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2月29日に仕事で群馬県沼田市に行ったのですが、仕事が片付いた後に市中心部にある沼田城址に行ってきました。人気の高い真田氏の居城跡になります。天正8(1580)年、武田勝頼の命により真田昌幸が沼田城を攻略して、さらに翌9年には沼田城の奪還に来攻した沼田氏を滅亡させました。このあと、この地の領有は秀吉の裁定により、名胡桃城から信州側を真田、沼田城から上州側を後北条氏としました。後北条氏の対秀吉強硬派としては、利根川を挟んだ沼田城の対岸に真田の名胡桃城が配置されていることが我慢ならずに、とうとう
※典厩寺山門…左手には閻魔堂が見えます典厩寺山門は、3代松代藩主幸道公の長國寺霊屋の門を万延元年(1860)に移築したものと伝わります武田信繁公の墓典厩寺1️⃣戦国武将の墓・供養塔シリーズ戦乱の時代は、おおまかに言うと応仁の乱(1467年応仁元年)から大坂の陣(1615年)までで3つのカテゴリに分類されると思います。1️⃣戦国時代応仁の乱(応仁元年1466年)から室町幕府の滅亡、織田信長政権の成立(天正元年1573年)2️⃣安土
※真田信之公の墓と案内板…高さ3.3mある巨大な「宝篋印塔で、正面に「大鋒寺殿」と信之の法名が刻まれています信之公はここで、荼毘に付され、遺灰の一部を真田家菩提寺松代長國寺に、残りを埋め宝篋印塔を建てましたお寺は、その後一時荒廃し、野ざらしとなっていた信之公の墓所の荒廃ぶりを嘆いた8代藩主幸貫公により寄進された鳥居、灯篭、土塀が現在も残っています真田信之公の墓大鋒寺3️⃣戦国武将、大名の墓・供養塔シリーズ戦乱の時代は、おおまかに言う
※大鋒寺真田信之公霊屋標柱(長野市指定文化財)真田信之公の墓大鋒寺2️⃣戦国武将、大名の墓・供養塔シリーズ戦乱の時代は、おおまかに言うと応仁の乱(1467年応仁元年)から大坂の陣(1615年)までで3つのカテゴリに分類されると思います。1️⃣戦国時代応仁の乱(応仁元年1466年)から室町幕府の滅亡、織田信長政権の成立(天正元年1573年)2️⃣安土・桃山時代織田政権(天正元年1573年〜天正13年)豊臣政権(秀吉関白宣下天正13年〜
※真田信之公銅像と案内板…信之公松代藩主就任400周年記念事業で造られました上田城に信之公像がないので嬉しいのは、嬉しいですが…!?「おっちゃん」やん!、もうちょっと幸村公のように「イケメン」銅像にしてあげればいいのに…と思いました実際、信之公は、小柄だった父昌幸に似ず180cmを超える「大男」のイケメンだったようです本多忠勝の娘、稲(小松)姫は、信之を駿府で見たとき「目が♥️マーク」になっていたそうです信之公は、松代発展に尽力し、「名君」として、民衆の尊崇の対象となりまし
すっかり間が空きましたが、いくつか備忘もかねて書いていきます。「松下三十郎元綱所持之松下家系図写」(与板藩の松下氏が所持していたもの)によると下記の記載があり、三十郎重綱に嫁いだ小松姫(稲)の妹の名前は「おいと」のようです。松下元綱息三十郎重綱妻は本多中務大輔忠勝娘(俗名於以登冷雲院)一方で、この三十郎重綱とその息子の言綱の記載は、以前触れた三人重綱の部分なのですが、保綱家系図/寛政重修諸家譜の記載と異なっています。本多忠勝の部分の記載とは整合しているので信頼するに
真田信之・小松姫の三男真田信重・正室鳥居忠政娘の墓があります。鳥居忠政の父は、鳥居元忠です。本多家・鳥居家・真田家の政略結婚なのでしょうか?真田信重とは信濃埴科藩第2代藩主。真田信之の三男。母は本多忠勝の娘・小松姫。信吉、信政の弟。通称は隼人。正室は鳥居忠政の六女。父の松代転封に伴い、7000石の旗本になる。寛永16年(1639年)、兄信政が沼田藩主となったのを受け、その旧領1万石を譲られて埴科藩第2代藩主となる。武蔵鴻巣にて客死した。後嗣なきため、埴科藩は断絶。知行(1万70
