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「日本も外国もそのときに至らなければ、短慮で行動して破綻したのはかなり多い。世の中の人はたいてい福徳や果報を得ようと思うと、果報は寝て待てと、または果報は練って待てという二つをよくよく理解して勤めるように。」算右衛門は言った。「実にありがたいお慈悲で、生涯の果報を得て奉ります。ありがとうございます。ですが、一つ疑問があります。一休和尚は世の中に寝たほど楽ななきものをあほのたわけがおきてはたらくとお読みになったのは、今の果報は寝て待て、果報は練って待てとおっしゃるのと
24.03/16sat.07:25-16:50(西梅田-ザセレクトン高松)一宮寺83番から西に北に折れ、JR線を渡って左折JR線に並行する丸亀街道北側に、白牛山国分寺仁王門まっすぐ本堂に向かう右側に創建当時から残る、四国最古の鐘創建当時の本堂礎石から本堂本尊十一面千手観世音菩薩に納経幸せを招くネコいます右手前に、七福神から中門をくぐり大師堂、参拝殿から納経仁王門に戻る西側に、閻魔堂東側に、創建当時の七重塔礎石第80番白牛山国分寺(はくぎゅうざん
★第二十七代安閑天皇は奈良時代の天皇です。御名は勾大兄尊(まがりのおおえのみこと)、広国押武金日尊(ひろくにおしたけかなひのみこと)。御父は継体天皇、御母は尾張連草香の娘、目子媛(めのこひめ)。継体天皇には皇后との皇子、天国排開広庭尊(あめくにおしはるきひろにわのみこと)、後の欽明天皇がいましたがまだ幼く、長子である兄の勾大兄尊が皇太子となり即位されました。勾大兄尊は幼いときより器量が優れ、寛大で人君にふさわしい人柄であったといいます。皇太子の時も天皇をよく補佐されました。
★第九十五代花園天皇は鎌倉時代末期の天皇です。永仁五年(1297年)生。在位、延慶元年(1308年)~文保二年(1318年)。御名は、富仁(とみひと)、遍行。御父は伏見天皇、御母は洞院季子。花園天皇の時代は、両統送立で朝廷が二つに分かれ出したときでした。花園天皇の祖父である後深草上皇とその同母弟の亀山上皇の治天の君争い、つまり次の天皇が後深草上皇系(持明院統)になるか、亀山上皇系(大覚寺統)になるかの争いから始まったものです。両統送立とは、鎌倉幕府が間に立ち交互に両
12月1日が命日・忌日の有名人・著名人842年(承和9年10月22日)51歳薨去(?)阿保親王殿下平安時代の皇族平城天皇の第一皇子1433年57歳崩御(?)後小松天皇陛下北朝第6代・日本の第100代天皇後円融天皇の第1皇子1977年満60歳没(?)望月優子さん女優、政治家義弟:加藤嘉1993年満84歳没(大腸癌)益田喜頓さんコメディアン1998年満70歳没(肺炎)中山昭二さん俳優『特別機動捜査隊』『ウルトラセブン』2001年没満62歳(胃癌)村
2019/03/25配信<第100代後小松天皇>北朝(皇子)一休宗純〔安国寺〕南朝皇子の可能性大世阿弥〔風姿花伝〕足利義満〔日本国王源道義〕勘合貿易開始
本日は旧暦6月18日ですが、応永二十六年六月十八日(1419年)は、伏見宮貞成(さだふさ)親王の第一王子として彦仁(ひこひと)王が誕生された日です。伏見宮家は崇光天皇の第一皇子、栄仁親王を祖とする持明院統の嫡流に当たる世襲親王家で彦仁王は崇光天皇の曾孫にあたります。第百一代称光天皇の御世でしたが、天皇には皇子がなく弟も薨去されていたので、天皇が崩御されると後小松上皇は彦仁王を猶子に迎え皇位につけました(後花園天皇)。貞成親王は伏見宮家の二代目当主でしたから、宮家の役目を果たしたこと
北朝第五代後円融天皇は室町幕府三代将軍足利義満が権力を深めた時代、南北朝時代の北朝、持明院統の天皇です。なお、識者によれば、南北朝という表現は戦後一般化したもので当時南北朝などと呼ぶ人はいなかったそうです。つまり現在南朝と呼ばれているのは吉野朝であり、北朝は旧来通りなのであらためて北朝などとは呼ばれたりはしなかったということです。生年は延文三年(1359年)。御父は後光厳天皇、御母は藤原仲子(崇賢門院)。仲子の姉が母の足利義満とは従兄弟同士で同い年(新暦では一つ違い)。御名は緒仁(お
