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2019/7/22(月)その2熊本:おっぱい岩(1回目)→富岡城跡→大江天主堂→﨑津集落→牛深↓前回のお話はこちら『2019九州遠征3日目その1』2019九州遠征3日目(2019/7/22(月))その1※遠征記録は1日1回のペースで投稿していますが、どうやら今年の九州遠征スタートまでに2019年の…ameblo.jp前回はおっぱい岩(1回目)まで話しました。1回目と書いたのは、このあと2回目があるからです。お楽しみに。苓北町にある富岡城跡に向かいます。富岡城跡はこん
熊本・天草は隠れキリシタンの地。天草西海岸には、隠れキリシタンの遺構がたくさんある。崎津や大江には、古い教会が周囲に溶け込むようにひっそりとたたずんでいる。その静かな風景には、これまでの様々な歴史が刻まれている。熊本では、隠れキリシタンに関する研究が盛んに行われている。3月に市民を対象とする講演会があり、家内と共に改めて歴史(細川藩から見たキリシタン)を学んできた。講演の内容は割愛するが、歴史の流れとしては、1549年、キリスト教の宣教師フランシスコザビエルが種子島を訪れたところから始
おすすめ度:★×3伊東潤さんの「デウスの城」を読み終わりました。戦国小説は多くありますが、島原の乱を描いた小説は今まで読んだことがなかったので手に取りました。最終決戦地の原城にも足を運びました。なかなか攻略するのが大変だなぁ。。。と思いながら観光しました。宗教とは何か?を改めて考える事ができる1冊です。「BOOK」データベースより天下分け目の関ヶ原の戦いに西軍で参陣した小西行長の小姓・彦九郎と善大夫、そして肥後の地で守りにつく左平次。彼らは幼馴染の若きキリシタン侍だった。
久しぶりに歌舞伎町劇場に行きました。これで4回目かな。値段が高いので頻繁には行けません。大川良太郎の誕生日公演、普段は大阪でやりがちなので、東京での開催は珍しいような気がします。少なくともここ数年来やってないですよね。はるか昔、都若丸が木馬館で誕生日公演をやったこともあるみたいですけど、今や幻。今みたいに人気がさほどなかった頃の話ですね。かつては大川良太郎も木馬館に乗ってたんですけどね。木馬館は鬼門なのか、ここ数年乗ってませんね。歌舞伎町劇場も開業から半年が経ち、LED映像の方も心持ちグ
🔵島原の乱に至るまでの道1️⃣有馬晴信の生涯有馬晴信は日野江藩、今の天草・島原の初代藩主。⬆有馬晴信像(木像)有馬晴信にとって日本初のキリシタン大名の大村純忠は叔父にあたる。1580年に洗礼を受けてキリシタン大名となり、南蛮貿易で利益を上げる過程で叔父の大村純忠同様、晴信もカトリックにすっかり『かぶれ』た。そして秀吉が禁教令を出すまでに晴信の領内は数万のカトリック信者を抱える程になっている。晴信は秀吉の時代は秀吉側に付くが、関ヶ原では家康側に付くと上手く立ち回り、江戸の世になっても
その②から本渡から北に向かって鬼塚港にやって来ました。この港は島原半島南端の口之津港と天草を約30分で結びます。多くの車を積載できるフェリーが一日に10便以上出てますので地元の貴重な運送の足です。島原半島に渡れば原城や島原城など多くの史跡を回ることができます。島原の乱の頃にも多くの天草の領民が天草四郎を中心に島原・原城を目指して有明海を渡っていったのでしょうね。ただ一揆軍は天草四郎と共に皆殺しにされた悲しい運命をたどります。港にも天草四郎が建っていました。これから向かう島原の方角を希望に
「天草四郎に、どうして海の向こうからキリスト教の艦隊が助けに来なかったの?」とかいう人は、取り敢えず真田広之さんが作った「SHOGUN」を観ましょう。フランシスコザビエルが日本に来て布教してた時代から、世界情勢はとんでもなく変わっているんですよ。キリスト教にはカトリックとプロテスタントがあって、旧教国と新教国は血で血を洗う宗教戦争をやっていた、ってことを知らなければ、世界史どころか日本史も語れませんよ。イスパニア・ポルトガルの旧教国と、イングランド・オランダの新教国は、不倶戴天の敵です。