勝願寺には、徳川家ゆかりの墓があります。今回は、本多忠勝の娘小松姫の墓参りです。どうする家康では、稲姫と言う名で鳴海唯さんが演じておりました。小松姫とは安土桃山・江戸時代初期の武家の女性。真田信之の妻、本多忠勝の娘。慶長5(1600)年信濃真田氏は徳川家康に従って会津追討に参加したが、石田三成の挙兵により夫信之は徳川方、舅昌幸は石田方に属した。上田城に引き揚げる途中信之の沼田城に立ち寄った昌幸に対し、小松姫は敵としてその入城を拒否し家臣の家族を城にとどめ。城外に野営した昌幸の軍勢との抗
大河ドラマどうする家康第42回「天下分け目」2023.11.5放送NHK総合BSプレミアムこんばんは~やっと大河ドラマ記事です。前々回の回を書いていきます。鳥居元忠(音尾琢真さん)と伏見城で涙の盃を交わした後、松潤・家康は、上杉討伐のため出兵しました。その間に、石田三成(中村七之助さん)らは挙兵。家康がその報を受け取ったのは、下野・小山の陣でした。いわゆる「小山評定」が前半の見どころ。小山評定については、実際にはなかった説を聞いたことがありますが。この大河では、ある説
どうする家康第42回は天下分け目。下野國小山で評定が開かれた。一人の漢の姿が評定の場に無かった。その漢の行き先は、上野國沼田城。沼田城は真田昌幸の嫡男信幸が城主。沼田城に現れたのは、真田昌幸だった。*何しに来たのだろ…真田昌幸真田信繁陣太鼓が鳴り城内から武装した、真田信幸の正室小松姫が現れた。この城の主は我が夫真田信幸だ!*何で武装しているんだ…ここから先は一歩も通しませぬ!真田昌幸は城内に入る事が出来ず、柵越しに孫の顔を見るだけだった。昌幸は、孫達に謎の言葉を残し
沼田城を守る稲姫きた🤩真田昌幸は敵となったから入城を拒否した逸話ですね#どうする家康#稲姫#小松姫
ご訪問ありがとうございますアラフィフ主婦の「ゆな母」です。子育てゴール間近実父の介護真っ只中最近始めた車中カフェや大人の遠足ガーデニングなど自分の趣味を中心に自分の記録のために綴って行きたいと思っています近い将来車中泊の旅がしたいそんな夢も持ってます秋だそうだドライブに行こうやっと涼しくなってきて車中カフェもできる陽気になってきた夏は、車中にいたら命が危険やっと安心して出かけられる季節ですね。久しぶりに高速を走って来ました目的地、河岸段
☆戦国時代を生き抜いた真田氏を支えた小松姫(上州沼田~信州上田・松代)上田城**戦国時代を生き抜いた真田氏*真田昌幸と豊臣秀吉信州上田の地方豪族「真田昌幸」は、「武田信玄」に仕ていたが武田家滅亡後、信長の後継と手をあげた「豊臣秀吉」にいち早く臣従・・秀吉により大名として認められる。以後、次男・幸村と共に豊臣家につくした。
大河ドラマどうする家康第36回「於愛日記」2023.9.24放送NHK総合BSプレミアムこんばんは~すっかり週末更新が定番となった、今週の松潤・家康。出だしは、タイトルどおり”於愛(広瀬アリスさん)”の日記からスタート先週やたら伏線張っていましたからね。そんな感じかとは思っていましたが。”殿のことは心から敬い申し上げているけれど、お慕いするお方ではない”とハッキリ日記に書かれちゃっていて。草(笑)まぁ望まれたら断れないでしょうしね当時の現実としてあり得ることだとは思い