本日は旧暦の4月22日ですが、建武元年四月二十二日(1344年5月25日)は、光厳上皇の第一皇子益仁親王が誕生した(践祚後、興仁に改める)日です。(単純に旧暦にあてはめています)この頃は、後醍醐天皇による建武政権に始まる南北朝動乱の時代であり、いわゆる北朝である持明院統が劣勢の頃で、光厳上皇は大覚寺統の後醍醐天皇により退位させられ太上天皇(上皇)の尊号を奉わっていました。しかし益仁親王誕生後、持明院統がじわじわと盛り返したのは、後醍醐天皇が足利尊氏と不和になり建武政権が崩壊し、後醍醐
16日、天皇陛下が恒例のお田植えをされました。令和五度目のお田植えとなります。令和元年は上皇陛下が最後に蒔かれた種もみを天皇陛下がお田植えをされてその稲を秋に刈られ、伝統の継承という形にされていました。天皇陛下は16日、皇居にある水田で、恒例行事となっている「お田植え」を行われました。天皇陛下は16日午前、皇居の「生物学研究所」の脇にある水田を訪れ、陛下が先月まいた「種もみ」から育った、うるち米の「ニホンマサリ」と、もち米の「マンゲツモチ」の苗、20株を植えられました。汗ばむ陽気の中、陛下
さて、『はぐれ刑事純情派』などの映像では、お百度を踏むのは100%女性でした。男性はしないの?ということで、男性バージョンを探してみました。まずは中世から。伏見宮貞成親王。サダフサ親王、と読みます。詳しくは、「大掃除、改め煤払い」をご覧ください。彼が書いたのが『看聞日記』。カンモン日記と読みます。読み方は難しいですよね…。室町時代中期の有名な日記です。この日記に、貞成親王自身が百度参りをしている様子が記されています。男性、という括り以上に、親王がお百度参りを
名古屋のシンゾウです今週は、過去問題の看破を目指します。今朝は、少し早起き(3時頃)をし、3級問題から、100問を30分のスピードで、ノートに解答を書きながら、6回分をやりました。勿論、問題は選択式から記述式に修正してあります。正答率は100%としたいのですが、漢字が書けないし、イージーミスも沢山ありました。このイージーミス(早とちり)対策が、一番厄介です。(今回の漢字ミス→どこが間違ったか分かりますか)易経、大池(巨椋池)、四条麩屋町、花傘巡行、戌、大舎人座、柳箸、蹴鞠始め、六波
2019/03/25に公開<第100代後小松天皇>北朝(皇子)一休宗純〔安国寺〕南朝皇子の可能性大世阿弥〔風姿花伝〕足利義満〔日本国王源道義〕勘合貿易開始
本日は旧暦の4月22日ですが、建武元年4月22日(1344年5月25日)は、光厳上皇の第一皇子益仁親王が誕生した(践祚後、興仁に改める)日です。(単純に旧暦にあてはめています)この頃は、後醍醐天皇による建武政権に始まる南北朝動乱の時代であり、いわゆる北朝である持明院統が劣勢の頃で、光厳上皇は大覚寺統の後醍醐天皇により退位させられ太上天皇(上皇)の尊号を奉わっていました。しかし益仁親王誕生後、持明院統がじわじわと盛り返したのは、後醍醐天皇が足利尊氏と不和になり建武政権が崩壊し、後醍醐天
昨日は、天皇陛下が恒例のお田植えをされました。令和元年は上皇陛下が最後に蒔かれた種もみを天皇陛下がお田植えをされてその稲を秋に刈られ、伝統の継承という形にされていました。早くも今年のお田植えは令和になって四度目のお田植えとなります。なお以下のニュースで上皇陛下の退位と語っていますが、天皇陛下に譲られているのですから譲位です。TBSNEWS日テレNEWS本日は、第第九十九代後亀山天皇の祭日です。後亀山天皇は室町時代の朝廷が二つに分かれていた南北朝の南朝四代目の天皇にして南朝最後の天
光圀公に想う「シラス」国いい天気ですね憲法記念日です戦後の日本を占領管理した「GHQ」によって「憲法の草案」がつくられました昭和21年(1946)2月1日「日本側の草案」が毎日新聞にスクープされGHQは「あまりに保守的、現状維持」と激怒「GHQによる草案」作成を始めます2月13日日本側草案がGHQに出されますがGHQはその場で「拒否」「GHQによる草案」を提示しこれに沿ったものにするよう指示連合国による「極東委員会」設置前ならGH
