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彼らに関して言えば、たとえなにを言おうとしようと書こうとことばを持たないのだから、自我がない。雄弁に議論してもだそれは指揮棒を振るってもそれは無音奏者たちのオーケストラだ。彼らには“あるようでないんだよ、ないようであるんだよ”。としぼくには言えないね。なにかを焚きつけるために時間をまずは壁に向かって嘆いてください。おおっと!
馬渕睦夫さんの天皇制に関する議論は、恐らく保守系右派に共通だろう。馬渕氏は、「天皇は日本国民をまとめる存在であり、統治すると言っても西欧の国王のような存在ではない。その原点に、ニニギノミコトが日本(豊葦原瑞穂の国)に降臨された時にアマテラスに授けられた神勅がある」と仰る。https://www.youtube.com/watch?v=76isINej6L8(画面アップ出来ず)アマテラスは、天壌無窮の神勅など三つの神勅を授けた(補足1)。その中の「就でまして知らせ」という言葉は、「日本に行
大熊信行の思想を語ることは、欺瞞的な左翼思想を批判することでもある。『現代の眼』の1962年7月号に発表された「祖国喪失の日本的状況ー戦後民主主義の虚妄を衝く」(『戦後民主主義批判増補版日本の虚妄』収録・論創社)は、今の我が国の深刻な状況を言い当てている。日本が「祖国と民族」の観念を失ったことを、大熊は正面から論じていたからである。その重大さに保守は気付いているが、進歩派にはそれが見当たらないというのだ。大熊の分析はリアルである。「近代の民主主義は、近代国家とともにあった。単なる『民主主義』
【よろしければ、ブログランキングにご協力下さいませ!】動画版解説をアップロードしました!タイトル【人は一人では【絶対に】生きて行けない、国家論と生き物としての人間】人は一人では【絶対に】生きて行けない、国家論と生き物としての人間人は、決して一人では生きて行けません!!動物としての人間から見直した、国家感(ナショナリズム)の解説youtu.be人は一人では【絶対に】生きて行けない、国家論と生き物としての人間人は一人では【絶対に】生きて行けない、国家論と生き物としての
佐々木毅さんの『プラトンの呪縛/二十世紀の哲学と政治』(講談社、1998年)を読了しました。著者は元東京大学総長で、日本学士院会員、文化勲章も受章している高名な政治学者。本作は読売論壇賞と和辻哲郎文化賞をダブル受賞した論文です。私は20年ほど前に一度読んだのですが、今回、思うところがあって再読してみた次第です。プラトンが『ポリテイア(国家)』で提示した国家像。それは民主主義を無知で無責任な大衆による統治として否定し、代わりに哲学者である王=哲人王が統治する権威主義的な体制を推奨するも
備忘録(2021年2月23日)随時更新戦前から続く、大国間の帝国主義的な市場争奪戦は決して終わってはいない。社会主義的な「協力による進歩」ではなく、資本主義の敵対的な「競争による進歩」の理念を我々が選択している限り、巨大資本の市場争奪戦は続き、戦争も無くなることはない。ネトウヨは、英国が再び東洋艦隊を組織しようとしていることを、中国包囲網が強化されると歓迎している。ネトウヨは、かつて日本海軍がマレー沖海戦で3機の爆撃機を失いながら、当時の英国東洋艦隊を殲滅したことを知らないのだろうか?欧米の
政治理論に関しては,経済学での『資本論』に匹敵するような傑作をマルクスは残さなかった。近代社会主義思想の成長につれ,国家そのものをなくすことが理想とされるようになった。マルクスも,将来社会では私的所有が廃止され階級と階級対立が除去されるとともに国家も消滅する,と言明していた。エングルスはまた,モーガン『古代社会』にならって,原始的な氏族制度を万人が自由で平等であり,国家の存在しなかった,共産主義的共同体として捉え,失われた過去を未来において高次復活するという歴史図式で,国家の死滅を
改訂版自序第一篇社会学の基礎概念第一章一般社会学の概念第一節社会学を[の]対象とする社会の概念第二節社会を本位とする思想第三節一般社会学の意義第四節社会学の位置一ロゴス[論理]社会学二フィジック[物理]社会学三エートス[倫理]社会学第二章社会学の内容と課題第一節タルド模倣の法則一社会の類型二模倣の論理的法則第二節社会の種類と分類第三章社会学の方法論第一節社会発達の要素