典厩寺と妻女山をあきらめ、松代まで戻ってきた。↓松代城下通り取りも敢えず、松代城跡の南まで戻ってきた。松代城の攻略は、わずか30分で行わなわねばならない。↓松代藩文武学校の門1855年(安政2)に開校。佐久間象山らが教鞭をとった。現在までほぼ開校当時の建物が残る。国史跡。↓旧白井家表門1846年(弘化3)建てられた長屋門。現在地の東南にあったものを移築保存。この辺りに佐久間象山像があるはずだが、有料エリア内か。また、一つ東の区画、真田公園内に真田信之像があるのだが、失念して
【稲姫】天正元年~元和六年(1573-1620)徳川四天王のひとり本多中書忠勝の娘。(「中書」は「中務大輔」の唐名)、幼名を於子亥、別名を小松殿、小松姫。母は阿知波玄鉄の娘・見量院。妹に奥平家昌室るり姫、弟に忠勝の跡を継いだ忠政(因みに忠政の正室は家康長子の岡崎信康と徳姫の間に生まれた熊姫)、末弟に🍶酒好きで不覚をとり、のち大坂(大阪)の一心寺に「酒封じの神」として崇められいる忠朝がいる。天正十五年(1587)秀吉の命により対立抗争を続けていた真田昌幸を家康の与力大名とすることで決着した
今回は松代の城下町を歩きます。下手にクルマで動いて住宅街に入り込もうものなら昨日の様なことになり兼ねないのでw噂には聞いていたがホントに道が狭くて、そこら中がクルマ一台ギリギリ通れるくらいの道幅というね。こんな感じで表通りは比較的広いんですけどね。城下案内板そしてその下には…子供までが知っている信之様の偉大なる功績。さすが地元だぜ素晴らしい。しばらく歩いてるとそれっぽい道に出ました。鳥居小路というそうです。←←←あっちかよ!!またしばらく歩きましてその
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☆松代藩主「真田信幸」の妻は家康の養女「小松姫」(長野市・まつしろ)**「見樹院」(小松姫の娘)中興開基の「禅福寺」**禅福寺松代(まつしろ)の郊外・大室(おおむろ)の里に、”牡丹寺”と呼ばれる禅寺がある。松代藩主・真田信幸(幸村の兄)の”娘=まさ”が中興開基した「禅福寺」である。「まさ=見樹院」の母は、徳川四天王=本田平八郎忠勝の娘
群馬の旅行、2日目は朝食後、ホテルをチェックアウトしてまずは沼田城に向かいました。沼田城といえば、大河ドラマ「真田丸」やNHKでドラマ化された池波正太郎の「真田太平記」でお馴染みの真田家の長男・真田信幸(信之)の城です。真田信幸といえば、クセ強な父・昌幸と弟・幸村や、鬼嫁で有名な妻・小松姫と、キャラ濃い家族に囲まれて影が薄いイメージがありますが、個人的には真田家で最も常識人で苦労人、というイメージなのはやっぱり「殿といっしょ」殿といっしょコミック全11巻完結セットAmazon(ア
R403をずんずん北上しますが、雪が無いですねー。遠くの山には見えるのですが・・・山間部に入ってくと・・・道路外に雪が目立ち始め・・・聖湖到着~。道路は除雪が行き届いており雪が全くなく、駐車場が今回初の雪面走行となりました・・・湖面は雪と氷に覆われています。12年前には湖面を歩いて真ん中まで行くという、暴挙に出ましたが・・・『冬の信州2』翌日。目指すは「松代大本営」のある松代。(多分今回初訪だと思います。)R19を北上、途中景色が良かったので車を停めてパチリ。多
今日は、「どうする家康」に登場する本多忠勝の娘・小松姫について書きます。小松姫とは小松姫は、天正元年(1573年)、父は、徳川家康の家臣・本多忠勝、母は側室・乙女の方(松下弥一娘・月量院)で、その長女(第1子)として生まれます。幼名は稲姫(いなひめ)、または於小亥(おねい)とも称されている。小松姫は、武勇で知れた父・本多忠勝に似て武家の女性として気性も非の打ち所がなく、また容姿端麗であったようで、武家の美女と呼ぶにまさしく、秀でた女性であったと言われています。小松姫が、14