にっぽん城まつり2024。島原城ブースにて切り絵御城印のお迎え。文字部分が金ラメ。物理カメラ撮影が必要な難敵御城印。島原城は2022年にっぽん城まつりからイベント参戦。2022年お城EXPO。2023年にっぽん城まつり。2023年お城EXPO。島原城おもてなし武将隊。左が城主の松倉重政さま。島原に入封後、苛烈な搾取で悪政を尽くし島原の乱の原因となった。こんな美しき城主さまなら、悪政されてもいい!?長崎県島原市:島原城。築城主:松倉重
いや〜すんません。週末から今日まで『呑み事』あったり、『キリスト教が日本に今も馴染んでないのは何故?』という質問に出くわし、へぇそうなの?と思いつつ、何となく調べたら、ちょっと戦国時代から江戸時代のキリスト教と日本のアレやコレやが面白くて、調べちゃ書いて、サボって寝て、ゲームして…とダラダラしてて今日になってまった感じです。(笑)その間、全くアメブロを全く訪問してないので、どうなってるか全く知らないので、これから巡回します。もし『どうした?アイツ?』と思った方に御報告です。吐く手前まで呑
娘と二人、広島を旅して来た平清盛が現在の規模に造営したという厳島神社宮島は、昔から「神の島」として崇められてきた「令和の大改修」の終わった大鳥居は、鮮やかな色に蘇り、丁度、潮がひいた大鳥居まで歩いている人を数多く見た。その厳島神社の後方、見晴らしのよい場所に、豊臣秀吉が安国寺恵瓊に命じて建立させた豊国神社(千畳閣)がある。広い板の間に座れば、対岸の景色や内海の様子が手に取るように眺められた。平氏の時代を経て、秀吉の世へ・・・建物は残る・・・この穏やかな内海も、遠い過去を
島原の乱は切支丹ではない日本岩窟王・怨念の天皇人皇百十一代後西天皇島原の乱は伊達騒動に繋がる「丑(寛永十四年[1637])十二月二十日ごろ、天草領内の者ども何事かは知らず騒ぎたて候につき、二十二日より代官その他の村役の者々をつかわし取調べ居りし処、二十四日に至りて男女三千人程、有馬村に集結の由。同心松田兵右衛門に侍八人相そえ差し向けたが、二十五日に有馬村八郎尾と申す所にて、一揆のごとく騒ぎたてるときき、代官林兵衛門はみな殺しにしてしまえと下知す」というのが発端で
お立ち寄りいただきありがとうございます※一部、文章が変だったので再投稿です前回のつづきですが『熊本復興ONEPIECE巡り』お立ち寄りいただきありがとうございます以前、旦那の実家に帰省した時豊川稲荷様のお札がある事を知り掃除をしたお稲荷様の事は詳しくは知らないしお稲荷様を放置してる…ameblo.jp天草へ向かう前に…熊本復興プロジェクトの中でロビンがいた東海大阿蘇キャンパス実は、ココは地震による痕跡が今も残されていた皆んなの応援📣と熊本の人達の努力で…綺麗に整っ
地獄そのものと云われた松倉勝家の圧政に領民の怒りが爆発し、キリシタンの天草四郎を総大将として島原の乱が起った。寛永14年(1637年)から翌15年まで続いた島原の乱で,幕府軍は西国12万の軍勢により総大将の天草四郎が立て籠もる原城を包囲した。天草四郎が立て籠った原城出典:フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』島原の乱-Wikipedia籠城する天草方が使用した三十匁大筒幕府の上使の板倉勢が,島原の乱で城方から分捕った三十匁大筒。鉄ではなく青銅製。
攻城戦において攻撃拠点を築き敵の城や陣地に接近して攻撃を行う戦闘方法を仕寄といった。大坂城冬の陣合戦図屏風国立歴史民俗博物館所蔵仕寄とは,身隠しと呼ばれた塹壕を掘り,竹束や大楯を付け回して敵の矢弾を防ぐ野戦築城工事を差す言葉でもある。また臨時の物見やぐらを構築しそこから矢弾で城内の抵抗を制圧するため攻撃法のことも仕寄と言ったりした。つまり,仕寄とは,土俵や竹束,大盾などで攻撃拠点を築き、それを前に前にと押し出して敵の城壁に近づけて行く土木作業を伴なう攻撃法なのである。大坂
