兄に崇徳天皇と後白河天皇がいます。保延五年(1139年)誕生。諱は体仁(なりひと)。在位は永治元年(1141年から)から久寿二年(1155年)。大治四年(1129年)治天の君として君臨した白河院が亡くなると、孫の鳥羽院が政治の中心となりました。そして永治元年(1141年)鳥羽院は寵愛している美福門院との子である体仁親王への譲位を、待賢門院璋子との子である崇徳天皇へ強要します。この時、体仁親王はま
今日は二十四節気の「処暑」。今月8日の「立秋」から半月が過ぎて、暑さも和らぎはじめて秋を感じ出すころ、ということになるのだが。ところが今日は朝から、カラッと暑いのではなく、蒸し蒸しとした嫌な暑さだった。それで朝の内、少しバタバタと動き回っていた私は、けっこうじっとりと汗ばんでしまった。その汗をかいたままで、エアコンが掛った部屋にいたところ、今度は急激に鼻水が止まらなくなってしまった。だから、ずっとティッシュ・ペーパーが手放せなくなってしまった。この二十四節気は、「処暑」から半月
第七四代鳥羽天皇は、平安時代後期の天皇です。安楽寿院に伝わるという鳥羽法皇像御父は堀河天皇、御母は藤原苡子。また祖父は、父の堀河天皇時代から次の崇徳天皇まで三代の長い院政を敷かれた白河天皇です。崇徳天皇は第一皇子、後白河天皇は第四皇子、近衛天皇は第九皇子です。康和五年(1103年)生。御名は宗仁。嘉承二年(1107年)~保安四年(1123年)。鳥羽天皇の時代には源氏物語絵巻が作成され、現存する絵巻の最古のものとなっています。源義親の乱の追討や当時多かった武装した僧兵の乱暴狼藉を鎮圧
京都のお寺って似たような名前ばかりで、ややこしい…。そこで、平安時代に建てられた「法◯寺」を紹介してみよう!と思い立って、前回企画で4つのお寺を語ってみました。そのうちの「法勝寺」は、通称「六勝寺」と呼ばれる6つのお寺のひとつ。なので、この際だから六勝寺の歴史についてもやってしまおうかな…と。今回は、そんなブログになります。そうそう。先に言っておきますが、今回ご紹介する6つのお寺。すべて、当時の場所には現存していません。よって、旅行の予習に…みたいに利用す