子供が親の相続者であるのは自然法に基づくのではなくて国法に基づくのである。なぜなら各人が一定の財産の主となりうるのはもっぱら国家の力のみによるのであるから。ゆえに自己の財産について処分しようとするある人の意志を有効にするその同じ力、同じ法によって、その意志はまた、国家が存続する限り、自己の死後にも有効性を失わぬのである。このようにして国家状態においては各人はその存命中に持っていた権利を死後にも保持しうる。自分の財産に関して何らかの処分をなしうるのは、今も言ったように、自分の力にではなく国家の力
要するに、王は国家の精神として、またこの会議体〔顧問官会議〕は精神の外的感覚あるいは国家の身体として考えられるべきである。この身体を通して精神は国家の状態を知り、またこの身体を通して精神は自己のため最善と認めたことを実行するのである。73スピノザによれば国民はある氏族に属し、この会議体は各氏族の代表者からなるのですべてぼ国民が間接的にではあれ国家の身体を構成し、その内奥に国家の精神としての王がいることになる。王の意志はこの身体を介して現実化する。しかし、規定するものは規定されるものの本性に反
非常事態宣言が5月末まで延長されました。感染者数を押さえ医療崩壊を防ぐための判断でしょうが経済の方は死に体です。これだけでかなりの倒産、失業が出るでしょう。人、物、金の動きを止めているのですから当たり前です。さらに1ヶ月延びれば致命的になる可能性があります。それでも終息しているという保障はありません。一旦終息したように見えてもスペイン風邪のときのように、2回、3回と流行が繰り返されることも考えられます。しかも仮に日本で収まっても他の国で収まっていないとす
だがもし法とは国法自身によって保持されうる国法と解し、罪とは国法によって禁じられている事柄と解するならば、つまりこれらの言葉をその本来の意味においてとるなら、国家が法に拘束されあるいは罪を犯しうるとは決して言うことはできない。思うに、国家が自らのために守るように拘束される諸規則ならびに恐怖と尊敬との諸原因は国法の領域には属さずに自然法の領域に属する。それらは(前節により)国法によってではなく戦争の権利によってのみ保持されうるからであり、また国家は、自然状態における人間が自己の権利のもとにありうる
人々はこう問うのが常である。最高権力は法に拘束されるかどうか、したがってまたそれは罪を犯しうるかどうか、と。だが、法ならびに罪という言葉は、国家の法にかんするばかりでなく、あらゆる自然物に普遍の規則、とりわけ理性の普遍的規則にも関するのが常であるから、国家が何の法にも拘束されない、すなわち罪を犯しえないと一概には言えない。なぜなら、それがなくては国家が国家として存続しえない諸法則あるいは諸規則に国家が少しも拘束されないとすれば、その場合国家は自然物としてではなく、架空物として見られなければならぬ
前章の一五節から明らかなように、国家すなわち最高権力に属する権利は、各人の力によってでなく、多数者あたかも一つの精神からのように導かれるの力によって決定される自然権そのものにほかならない。すなわち、各人が自然状態においてそうであるように、全国家の体軀と精神ともまた、実力をもってなしうるに相当するだけの権利を有する。ゆえに各個の国民あるいは臣民は、国家そのものが彼らより強力であればあるだけ、それだけ少なく権利をもつことになる(前章の一六節を見よ)。したがって各個の国民は、国家の共同の
精神が他人から欺かれうる限りにおいて判断力も他人の権利のもとにありうる。このことから精神は理性を正しく用いうる限りにおいてのみ自己の権利のもとにあるということが帰結される。のみならず、人間の力は身体のたくましさによって精神の強さによって評価されるべきであるから、この結論として理性において最もすぐれ、理性によって最も多く導かれる人々は、最も多く自己の権利のもとにあるということが生じる。だから私は、理性に導かれる限りにおいての人間をおよそ自由であると名付ける。こういう人間は、その限りにおいて、自己の
どの自然物についても、人は、それが現に存在すると存在しないとを問わず十全な観念をもちうる。ゆえにもろもろの自然物の存在のはじまりならびにその存続は、それらのもろもろの定義からは帰結されえない。なぜなら、それらのものの観念的本質は、それらのものが存在し始めた後と前とで同一だからである。こうして、それらのものの存在のはじまりがその本質から導き出されえないと同様に、その存続もまたそれからは導き出されえない。むしろ、それらが存在し始めるに要するのと同じ力が、その存続のために必要なのである。このことから、
https://youtu.be/d6NRQ0zES_k【頑固亭異聞】新型コロナ以後の世界-国家論キャスター:三輪和雄佐波優子富岡幸一郎