皆さま、こんにちは愛することがこんなにも辛いなんて愛を失うことがこんなにも苦しいなんて好きなビスケット教えて!▼本日限定!ブログスタンプあなたもスタンプをGETしよう•••••cut•••••・1638年(寛永15年)2月28日、島原の乱が終わる→九州の天草地方で、領主に反抗するキリシタンの農民たちが、天草四郎時貞をリーダーに一揆を起こします。しかし大量の幕府軍の前に敗れました
私の親が天草出身で寛永14年(1637年)の島原の乱(島原天草の乱)には前から興味があり現地に行って来ました。(原城の本丸跡)小高い丘の様な地形に一ノ丸、二ノ丸とあり岡の最上部が本丸。周りは地元の農家の畑になっていて当時の事を伺わせるものは本丸跡のモニュメントぐらいでのどかな時間が流れていました。籠城したキリシタン達は最後までこの海を見ながらポルトガルからの援軍を待ち続けたのでしょうか海の向こうには天草の島影が世界遺産になった割
熊本2日目は朝ラーから始まりました。昨日焼肉の後、近くの桂花ラーメンでシメようと考えていたのですが、お腹いっぱいすぎてあえなくホテルに帰って寝てしまいましたがホテルに帰る途中にスーパーに寄って地のもの探しを物色しました。それで桂花ラーメンのカップ麺と半熟くまもとよーぐるちょをゲットして朝からいただきました。まー油が効いてクセになる味でした。よーぐるちょは硬めで酸っぱめで懐かしい感じの味でした。他にもいろいろカップ麺ゲットしたので帰っての楽しみです。今日は嫁さんが行ってみたいと切
3日目部屋から見る朝焼け朝ごはん奄美の名物鶏飯がありました宮田さんをバスターミナルにお送りした後しばしお勉強の時間キリシタン迫害の歴史と天草・島原の乱について学びました(館内は撮影禁止)教科書に数行で書かれていた島原の乱年表に縦一行の記憶しかなかった島原の乱背景含めて一時間ほど学びました天草四郎像その後熊本天草鬼池港から長崎島原口之津港へフェリーで渡ります伊良部大橋が架かる前の土地探しの旅で当時運行していたはやて海運のフェリーに乗って以来10年ぶりのカーフェリー
さてさて…………………【元祇園梛神社】を出発した我々は、近藤勇や芹沢鴨らもかつて歩いたであろう道をてくてく歩き、次の目的地を目指した……………おっ見えてきたぞっ【島原(しまばら)】京都府下京区に位置する日本及び「京都五花街」で最古の花街の名称。『嶋原』とも書く。室町時代に足利義満が、現在の東洞院通七条下ルに許可した傾城町が日本の公娼地の始まりといわれる。桃山時代(1659年)には、豊臣秀吉の許可を得て原三郎左衛門らが二条万里小路に「二条柳町」を開設した。江戸時代になると六条付近に
《寸感》島原の乱をテーマにした歌である。島原の乱とは《江戸時代初期、松倉勝家領の肥前国島原と同国唐津寺沢堅高領の肥後国天草の領民が連帯し、少年益田(天草)四郎時貞を盟主に蜂起し、島原の原城にたてこもって幕府・諸藩兵と戦い、全員誅殺された大農民一揆。天草一揆ともいう。》(国史大辞典)(2024.1.26)「落城の譜」歌:森繁久弥1955年発表作詞:宮崎耿平(康平)作曲:古賀政男「天草・島原の乱」、原城の戦いを歌いこんだ曲。静止画で構成。www.youtube.com演
現代語訳学問のすすめ(ちくま新書)Amazon(アマゾン)学問のすゝめ(岩波文庫)Amazon(アマゾン)学問のすすめ(いつか読んでみたかった日本の名著シリーズ1)Amazon(アマゾン)現代語訳学問のすすめ(知的生きかた文庫)Amazon(アマゾン)ほらほら、今年のいつだか知らんが、渋沢栄一さんになるでしょ、一万円札。だから?って言うか、「お疲れさまでした」の意味を込めて、「学問ノススメ」を読んだわけさ。(* ̄▽ ̄)フフフッ♪
デウスの城(コルク)Amazon(アマゾン)${EVENT_LABEL_01_TEXT}関ヶ原で改易となった小西家家臣で、幼いころから共に育った3人の、キリシタンとして友としての絆とそれぞれの生き方を描いた作品です。主家の改易、キリシタンへの弾圧、普請や凶作による民の疲弊の末の島原の乱を三人三様に意志をもって駆け抜けます。・彦九郎:民の側に立ちキリシタンとして行動しイエズス会のイルマンとなります。・善大夫:一人でも多くのキリシタンを殉教から救いたいと幕府の崇伝に仕えます。