地蔵院へご案内しました。嵯峨野散策の穴場、通称“竹の寺”と呼ばれ門前から本堂へ続く砂利道の脇は竹林です。門をくぐると背を伸ばした竹が…ここだけ時間がゆったり流れている日常からかけ離れた幻想的で美しい世界です方丈からは宗鏡禅師作の枯山水庭園「十六羅漢の庭」が池や築山はありませんが苔がとても綺麗庭園の反対側にある茶室にはハート型の「猪目窓」が窓から覗く竹林も、さすがと風情を感じます境内に一休禅師母子像があります後小松天皇の皇子(幼名:千菊丸)母の伊予局は、帝の御子懐妊に
☝️😉吾輩の一番好きな一休さんの狂歌餅つかずしめ飾りせず松たてずかゝる家にも正月はきつ●皆がやる儀式的🎍なものをなんにもしなくても正月は必ず来るワケで、因習や儀礼にとらわれることなく自由に生きる事を説いた一休さんのエスプリの効いた狂歌☝️😄👤一休宗純明徳五年~文明十三年(1394.2/1~1481.12/12)後小松天皇の落胤と伝わる(京都府京田辺市の酬恩庵にある彼の墓所は宮内庁管理の陵墓)。幼名を千菊丸。臨済宗大徳寺派の僧侶。6歳で受戒して周建と名乗る
皆さんが〝頓智(とんち)〟という言葉から真っ先に頭に浮かぶのは、おそらく『一休さん』ですょネ。今日は、その一休宗純和尚の命日・没後540周年にあたります。紙本淡彩一休和尚像一休和尚は1394(明徳5)年に京都で生まれました。父は南朝方から神器を受け取り、南北朝統一の象徴となった北朝の後小松天皇。母は藤原一族、日野中納言の娘・伊予の局(つぼね)と伝えられています。(別人説あり。)一休和尚を身篭った伊予の局
足利義持が父、足利義満の計らいで摂家待遇の正五位下・左近衛中将官位を受け、1394年に9歳で元服すると同時に、征夷大将軍の宣下を受けました。当然政治の道具です。その後足利義持は、1395年6月3日(10歳)従四位下1396年4月20日(11歳)正四位下1397年1月5日(12歳)従三位1397年3月29日(12歳)権中納言1400年1月5日(15歳)従二位1401年3月24日(16歳)権大納言1402年11月19日(17歳)従一位1406年
本日は旧暦6月18日ですが、応永二十六年六月十八日(1419年)は、伏見宮貞成(さだふさ)親王の第一王子として彦仁(ひこひと)王が誕生された日です。伏見宮家は崇光天皇の第一王、栄仁親王を祖とする持明院統の嫡流に当たる世襲親王家で彦仁王は崇光天皇の曾孫にあたります。第百一代称光天皇の御世でしたが、天皇には皇子がなく弟も薨去されていたので、天皇が崩御されると後小松上皇は彦仁王を猶子に迎え皇位につけました(後花園天皇)。貞成親王は伏見宮家の二代目当主でしたから、宮家の役目を果たしたことに
第九十九代後亀山天皇は室町時代の朝廷が二つに分かれていた南北朝の南朝四代目の天皇にして南朝最後の天皇です。正平五年・貞和六年(1350年)後村上天皇の第二皇子として誕生。御名は熙成(ひろなり/のりなり)。御父は後村上天皇、御母は近衛勝子(阿野実為の娘説もあり)、また祖父は後醍醐天皇。在位は、弘和三年(1383年)~元中九年(1392年)。弘和三年・永徳三年(1383年)冬、同母兄の長慶天皇の譲りを受けて三四歳で即位されました。後醍醐天皇が南朝を開いて半世紀、この時期は南朝が最も衰えた時
太平記の群像56〜正平の一統と後光厳天皇①からの続きになります。京を奪回した義詮ら幕府軍でしたが、北朝の光厳・光明・崇光の三上皇と直仁親王が賀名生に拉致され、三種の神器も奪われ、朝廷の政務や儀式が行えず政治機能が停止する深刻な事態に陥ります。皇位継承には当時の先例では神器がなくとも、伝国詔宣と呼ばれる治天の君(上皇)からの新帝指名が最低でも必要、とされていました。義詮を支えていた佐々木導誉は尊氏や勧修寺経顕、二条良基らと図り、光厳・光明の生母である広義門院(西園寺寧子)に上皇の