https://www.amazon.co.jp/dp/4004317479新型コロナウイルスにより、Jリーグが開催されないため、記録は書籍の感想ばかり。あとで振り返れば、時代の一つの記憶なのだろうけど、事態の収束が全く見えてこない。奮闘している医療関係者には、頭が下がる思いだし、自己防衛しかないのが辛いところだ。手洗いうがいをして、不要不急の外出を避ける以外にない。仕事をしないと給料はないし、いったいどうなることやら。のんきな政府は、各世帯にマスクを2枚配布と言っているだけ
長崎浩『政治の現象学あるいはアジテーターの遍歴史』(世界書院)反乱の集団から党の形成までを、発生論・生成論的に論じた組織論・運動論。元は1977年に出版された本の新装版。とても楽しく読んだのだが、本書の内容をどのように活かしていくかは、これからじっくり考えないといけない。政治の現象学あるいはアジテーターの遍歴史3,080円Amazon
『神曲』の『煉獄篇』は、第10歌からいよいよ煉獄本地に入ることになります。そして、その章歌は次のような詩句で書き始められています。曲がった道をまっすぐに見せかけるような邪悪(よこしま)な愛が心中にあるかぎりこの門は開かないが、その閾(しきい)をこえて私たちは中にはいった。すると、音をたてて門がまた閉まるのが聞こえたが、もしその時私が後ろを振り向いたならば、その過ちを償うに足るような言訳があっただろうか?(『煉獄篇』第10歌、1~6、平川祐弘訳)この上の詩行には、少し解
国会で集団的自衛権の行使を憲法違反であると証言した早稲田大学の長谷部恭男教授(東京大学名誉教授)は「国家というものは、突き詰めれば我々の頭の中にしかない約束事であるから、その存在を認めないという考え方をとることもできる」『憲法』)などと無責任なことを言っているし、千葉大学の岩間昭道教授に至っては、「個人の人権を保障するためには究極的には国家の消滅も肯定される」(『現代国家と憲法の原理』)と述べている。世界の常識から外れたこのような「国家論なき憲法学」は、一体、どこから生まれたのか。国家的緊急時
安岡正篤「歴史的社会的に背骨ができたのは史記と資治通鑑を読破したこと」資治通鑑の著者・司馬光は『宋名臣言行録』で「至誠の権化」と讃えられている。政争に敗れ、下野したがその人柄と学識を惜しみ、歴史書編纂の機会を与えたのが英宗、神宗の両皇帝。司馬光がこの大著を完成させた時の神宗の喜びは大きく「資治(政治に役立つ)通鑑(歴史を通して鑑となる)」との書名を与えた。「才は徳の資なり。徳は才の師なり」(才能は徳性を助けるもので、特性は才能の統帥するものである)千年以上の治乱興亡、栄枯盛衰の歴史を俯瞰して
これで貸し借りはなしだぜ!的な貨幣論本日はGW中ですので、貨幣論もくだけます。ええ、軽い気持ちで読んでください。できるだけ難しい用語なんぞ一切使わず、「これで1つ貸しだぜ!」「ちっ!お前に1つ借りを作っちまったな・・・」的な話だけで、貨幣論を説明してみようと思います。うん、かなり無謀だとは承知してるんです。途中で破綻したらごめんなさいをするのです(笑)貸し借りってなんでしょね?「これ、1つ借りだな」とかって日常でもある話だと思います。仕事でフォローしてもらったときとか、助けてもらっ
今日も動画ブログを作って見ました。今回マジなので、見てみて下さい。001お願いだから死なないで下さい!!https://youtu.be/j5IcGRBWX9o
amazonのお薦め第2弾です。(^_^);しかしながら、こういう経緯、参考「ネット通販市場を外資のamazonに牛耳らせてはいけない」参考「amazonの見事なマーケッティング」から、amazonで購入することは、お薦めしません。今回も強烈です。タイトルがそのものズバリ、「田母神俊雄おすすめ商品のご案内」オリジナルに敬称がついていなかったので、そのまま引用します。悪しからず。全部田母神俊雄さんで押してきた。ワシが田母神さんの後援会の会員だということは、知らないはず
自分の地方に利益誘導する国会議員は、中央にいる地方議員だ。国会議員は、国全体の利益を考えて政治を行わなければ。「国が繁栄するから地方も良くなった。」そういう風にしなければ、国が衰退する。極端なことを言えば、国が滅ぶ。国の無い民族は悲惨だ。ユダヤ人、クルド族、チベット民族、パレスチナ人など、種々、例がある。国が無くなると外交交渉ができなくなってしまう。「迫害され、虐殺されても、内政干渉するな。」と言われてしまう。まあ、日本国が無くなることは、まず考えられないとは