たまさかです今から7年ほど前のことです。島原に住む叔母が倒れたと連絡が入りました。母の弟のお嫁さんです。叔父は私が9才の頃亡くなっており、叔母さんはその翌年子供を連れて実家のある島原へと引っ越して行きました。子供の頃はお盆に会うことがありましたが、もう何年も会っていませんでした。いつかお見舞いに行こうと思っていましたが、日常に追われてだんだんと忘れていきました。数ヶ月後、また思い出しましたが、先で…と、また見送りました。すると程なくして、友人に不思議な夢の話を聞きました。「天草
12月11日の出来事969年東ローマ帝国ニケフォロス2世が暗殺される。1282年最後のウェールズ大公ルウェリン・アプ・グリフィズが戦死。1637年(寛永14年10月25日)島原の乱が勃発。松倉勝家が領する島原藩のある肥前島原半島と、寺沢堅高が領する唐津藩の飛地・肥後天草諸島の領民が、百姓の酷使や過重な年貢負担に窮し、これに藩によるキリシタン(カトリック信徒)の迫害、更に飢饉の被害まで加わり、両藩に対して起こした反乱。島原・天草の一揆の
埼玉県新座市にある金鳳山平林寺ですここまで11.7㎞ありました~AM9時から入場できます。500円!参拝者が並んでいます幕府老中松平信綱一族の菩提寺。禅寺です。山門。参拝者が多いので写り込まないように・・横から📷仏殿。放生池。島原・天草一揆供養塔。圧政に耐えかねて蜂起した農民一揆を松平信綱が圧倒的な武力で鎮圧、大虐殺が行われました。家臣の大島佐源太が1861年に建立・・・玉川上水から3割の水利権を獲得して野火止用水をひきました。
実家のマンションはイベントがいっぱいあるんですよね〜。ほぼ毎月です。先月は秋祭り、来月は餅つき、今月は紅葉を見に遠足〜。母は今月は敬老会からの温泉にも行ってました。だから母は今月は2回目のバスハイク〜で、今回は秋月。昔お城があった風情ある所。でも、この日(18日)の紅葉情報ではまだ「色付き始め」だったし、この日に限ってこの冬一番の寒さ。朝バスに乗り込む時は暴風でアラレが体に真横に吹き付けていたので最悪〜と思っていたけど、この集いでの遠足で天気が悪かった事はないので、絶対天気は良くなる
島原遊廓の謎島原屏風空想絵天草四郎現代の解釈では、九州の島原城に似ていて、入り口が出口と呼ばれる、一か所しかなく、しかも島原城と同じく柳の樹まで植えられているから、その名をとったのだと謂われている。当時西国一番だった、京の遊廓のこと。しかし、当時この京にわざわざ大規模な遊廓を造ったのには、隠されているが深い訳があったのである。まず、京所司代板倉宗重の命令で、六条新町より寛永十四年から、奈良
アカサカ「今日は日帰りで長崎旅行に行くぞ」コゴエル「長崎かぁ。ええなぁ」ルルゥ「楽しみなの♪」ギリアム「旦那様、留守はお任せください」~場面転換~アカサカ「という訳で、今日お世話になるバスはこちらだ」アカサカ「車内で朝食を摂ってと……」~場面転換~アカサカ「諫早駅に着いたぞ」アカサカ「ここから、島原鉄道のカフェトレインに乗るぞ」幻「カフェトレイン……?」バジりん「椅子の間にテーブルが御座いますね……」
エネルギーは伝えてくれたキリスト教宣教師キリシタンはりつけ・・・姿を現されたのは『天草四郎』♡画像全てお借りしました♡異国の服を着た美しい青年ずっと長崎に呼ばれこの春やっと訪れる事ができた長崎で見たものはこの地で起きた余りに残酷な事実『天草四郎』歴史上では島原の乱にて最期討ち取られ打首とされているそんな彼が私に視せたのは左首筋に刀を当てる姿私にはこれが彼の最期の姿であるように伝わった彼は敵に命を取られる前に自
こんにちは、tenです。アメブロ投稿、1667日目です。それでは、今日は、何の日?10月25日は、何の日で、どんな出来事があった日なのか?記念日の由来や、関連する雑学、お花、昔話に、郷土の玩具などを、あわせて紹介していきますね。ほんなら、今日のお花!10月25日の、今日のお花(美しい変化の楓)[花言葉「美しい変化、大切な思い出」《楓(かえで)》](かえでの花)楓(カエデ)の名前の、由来と特徴楓の、名前の由来は、「カエデ」と