さてお城EXPO2022の続きです🙂ここからは写真タイムです🙂武将わんこ🐕🦺北織さよちゃん🙂歌舞姫さん🙂かおりちゃん🙂小松姫さんと本多忠勝様と真田信之様🙂くノ一お初ちゃん🙂次回に続く
画像を3枚追加して再UPしました。前回の続きです。今回は本丸1です。下図J付近に久米民之助の銅像があります。久米民之助の解説板です。沼田藩土岐家家臣の家に生まれて、明治9年に現在の東大に入学して、卒業後に事業で成功して、荒れ果てた沼田城址を購入して、公園にするため、グラウンドやテニスコートを造成しますが、このために沼田城の遺跡をさらに破壊したようです。遺跡の保存という考えが無い時代でした。頂いたパンフレットより引用E付近から英霊殿方向は
上田城の中にある上田招魂社さんと真田神社さんをまわって上田城をサクッとまわってみました御城印もいただいてきました御城印をいただいたらクリアファイルもいただけましたこういうのは必ず顔を出して撮ります戦国屈指の名城ですね真田神社さんは門をくぐって行くと有ります門の上から鳩が呼ぶから真似してたらずっと鳩も真似してましたにゃんこ先生がいたら一発で食われちゃう次はゆっくりお城の散策に来ます真田信之の妻の小松姫のお墓にも行ってきました芳泉寺さんだけお留守で御朱印はいただけま
<3月27日>群馬県沼田市の街歩きで訪れた「沼田城址」。本丸の先端まで行って、戻って来ました。現在地は真ん丸の池の前です。「小松姫(稲姫)伝説」の立て札がありました。関ヶ原の戦いで東西に分かれた真田家。西軍についた昌幸・幸村が「孫の顔を見たい」と信之の妻「小松姫」が留守を守る沼田城に立ち寄ったそうですが、「敵味方になった以上、義父といえども城には入れられない」と断り、あとから、休息中の正覚寺へ連れて行ったという逸話です。立て札の先に大きな石碑が見えました。
須賀神社というのがありました。生方夫妻が茅の輪くぐりをした写真がありました。けやきももうすぐ紅葉するかもしれません。折口信夫の「まれびと」が出てきそうなところでした。生活古典。やはり祖先の霊とでもいうような不思議な力を感じます。(個人的な感想です)モーツアウルトでも聞きながら歩く気分でした。生方邸の垣根にはキキアがうっすら赤くなってました。真田の殿さまと小松姫の銅像がありました、まだ真新しいのですが、城が出来たらどうなるのでしょうか?(余計な心配だな)急に寒く
☆真田氏松代入部400年(長野市・まつしろ)松代城松代初代藩主「真田信幸(のぶゆき)」が最初に着工したのが、居城「松代城」武田信玄が上杉謙信と戦った「川中島合戦」の橋頭保「海津城」、大幅に修復し居城とした。長国寺(ちょうこくじ)真田氏の菩提寺・上田の「長谷寺(ちょうこくじ)」から住職を招き、松代へ真田家菩
<3月27日>群馬県沼田市の街歩きで訪れた「沼田城跡」。本丸の奥に小さな祠を見つけて行ってみました。ちょうど「五層の天守閣」があったあたりの場所です。社殿内は立ち入り禁止でした。社殿前からの眺めです。「上野國沼田城絵図」があります。「現在地」はちょうど本丸の真ん前あたりです。神社前に並ぶ二人の石像。「真田信之」と「小松姫」の像でした。
真田信之の正室、小松姫の墓を見学に浄土宗芳泉寺(長野県上田市)へ。真田昌幸の長男信幸(後に信之)は沼田城主として関が原の戦いを迎えました。犬伏の別れで信之は徳川方、昌幸・信繁(幸村)は豊臣方に加勢することになりました。『犬伏薬師堂~真田父子:犬伏の別れ~』NHK「真田丸」に便乗しそこなった企画03~犬伏薬師堂:真田父子:犬伏の別れ~NHK「真田丸」は九度山に豊臣方の使者が来て、いよいよクライマックスに近づい…ameblo.jp岩櫃城・上田城への帰路、沼田城に立ち寄って孫の顔が